オヤジの魅力(?)(「ダンスフォーオール」(京都芸術センター)に参加して)

Posted 2010年02月02日 by bhiroshi
Categories: 身体表現, 雑感

まるで家の中で飼われているペットが自分を人間だと思ってしまうように、教員も大学で若い学生たちの中にいると自分まで若いと思ってしまいがちである。ダイエットをする人が体重計に乗って自分の肉体の真実を見つめるように、「オヤジ」と呼ばれる人たちの中に身を置いて自分の年齢を見つめる必要も感じていた。

年代・性別に分かれたグループで創作したダンスを踊るというこのワークショップに参加したのには、コンテンポラリーダンスの振付というものをどのようにやるのかを知りたいという理由の他にそういう狙いもあった。しかし、自分の姿を鏡に映したかのような「オヤジ」グループのメンバーを見たときは、正直言って少しショックであった。

2週間あまりの短期間で作り上げたダンスも、いよいよメイン会場での本番である。泣いても笑ってもこれで最後だ。誰からともなく「円陣を組もう」と声を掛け、輪になり手を重ねる。高校野球ではあるまいし、と思いながらも感動してしまう。

問題は、その後の他の全グループとの同時演技である。「オヤジ」グループは胸を抱えて「オッパイ、オッパイ」と声に出しながら足ふみをするのだ。一人だったら絶対やれないが他の皆に合わせなくてはならない。なぜそんな演出をしたかと聞いたら、知り合いに生まれた子供を見ていて男の子にとっては、何といってもオッパイなのだと思い知らされたという説明であった。

ダンスが始まる前のオープニングでは、後でダンスを踊る女性たちが全員で何か書いた半紙を床に置いていっては拾ったり、撒いたりする。見るとそこには、地名とともに幼稚園から大学まで、結婚、出産、子育て、介護、…といった「女の一生」が描かれている。部屋のふちに腰掛けて並んで紙を撒いているのは、女子高生らしき少女と70歳くらいの老婦人である。

前日見ることのできた他のグループのダンス(?)でオヤジたちに一番強烈な印象を残したのは、「談話室」とよばれる昔の小学校のままに机のならんだ部屋を利用した演技であった。教室の小学生のような仕草は、昔見て忘れられないタディウシュ・カントールの「死の教室」を思わせた。うめき声を上げ、泣き叫び、ある女性は認知症になった人のような言動を演じる・・・誰かが言ったが、老婦人が踊っている姿はそれだけで涙腺を緩ませてしまう。

ぼくたちのダンスといったら「幽体離脱」をイメージした「肩たたき」の仕草や飛ぶ鳥のまね、机や椅子を運ぶことで表す「労働」、それを集めて「秘密基地」を作り、そこから飛行機になって飛び立ち、最後は「オッパイ…」である。女性の一生に比べて情けなくなる程現実味のない「男の一生」に思えてくる。
一番緊張したのはダンスの最後でその会場にいるすべてのメンバーとのチークダンスである。相手を見つけるのが大変で、あぶれるとオヤジ同士で頬をくっつけなくてはならない。リハーサルのたびごとに異なった頬のぬくもりが残るのだが、本番では27歳の女性と頬をつけたまま踊ることができた。とても踊るのがうまくてこちらをリードしてくれる。後で聞いたら彼女は、普段はぼくがよく見る「維新派」のメンバーとして演じたり踊ったりしているとのこと、さらに感激した。

終わってから、これは「コンテンポラリーダンス」だったのだろうか?と思った。わかったのだ。ここで踊ったぼくもふくまれるダンサーたちは、日常生活を隠していても、顔の皺や薄くなった髪や脂肪や筋肉の付き具合、姿勢の歪み具合など、年数を経た実生活とその人の歴史が踊っているその体からにじみ出てくる。「男の背中が並んだ姿を見せたかった」とぼくらの振付の山田珠美さんが言ったように、いわばこれらのダンスは踊るそれぞれのメンバーの実人生を「引用」し、明倫小学校という「歴史」の残る建物を会場として作り上げた作品なのだ。

珠美さんがメインの舞台の前に言った「視野を広く取りながら踊ってください」という指示は、全体の空間を構成するものとして自分の動きを意識するようという、ダンサーに必要不可欠なものなだろうが、ぼくは同時に時間的にも自分のいる位置を意識することの必要性と理解した。無邪気に踊る4歳の女の子の可愛らしさとは別な意味で、老婦人やオカンやオヤジも本当に「カッコイイ」と思った。

振り付けを担当した北村茂美、山田珠美、砂連尾理の三人のみなさん、会場の運営にあたった多くの方々、寒い中来てくださった観客のみなさん本当にありがとうございました。(番場 寛)

「擬人化」への疑問

Posted 2010年01月28日 by bhiroshi
Categories: フランス, 身体表現, 雑感

 今大学は期末試験の真っただ中であり、しかも卒論の口述試験も始まっている。必死で書き上げた学生たちの熱意に報いるだけの読みで応えたいと思うだけにこちらも最大の努力を払う。成績をつけなくてはいけないと思っているうちに入試も迫っている。大学教員にとってはこんなブログなど書いている時間はない筈だ。
 
それなのにふとみつけたチラシから、ある団体の主催するコンテンポラリーダンスのワークショップに参加してしまった。「おやじ」という範疇に入る人たちだけで共同作業でダンスを作り上げて踊るだけでなく、31日には観客の前で披露するのだという。普通だったら絶対参加しないはずなのに、創作ダンスの振り付けというものをどのようにやるのか知りたいという好奇心だけで参加してしまい、体のあちこちに痛みの残る体で忙しい毎日を送っている。
 
実は、ひと月ほど前から、日経12月19日に載っていた「コトバの鏡」というコラム欄の「萌え擬人化」という記事がずっと気にかかっている。著者、福光恵氏は、犬や猫やアヒルが人間のように話すテレビのコマーシャルを始め、日常にあふれている「擬人化」を指摘し、その根底には「森羅万象に魂が宿る」と考える日本文化の特徴があると分析している。
 
