John Cage 100th Anniversary Countdown Eventというチラシを見つけたら、急にそのコンサートを聴きたくなった。
ジョン・ケージの名は前から気になっていた。たまたま「国際文化特殊講義」という授業でマルセル・デュシャンの作品に見られる「レディメイド」という概念を説明した直後だった。「レディメイド」とは、たとえば男性用便器に「R.MUTT 1917」と署名し、「泉Fountain」と題して美術展に出品した作品にみるように、すでに出来合いの品物や絵を使い、ほんの少し手を加えるだけでまったく違った文脈にその対象を置くことである意味を生み出す技法である。
そのデユシャンが晩年交流していたのがジョン・ケージだと知って、より興味を持っていた。現実にはなかなか生演奏