このコラムで驚かされたのは、ここ数年、人でないものを「『もしも人だったら』と考えて、萌え系のイラスト」にする「萌え擬人化」と呼ばれるジャンルが盛り上がっているのだということである。日常のあらゆるところであふれている「擬人化」にあらためてどうしてなのだろうと考え込んでしまった。
 
それに関連して思い出すのは昨年12月6日に「京都芸術センター」で行われたフランス人の振付家・演出家、ジゼル・ヴィエンヌさんの講演である。彼女は過去に上演した人形を使った自分の演劇的パフォーマンスの一部を見せたとき「舞台で披露される観客が見る風景はその観客の心を投影したものになる」というようなことを述べた。そのときたまたまアラン・ロブグリエ夫人の話が出たので、ぼくは、ヌーヴォー・ロマンの小説家であるロブ・グリエは心象風景の反映のような風景描写(たとえば「空が泣いていた」というような)の嘘を告発していたのではないかと反論した。
 
ジゼルさんは「確かに初期のロブ・グリエはそう書いているが、幾何学的で心理を反映していないと普通言われている描写(たとえば『嫉妬』という作品の描写)がいかに主観的な描写であるかと反論した。
 
昔「擬人法」という表現法を初めて習った時、なんてすばらしいのだろうと素朴に思った。しかし考えてみれば、「葉っぱがいやいやをしながら落ちてくる」筈がないのだ。問題はなぜ「擬人法」は人間に、安易にある種の「共感」とそれにともなう「快感」を生むのだろうかという点にあるのだろう。
 
ふと思った。その思考パターンをもっと推し進めれば「人を別の人に見立てる擬人法」というものだって成立するのではないか? つまりお腹が突き出て、髪も薄くなり、動作ものろくなった「オヤジ」でさえ、「カッコイイ」「カワイイ」という「萌え」の対象になるかもしれない・・・無理か。 (番場 寛)

理想のクラスコンパ

Posted 2010年01月22日 by bhiroshi
Categories: フランス, 雑感

19日はゼミの最後の授業であり、各自が提出した卒論の結論を中心とした報告を行った。就職が決まった学生の企業の研修が始まったせいか、クラスコンパの日がなかなか決められなかった。ある学生がその授業の日しか休めないということで授業後にコンパを行うことになった。ふと大学から歩いて数分のところに鍋ができる店があることを思い出し、学生と一緒に行き一週間前に予約したのだった。
 
前にこのブログで、ぼくにとってのパリの「理想のレストラン」について書いたが、思いがけなくも、この日のクラスコンパは長い間思い描いていた「理想のコンパ」であった。隣り合った学生たちだけで会話をかわすのではなく、15人という参加者全体に言葉がうねりのように寄せては帰っていく。みな微笑み歓声を上げる。
 
思えば奇跡のように偶然が重なったからなのだろう。まず論文を提出し、全員の前で自信を持って報告できたこと。「鍋」という、作ること、とりわけることを共同作業として行うことにより、必然的に言葉を交換し、食べることがより楽しくなる。

ブリア・サヴァランの「人を食事に招くということは、その人がわが家にいるあいだずっとその幸福をひきうけることである」という言葉を身をもって経験したような幸福な時間だった。
 
店も貸切りにしてもらえた。また、ビールが「瓶ビール」しかなかったことが幸いした。ぼくにはそれほど心を開いてはいないと思っていた学生から「先生どうぞ」という言葉とともに注いでもらった時、笑われてしまうかもしれないが、ふとこんなことは何年ぶりのことだろうと、胸が少し熱くなった。現在は殆どが「チューハイ」やカクテルなど自己充足してしまう飲み方が主流になっていたし、ワインでも学生から注いでもらうということは殆どなかったからだ。
 
そして何よりももっとも大きな偶然は、将来的にこんなに和気あいあいとした関係になれる学生たちが、2年半前にたまたまこのクラスに集まってくれたからだろう。「フランス文化を学ぶ」という目的がそのきっかけだったとしたなら嬉しい。
 
鍋を底まで空にした後、何度も何度も各自が持ってきたカメラで記念撮影をした。店を出たところであらためて店の名前を見たら「とれびあん」と書かれていてふたたび笑った。まさにTrès bien!なクラスコンパだった。お店のみなさん遅くまでありがとうございました。 (番場 寛)

チベットの民話(4)

Posted 2010年01月18日 by yungdrung
Categories: チベット, 授業

チベット専門ゼミの授業成果として、今回もBlo bzang ‘jam dpal & Tshe ring sgrol ma (eds.), A khu ston pa. Grong khyer lha sa’i phyogs sgrig khag gsum rtsom sgrig pu’u, Grong khyer lha sa’i mang tshogs sgyu rtsal khang, 2001. 所収の笑い話を紹介します。

ヨーグルトご飯を舐める

昔、1人の先生と1人の弟子がいました。先生がどこかに行く時に弟子を怖がらせるために、ヨーグルトご飯を指さして「これを食べると死にます。あれを舐めると狂います。これを食べると病気になります。私のターラー花をダメにしたら罰を与えます」と言い、出掛けました。弟子はすぐにその戸を閉め、そのターラー花をメチャメチャにし、奥に行ってヨーグルトご飯を残らず食べて眠りにつきました。

それから、弟子の彼は先生が帰ってくる頃を見計らい、戸の後ろで泣く振りをして座っていました。先生が帰ってきて、弟子の彼に「何かあったのか」と尋ねた時、弟子の彼は泣きながら先生に「ご命令を守ることが出来ませんでした。今朝、先生がお帰りになると思い、お部屋を掃除していた時にターラー花に小鳥さんがおとまりになられまして、ネコさんと彼の2人はお遊びをしていらして花をメチャメチャにしてしまいました。先生が来られたら私をお殴られになると思い、怖さに耐えられず先生が死ぬとおっしゃった、それを食べたら死ぬと考えて食べたのですが、死にませんでした。また、狂うとおっしゃったそれを舐めたのですが、狂いませんでした。もう、お叱りを受けないくらいにはなるのではないかと考えて、病気になると言ったそれを食べても病気にはなりませんでした」と泣いて昏倒したふりをしました。先生は言葉なく「さあ、泣いているな。こっちに来なさい」と言いました。(澤井志保美 訳)

標高や気候の関係で米が育たないチベットで、それは希少なもので、ハレの日のごちそうでした。私の友人のチベット人(西チベット出身)の父母は「昔お米を食べたことなかった」と言っていたそうです。今は、中国から輸入され、希少なものでは無くなってきました。チベット人は、ネーという麦を炒めて粉にした「ツァムパ」を主食として食べます。もっとも、日本人が米をそのまま食べず焚いてご飯にするように、チベット人は、ツァムパにお茶やバター、チーズや砂糖などを混ぜ「調理」し団子を作ってこれを食べます。その団子のことを「パー」といいます。ツァムパを食べるということが、チベット人のアイデンティティーの一つとなっています。

ごちそうとしてのお米料理の一つが「ショムデー」つまりヨーグルトご飯です。炊いたご飯にヨーグルトをかけ、砂糖や「トマ」と呼ばれる甘い小さな芋を入れ、混ぜて食べます。また同じく炊いたご飯に、バターと砂糖、トマや干しぶどうなどを混ぜた「デースィー」というのもあります。

青海省の西寧にあるチベット・レストランで出て来た「デースィー」。黒いのが「トマ」

文中の「ターラー花」とは、原文の「སྒྲོལ་མ་མེ་ཏོག་(sgrol ma me tog)」をそのまま訳したものです(sgrol maが女神「ターラー」、me togが花の意)。具体的にどのような花なのかわかりません。

(三宅 伸一郎)

チベットの民話(3)

Posted 2010年01月16日 by yungdrung
Categories: チベット, 授業

チベット専門ゼミの授業成果として、今回もBlo bzang ‘jam dpal & Tshe ring sgrol ma (eds.), A khu ston pa. Grong khyer lha sa’i phyogs sgrig khag gsum rtsom sgrig pu’u, Grong khyer lha sa’i mang tshogs sgyu rtsal khang, 2001. 所収の笑い話を紹介します。

アク・トンバの「クソ喰らえ」

昔々、アク・トンバがラサからツェル・デチェン地方から帰るとき、何人かの旅人と会いました。彼ら旅人が道を行くとき、アク・トンバは喧嘩を売り、旅人達に「クソ喰らえ」と言いました。旅人達は耐えられず、すぐにアク・トンバを捕まえて、デチェン県庁に報告しました。すると、県庁はアク・トンバに「クソ喰らえ」と言った理由が何であるのか尋問し、アクは次のように正直に話を申し上げました。「彼らと私にいさかいは何もありませんでした。私から理由もなしに彼らに『クソ喰らえ』と言いました。デチェン県庁のどんなご処分もお受けします」と。県庁は旅人達が集まっている場所で「そんなにたいしたことではないが、アク・トンバは分をわきまえず理由もなく、旅人達に『クソ喰らえ』と言った罪により、アク・トンバは便所の下に立つべし。お前たち旅人はアク・トンバの頭の上に大便をすべし」という罰を下し、アクはそれを受け入れ、旅人達に「あなた達は、私の頭に大便をして下さい。県庁の判決に従います。しかし、判決には大便をすること以外、小便をしても良い、とはありせん。小便を一滴でもすれば、私の手に掴んだこの槍であなた達のお尻を確実に突き刺します」と言うので、彼らみんな小便をしてしまうのではないかと恐れ、大便することができませんでした。(澤井志保美訳)

(三宅 伸一郎)

「専門の技法」研究発表会

Posted 2010年01月12日 by otaniis
Categories: イベント

大谷大学では、1回生の必須授業として「専門の技法」という授業があります。国際文化学科の「専門の技法」の授業では、「読む」「調べる」「話す」「聞く」「見る」といった、2回生以降の大学での学び、とくに国際文化学科の学生としての学びのために必要な技法を学びます。

今年度の「専門の技法」の授業では、初めての試みとして、下記の要領で研究発表会を開催することになりました。当該授業の4クラスから選出された代表(計8グループ)が、「文化の実際とイメージのずれ」「好きなものに見る国際文化」のいずれかをテーマに、レジュメを使用した口頭発表をおこない、日頃の学習成果を披露します。

  国際文化学科「専門の技法」研究発表会
  日時:2010年1月14日(木)12時50分〜16時
  場所:1411教室

直近の案内となり申し訳ありませんが、
ご関心のある方は、どうぞご参加ください。

岩松 了演出「マレーヒルの幻影」を観る―差異と反復(4)―

Posted 2010年01月10日 by bhiroshi
Categories: 授業, 身体表現, 雑感

 12日締め切りの卒論指導もいよいよ大詰めである。床の上をハイハイしていた赤ちゃんがようやく立ち、よちよち歩きを始めたのを見つめている母親のような気分だ。やがてその足取りも華麗になりダンスを始めたかのような文章になり、もう完成して提出した学生がいる一方で、思考がもつれてどう書いていいか分からなくなったと嘆く学生もいる。こちらもすぐに名案が出せなくても、そうした学生と向かい合って、ぽつりぽつりと頭に浮かぶ考えを述べていく。すると突然、学生の顔が輝き「そうなんだ」と叫ぶ。逆に学生が何気なく発した言葉からこちらに思いがけない発想が生まれることもある。ふたりの対話の痕跡として刻まれてゆく論文の文章(エクリチュール)。ふとこれは幸福な時間なのではないか?こんな時間が永遠に続けばいい、などと思ってしまいそうになる。
 
そんな気持ちを振り切って数か月も前にチケットを買った劇を観にいく。岩松了の演出で主演が麻生久美子とARATAだからだ。
 多少予想はしていたが、話の展開はステレオタイプでむしろ退屈だった。 昔恋人であった男(ARATA)が女(麻生)と兵役で別れ、帰国したときには女はすでに別の男と結婚している。女を見返すために金持ちになることだけを目指し、成功しニューヨークで生活している。そこでかつての恋人に再会する。
 いわゆる一人の女を挟んで夫と恋人(元恋人)が三角関係を形成するもので、たとえばアラン・レネという監督は「メロ」という映画を撮っている。それに「金」と「愛」という異質なものでありながら互いに影響し合う二つをこれみよがしなほど見せつけている。それは劇ではもうひとつのカップル、田中(荒川良良)と金のためにその夫にかくれて娼婦をしているスージー(市川実和子)がちょうど主人公のカップルの関係の陰画をなしている。
 構図もありきたりで、普通だったら退屈で3時間弱もの長さに耐えられない筈なのに最後まで緊張感を失わずに観ることができたのは、岩松の脚本の台詞・演出と役者の演技によるものであろう。
 麻生久美子は舞台でも期待を裏切らなかった。数回だが演劇のワークショップに参加した経験から分かることがいくつかある。たとえば動作を伴わないで台詞だけを言う場合、姿勢はどうすればいいのだろう。何よりも手が邪魔でどうしていいか分からなくなる。
 麻生も他の俳優たちも見事だった。広い舞台で相手と向かい合い、とうとうと長い台詞を言うときでも腕も手も台詞と合っていた。顔が小さくしか見えない席であったので発見したことだが、彼女の魅力の一つに少し鼻にかかったような声も大きいということが分かった。
 劇の翌日考えるのは同じ問題である。男(ARATA)を苦しめているのは今も愛している女が自分以外の男と結婚していることである。だが、その男は妻が本当に愛しているのは自分ではなく、妻が自分を捨ててその昔の恋人のところに走るのではないかと恐れている。
恋人は結婚という形で「所有」できなかったことで苦しむが夫は結婚しているのにその妻の心をどうすることもできなくて苦しんでいる。では妻はというと、ひょっとして福山雅治が「永遠の初恋」と歌う気持ちにいくらかは近いのかもしれない。
 夫婦や恋人として幸せに暮らしているカップルも、その相手の自分に対する想いの確信の根拠は何かと自問すれば、この劇のような地獄に陥ることであろう。
 どうして「あの人が好きだ」という気持ちだけを抱いて人は幸せになれないのだろう。どうしたら「所有」という欲望から自由になれるのだろう?
 メロドラマの「幻影」から、現実に目を向ければ、卒論の締め切りはいよいよあさってである。日曜だがこれから卒論指導に大学に行き、その後演劇のワークショップに参加し拙い劇の練習をする。学生のみなさん、あと数日で終わってしまうこんなに苦しくて幸せな時間は恋愛以外には卒論しかないよ、頑張ろう! (番場 寛)

総合研究室特別開室のお知らせ

Posted 2010年01月05日 by tingmo
Categories: ニュース

明けましておめでとうございます。みなさんはどんなお正月を過ごされましたか?

卒業論文の提出を控えた4回生にとっては、お正月どころじゃなかったかもしれませんね。

さて、そんな4回生のみなさんに、総合研究室特別開室のお知らせです。

総合研究室は、1/6(水)、1/10(日)、1/11(月)の3日間、特別開室をしています。開室時間は、10:00〜17:30です(その他、平日は平常通り)。

提出間際は研究室が大変混み合います。前もってプリントアウトしたり、穴を空けたりしましょう。

提出まであと一週間、納得のいくものに仕上げてください!!

200Q年最後の卒論指導

Posted 2009年12月29日 by bhiroshi
Categories: フランス, 授業

もう大学は休みに入っており、校内は明かりも最小限に抑えられている中26日と28日に研究室で卒論指導を行った。学生には、授業のある期間に一部でもいいから書いたところから見せるようにと伝えてあるのだが、数人を除いて見せに来てなかった。
 
それがさすがに休みに入り、年明けの12日締め切りということで、ようやく切迫した感じになったのだろう。両日でゼミの殆どの学生が書けた限りの文章を持ってきて、行き詰っている箇所について相談した。4年生のゼミを持つのは3年ぶりだ。今年は卒論を指導しているという苦労と同時に喜びを感じることができないもどかしさを感じていたが、ようやくそうした感情を味わうことができた。

例の「化粧について」研究している学生は「見せる化粧」と「隠す化粧」を調べていくうちに両者が結局同じことに気づいて困ったと言うので、そこに到達したなら素晴らしいことなのでそこに至るまでを資料で裏付けながら論理的に説明するようにとアドバイスした。「ファッションにおけるスタイル」について研究している学生にも「グリーンツーリズム」という滞在型の田舎暮らしについて調べている学生にも「サッカーについて」書いている学生にも、文章にしたときの章ごとの連結に説得力をもたせるようにと伝えた。
 
マリー・アントワネットやナポレオンやジャンヌ・ダルクについて書いている学生たちには、現代に生き、今論文を書いているあなたにとってその人物はどういう意味を持っているのかということを常に自分に問いかけながら論理を展開するようにと伝えた。
 
2万字というのは量的にかなり大変だと思うのだが、「昔話について」研究している学生のように、字数をオーバーしそうだなどという嬉しい悩みを相談する学生も出てきた。ゴダールについて書いている学生も見違えるほど文章が良くなった。進歩する姿を目の当たりにすることができるのは何度経験しても嬉しい。

 「ミニスカートの文化」について書いている学生も、「祭りについて」研究している学生と同様、文章にすることで苦しんでいる。一緒に来た彼女の友人が「いかに現代のミニスカートが多様に進化しているか」を熱く語ってくれたので、雑誌を資料にして、過去のそれと比較して最後の章で論じたら、などと言ってしまったが、彼女が書けるかどうかは少し気がかりだ。

そうなのだ。君たちだけじゃない。論文を書くのは誰だって苦しい。でも楽しいだろう? 少なくとも2人の先生が隅から隅まで読んでくれるんだから君たちの方が幸せだ。
 
ぼくも年明けに国際仏教研究班の先生方の前で行う発表を「宗教のディスクールについての試論」というテーマで準備していてなかなか進まなくて苦しんでいる。お互いに明るい笑顔で新年に再会できるよう祈っているよ。
(明日からネットにつなげない田舎で過ごすので他の先生方が書いてくださらなければ、このブログが更新されるのは授業が再開してからになります。みなさんよいお年をお迎えください。)(番場 寛)

「本当の恋」はどこにある(200Q年のクリスマス、「ボーイ・ミーツ・ガール」)

Posted 2009年12月27日 by bhiroshi
Categories: フランス, 授業, 映画, 雑感

このブログを読んだという遠く離れている友人がメールをくれた。よく書けているがあなたは、頭で恋愛をしているだけで、だから実際の恋愛ができないのだという。時々電話で聞かせてもらう彼女の現状からみればそうなるのかなあと思ったが、反論したい気持ちも湧いた。確か「本当の恋は幽霊と同じで、それについて話す人はいるのに、だれもそれを見た人はいない」というようなことを書いたのはラ・ロシュフコーだったと思う。では「本当の恋」はどこにあるのだろうか?
 
先日、国際文化特殊講義という授業で、「気狂いピエロ」を説明した回に続けて、レオス・カラックスが22歳で撮影し、カンヌ映画祭でゴダールの再来と絶賛された「ボーイ・ミーツ・ガール」という映画を見せた。
 
眠っているときすばらしい夢を見て、目覚めたときそれを映画化しようと思うのだけれど、何も覚えていないヒッチコックが、ある日いい考えを思いつく。枕もとにノートを置いておくのだ。そしてある日、すばらしい夢を見たが思い出せないことに気づく。突然ノートを置いていたことを思い出しそれを覗きこむ。そこに書いてあったのはたった一行、「ボーイ・ミーツ・ガール」だったという。
 
カラックスがこの逸話にもとづきこの映画を作ったのだとしたなら、二つの狙いがあったのだろう。つまりありきたりの恋愛映画というストーリーを使いながら、ヒッチコックも作り得なかった「夢のような映画」を作るという野心である。
 
この映画の主人公二人が出会い、再会するという筋は単純なのだが、見終わった学生たちの感想や意見を読むと殆どの学生が戸惑っていた。「気狂いピエロ」のマリアンヌ(アンナ・カリーナ)の裏切りの心理も良く分かると書いてぼくを驚かせた女子学生も、この映画の人物の心理は分からないと書いていた。

 恋人フロランスを親友に奪われた男の子、アレックス(ドゥニ・ラヴァン)が偶然通りがかった建物の前でインターフォン越しに恋愛の終わりを告げる男と部屋に残された若い女、ミレーユ(ミレイユ・ペリエ)の会話を聞く。そして男が落としたパーティーの案内状を拾ったアレックスがパーティー会場でミレーユと初めて出会い、不思議な会話を交わす。
 
おそらく学生たちを一番戸惑わせるのはミレーユに魅かれているらしいアレックスが、フロランスとの思い出を延々と目の前にいるミレーユに語るシーンであろう。驚かされるのはそのフロランスもアレックスに昔の恋人とのことを語ったという。そしてすでに心の離れてしまった恋人を忘れられないミレーユはハサミで自殺をしてしまい、それを助けようとしたアレックスも一緒にそのハサミで傷つき崩れ落ちる。
 
ストーリーを説明するためではなく、まるで「語ること」がそのまま恋なのだ、言い換えれば、本当の恋は語りのうちにしか存在しないというかのようにアレックスは語る。
 
もう大学は休みに入っているのだが卒論の指導で大学に行った。つい好奇心に駆られてクリスマスはどうでしたか?などと尋ねてしまった。意外な答えだった。それはここでは書かないが、ぼくを含めたおそらく大部分の寂しいクリスマスをおくった人と似た過ごし方であった。勿論大切な人と楽しく過ごした人もいたことであろう。しかし多くの人はどこかで聞かされるクリスマスの物語にみな苦しめられているのではないか? 「本当のクリスマス」は語らいの中にしかないのだとしたなら、語りであなた自身の「本当のクリスマス」を語れるはずだ。
 
おそらく「実際の恋」を生きている友人も、どんなにそれに満足しているとしても、それを語らずにはおれないという点では「頭で恋愛をしている」のだと思う。                                                                                       (番場 寛)

ロメオ・カステルッチ「神曲」の「天国篇・煉獄篇」を見る(続き)

Posted 2009年12月23日 by bhiroshi
Categories: 身体表現, 雑感

今はゼミの学生たちは卒業論文の追い込みで忙しい。その中に「化粧について」研究している学生がいるが、彼女によれば化粧には「見せる化粧」とともに「隠す化粧」があるという。まるで一見正反対のようだがよく考えてみると何らかの現実を覆い隠し、見せたい現実を演出しようという点では「見せる」も「隠す」も同じ行為なのだろう。今二つの作品を振り返って分析を試みるときまず浮かぶのはそのことである。
 舞台ではなくインスタレーションであり観る時間は1分から5分と予告された「天国篇」(にしすがも創造館にて)は予想がつかなかった。並んでようやく待合室の椅子に座って自分の順番がくるのをまつ。まるで映画「ワンダフル・ライフ」で死者たちがひとりずつ天国へ行くための質問を受ける光景を思い出させる。
 自分が呼ばれ黒幕をくぐるとほのかな明かりのほかは漆黒の何もない部屋に出る。そこを歩いてゆくとさらに光であふれた小さな部屋にでる。そこにも何もなく人が通れるくらいの丸い入り口がある。戸惑うが背をかがめそこに入ると、真っ暗の部屋で前に滝のように水が落ちており、湯気がたっている。上を見ると上半身だけ見える男らしい白い影が動いているのが映し出されている。それはまるでもがいているようにも見える。これが天国なのだろう。
 7時から始まる「煉獄篇」の舞台のある世田谷パブリックシアターへと急ぐ。一番前の席で最初字幕が上の方に映し出されたので困ったと思ったが、すぐに舞台の真中に翻訳が映し出されたのでほっとした(ほとんど目に見えない透明のスクリーンに映し出す方法)。
 驚いたのは、カステルッチの描く「煉獄」は母親と子供一見現代の普通の家庭なのだ。異様な展開を予感させるのは子の「今晩あの人は来るの?」という質問であり、夜遅く戻ってきたのはエリートサラリーマンの父親らしき男で、妻と普通の会話を始める。観客が少し変だと思い始めるのは会話の翻訳とは別に、目で見て分かることを説明する書き割りが、場面中央の透明なスクリーンに表示されることだ。
 劇が突然悲劇へと急展開するのは、男の「わたしの帽子(hut)を持ってきてくれ」と妻に頼む瞬間からである。妻は「あなた今夜だけはそれはやめて」と懇願するが男は繰り返し、妻は泣きじゃくる。やがて男は自分で帽子を取りに行き、妻に息子を呼びにやらせる。現れた息子におきまりの学校のことその他について尋ねた後、息子にカウボーイごっこをやろうと誘い、階段を上り二人で別の部屋へ行く。
 一番驚かされるのは客席からは誰もいなくなった居間しか見えず、別の部屋で行われていることは漏れてくる声しか聞こえないのだ。それでいて中央には大きく「音楽」とだけ書かれた文字だけがスクリーンに映し出される。ここにきて演出の巧みさが分かる。つまりそれまで目で見て分かることを書き割りで示しているようなスクリーンの表示は観客に聞こえない音楽を想像力で聞かせ、そこには見えていない父親による息子への恐ろしい性的虐待を、見えている以上になまなましく想像させる、いや眼に隠すことでそれ以上に見えない光景を見せつけているのだ。
 眼には見えないところでなされた性的暴力の後、父親はピアノの鍵盤を開け掌を上に向け、贖罪の仕草をする。血を流した息子が現れ、父親の肩に手を載せ、やがて抱擁する。美しいピアノ曲が流れるのは、その瞬間だけである。
 幕が降りた後、降りてきた円状のスクリーンには水中で揺らぐかのような大きな花が映し出される。スクリーン上に説明されるのは息子が聞いた父親の言葉という書き割りである。(後でDVDで確認して最初の場面の台所に蘭が飾られていたことに気づいた。)そのシーンの最後には竹を思わせる緑の茎の間をさ迷う父親が映し出され、やがて遠くで小さく踊るように動く父親が見える。
 スクリーンが上がった時に舞台で踊るのはひきつるような動きで踊る父親の格好をした男だが、姿は別の男になっている。舞台に現れた息子は成人しており見つめるばかりである。そこに今度は透明な丸い円が降りてくる。最初そこに黒い大小の円が逆方向に回転しており、そこにいる父と息子を暗示しているが、つぎに黒いインクが出てきて二つの方向に回転しながらやがて人間の瞳のように真ん中を残し周りを塗りつぶす。そのあいだ痙攣のようにもがく父親を見つめていた息子が押さえつけるのか抱擁するのかわからない動作でのしかかる。最後は残された息子が父親と同じく痙攣のように踊る。
 登場人物は映し出される書き割りのような説明ではなぜ、それぞれ第一星、第二星、第三星と呼ばれるのかを始め、謎に満ちている作品だ。ステレオタイプに演じられている家庭を表示する書き割りが途中からは説明的でなく、もう一つの舞台として機能し、普通だったらえもいわれぬ美しさと感じられる花の映像が、雷鳴や叫びにも似た騒音を交えて流されることで不気味な恐怖を喚起するものへと変わっている。
 フロイトは「不気味なもの」という論文で「不気味なもの」とは慣れ親しんだものが再び回帰してきたものだと言っていた。家庭も花もそれが何らかの抑圧を経て回帰してくるときは耐えられないほどの不気味なものとなる。
 では最初に述べた学生の取り組む「化粧」についてはどうなるのだろうか、「隠す」ことで「見せる以上に見せる」のが「化粧」であり、それもある意味では不気味なことであろう。(補足ですが、雑誌SPAでこの作品を紹介してくださった岩城京子さんには感謝致します)。
 同日この二つの作品の直前に見た『田園に死す』が優れた演出も数多くあった(たとえばシニフィアンの連鎖のような台詞まわし、主人公が何人かに分裂するところなど)のに、今殆ど印象に残ってないのは、観客の想像力を信じていないことで、「より見せるために隠すこと」をせず、すべてを台詞と演技で埋め尽くしたせいはないかと思った。(番場 寛)

12月19日のカンゲキツアー(ロメオ・カステルッチ『神曲』他)

Posted 2009年12月22日 by bhiroshi
Categories: 展覧会, 身体表現, 雑感

このとてつもない忙しい時期にもかかわらず、朝7時42分の新幹線に乗り、東京に行ったのは、雑誌で目にした『神曲』三部作の紹介の記事のせいである。普通、日本に呼ぶことのできる劇やダンスの作品は、その評価がすでに高く、製作者がその力量の頂点に達している場合が殆どであるのに対し、この作者であるロメオ・カステルッチは評価の頂点のへの途上にあるという紹介であった。しかもこの『神曲』は2008年のアヴィニョン演劇祭で圧倒的な評価を受けたという。
 
是が非でも見にいかなくてはと思った。日程を調べると、「天国篇」と「煉獄篇」を同日に見ることができる。あわててネットで予約した。また同日の2時には下北沢の「スズナリ」で、寺山修司の『田園に死す』を天野天街が舞台化したものも当日券があるということで、それも見ることにする。

せっかく東京に行くのだから何か興味のある展覧会も見ようと思い、3本の劇・インスタレーションの前に森美術館(六本木)で「医学と芸術展」を見る。
 
時間を気にしながら一筆書きのように東京を駆け巡って展覧会と3本の劇・インスタレーションを観終えて、頭の中に混在している印象を整理すると、今残っているテーマは「老いと死」である。
 
森美術館で見たもので印象深かったのは、やなぎみわの「The three fates 2008年」である。3人の少女たちのすぐ横に並べられたのは、乳房が垂れ、皺がより、髪は白髪になった3人の老婆である。展示は右に少女たちの写真が置かれていたが、左から右に見れば若返るという解説が見事だった。同じ発想で別の作者により製作されたのは、白い若い女性の顔の彫刻なのだが、空気を抜かれることで一気に老婆に変身するものだ。
 
またきれいな模様のウエディングドレスが目についたがそれは「記念日」という作品であった。近くで見ると貼り付けられていたのは6500個もの「経口避妊薬」であった。解説者も指摘しているが、この「結婚」と「避妊」という表面上の対立をどのように考えるべきだろうか?
 
この展覧会で一番衝撃的だったのは、年齢も性も異なる人物の顔の大きく引き伸ばされた何枚かの写真である。左側は目を開いており、右は眠ったように眼を閉じている。死後すぐに撮られた写真だという。それぞれの死に直面した人の経歴が添えられていたが、不思議なことに生きていたときの写真ではなく、死んだ直後の目を閉じた写真の方がより生々しくまるで生きているように感じられたことだ。その中でも生まれて数年もたっていない少女の顔である。天使も死ぬのだろうかと思わずにおれない写真であった。

前にこのブログで「セイの美しい「醜さ」から目をそらさないで」と書いたが、「生」のリアリティを感じにくい現代にあってそれを感じることのできるのは、「若さ」と「老い」、「誕生」と「死」を暴力的に接近させるときなのであろう。(次回へ続きます) (番場 寛)

「恋重荷」を観る

Posted 2009年12月09日 by bhiroshi
Categories: 身体表現, 雑感

先週、金曜日にファスビンダー原作、田中章義演出の「塵、都会、死」という劇を観て、日曜日に三浦基演出の「追伸」と題された、A.アルト-のテキストに基づく朗読劇を見たが、それに挟まるように土曜日に、河村能楽堂で能を観た。
 
そこで観た能のひとつの「恋重荷(こいのおもに)」という作品にまず惹かれたのは、その題目である。シテは老人で、かれが恋するのは高貴な身分の若い女性だという設定だけでもうイメージが広がってしまった。
 
手持ちのテキストの中では岩波古典文学大系版にしか載っていなかったが、そこで演じられたものとはかなり謡が異なっているようだった。能はときどきではあるが、何年も前から見ており、2年ほど前から直に先生につき習っているのだが、良く見る現代劇のようには、なかなか分からない。
 
それでもこの「恋重荷」については十分楽しめた。その天皇の女御に恋した庭師である老人は苦しさのあまり、その恋を忘れようとする。しかしその恋を忘れることは、それがかなわないことよりもっと耐えがたいのだという。そこで出される試練が「恋重荷」という物体の箱である。それを持ち上げて何度が庭をめぐることができれば、もういちど老人の前にその女御は姿をあらわすと言う。老人は必死にそれを持ち上げようとするができず、絶望のあまり狂い死んでしまう。 
 
老人は鬼のような面に変わった怨霊となって、その女御を責めさいなむが、最後には、自分を弔ってくれるなら、あなたの守り神となろうと言って消える。最後まで忘れられないのである。
 
とても悲しく身につまされる話なのに、恋の苦しみを、「重荷を持ち上げる」という視覚的な行為に転換しているので、喜劇的なものへと変化している。こうした観念の視覚化という技法はひょっとして寺山修司が能から学んだ技法でもあるのだろうか?

もう何年か前に現実に起きたことだが、ある老人が女子高生に恋をして、想いを打ち明けて訴えられたということがニュースになった。 身分の差ということは殆どなくなったとしても、越え難い年齢差という「重荷」はどうにもし難い。この作品のように死ねない老人は、現代だったらストーカーになってしまうのだろうか? 恋した若い女の心をつかむため、メフィストに魂を譲り渡してまで若返ろうとしたファウスト同様、「恋重荷」の老人を笑うことはできない。
 
しかし、この能にはまだ救いがあるのでは、とふと思った。もしこの主人公が若くて、身分も高くて十分美しくて、それでもその恋した女の心をつかむことができなかったとしたら。それこそ、現代においてあり得る「恋重荷」ではないか。この能のリアリティは、その「恋重荷」を持ち上げることが不可能なのに、それよりも恋を捨てる方がより苦しいという告白である。
 
ところで、あなたはあなたの「恋重荷」を持ち上げられますか? (番場 寛)

花はどこへ行った

Posted 2009年12月04日 by bhiroshi
Categories: 雑感

一面レンガで覆われた大学の中庭の真ん中に大きな木がたっている。もう2週間以上も前のことなのに忘れられない。
 
その木の根元だけが土が剥き出しになっておりほとんどそこに注目することはなかった。
ところが、ある日そこの東側に20センチくらいの草が伸びておりそこに青紫の花が一輪咲いていた。
 
春だったら珍しくもないかもしれないが、あちこちの木々が紅葉をしている頃だ、その草のかぼそいの茎と葉の緑とその花は鮮やかな対照をなしていた。それを見たとき、よくぞこんなところに咲いてくれたという思いと同時になにか危うい感じ、痛々しい感じがしたが、そのときはその理由が分からなかった。
 
それが分かったのは授業を終えて再びその場所を通ったときだ。その青紫の花が咲いていたところには跡形もなくなっており、ほとんど乾いた土が残っているばかりだった。
 
だれかが、採り去ったのだ。誰が、何のために? 先ほど感じた痛々しい感じが蘇った。綺麗と思った瞬間それを自分だけのものにしたいと思ったし、それはいけないとも思ったのだ。20センチくらいにまで伸びていたのだ。おそらく花さえ咲かなければ、そこにいまでも摘まれることなく生きていることができたのだろう。
 
それにしても誰がどんな気持ちで摘んだのだろう? 思いを巡らしてみる。ある親しい男女の学生がいる。男子の方は彼女に魅かれているが、その気持ちを伝えてしまったらもう今のように親しい口が利けなくなるかもしれないと恐れている。ある日彼は偶然、木の根元にひっそりと花開いたその青紫の花を見つけると迷うことなくそれを摘み、その魅かれている彼女に、「これ、おれの愛のしるしだぜ」とできるだけおどけた調子で投げつける。

同い年なのに考え方が幼くて、まるで弟のようだと思っていたその男の子の口から、いきなり「愛」という言葉が出てきたことに彼女は驚き、断るのも忘れて受け取ってしまう。 一瞬捨てようかと思うが、あまりに可愛いのでためらう。どうしようかと思ったのち、持っていたペットボトルの水でティッシュを濡らし、その花の茎をつつみそっとカバンにしまう。

もしそうだったならあの花は、今も彼女の机の上の一輪ざしのなかで咲いている筈だが、本当はどうなのだろう? もうゴミとして捨てられてしまったのだろうか?

それ以来、あの木のそばを通るたびに根元を見てしまう。ある日思わず天を仰いで驚いた。この季節にもあおあおとした葉をつけているその木の上の方に真っ赤な花が咲いている。よく目を凝らしてみるとそれは花ではなく、しぼんだ風船がひっかかっているものらしいと分かる。おそらく学園祭かなにかのときに舞い上がって引っかかったままなのだろう。

もういちど根元に視線を落とす。やはりそこにはほんのかすかな小さな草の他には、砂漠のように土が広がっているばかりだ。
ぼくの心の中には、そこにはないあの青紫の花がいまもひっそりと咲いている。(番場 寛) 

J.ユスターシュの「ママと娼婦」が分からない

Posted 2009年12月01日 by bhiroshi
Categories: フランス, 映画

1966年に発表されたこの映画を関西日仏学館のシネクラブで見た。当日は別の会合に出ていて1時間程遅れてから見たのだが、それでも3時間弱見ることができた。
 
見ても理解できず、ずっと心に引っ掛かっていた映画の一つだ。最後に見たのは確か十数年前だ。
 
無職のアレクサンドルは年上のマリーに養われるように一緒に住む身でありながら、若い看護師の娘、ヴェロニカとも付き合う。彼の行動は次第にエスカレートし、ヴェロニカをマリーと自分が住むアパートにまで連れてくる。
 
愛なのか欲望なのか分からない力で結ばれた三人は、アレクサンドルを中心に化学反応を起こすかのように、感情を起伏させ、もつれながら三人一緒に床に入るまでに至る。
 
この映画を見るたびに考えるのは、この映画のタイトルである。「ママ」というのはマリーであり、「娼婦」というのは、他の女と暮らしていることをものともせず、その女のところにまで自分の欲する男に会いに行く看護師のヴェロニカのことなのだろうと、観客は最初はそう思う。
 
しかし驚くのは、映画の最後の方でヴェロニカが三人一緒にいるところで、涙を流しながら、自分が本当に望むのは、好きな男と結婚し子供を産むことなのだと告白するところである。
 
F.トリュフォーの映画にも、一人の女を中心とした二人の男を描いた「突然炎のごとく」や逆に一人の男が二人の女性に好かれる「恋のエチュード」のような作品があるが、このユスターシュの作品がそれらと違うのは、女性の持つ二つの特性(それもおそらく男性の視点から見た特性だろうが)を対照的に描いている点だろう。
 
思い出すのは、寺山修司が「少女」を「娼婦」の性質を帯びた存在と定義していたことだ。寺山によれば「少女」の反対語は「少年」ではなく「母親」なのだ。「母親」とは子を産むという点で「生産性」を表しているのに対し、「少女」はそれを持たないという点で「娼婦」という性質を帯びているというのだ。
 
この「ママと娼婦」においては二つの女性の特性を二人の対照的な登場人物で代表させているかに見せて、実は「娼婦」的に思われたヴェロニカにも実は「ママ」的な本質への憧れがあったことを見せることにより、どの女性にも二つの性質が普遍的に備わっていることを見せているのだろう。
 
この映画を見ていて分からないのは、斎藤環が最近、ことあるごとに断言する、「所有」を求める男に対し、女は「関係」を求めるという主張がこの映画でもまさに問題にされているのに、それがすっきりと自分の中で整理できないからだ。
 
三人は性的な関係を保つほど親密でありながら互いに相手をvous(あなた)で呼ぶ。目の前で相手が別の女と性行為していても嫉妬は感じていても耐える。確かにマリーもヴェロニカもアレクサンドルと「関係」を保っている今が大事で「所有」を目ざしてはいないように見える。しかしマリーも二人が関係しているとき自殺しようとして薬を多量に飲んでしまうし、ヴェロニカも最後には、上に述べたように告白する。
 
人がそのとき好きになった人と、一切他人へ気兼ねすることなく関係することができ、「所有」という概念から自由になれたとしたならそれは愛のユートピアであろう。それについてはこのブログでかつて鹿島田真希の『ゼロの王国』を論じたときに触れた。この映画でも何よりも「関係」を求めながらも、「所有」を求めてしまうことで、三人の関係が瓦解する様を描いたようにも思えるのだが、どうなのだろう。やはり分からない。誰かこの映画を見た人、教えてほしい。(番場 寛)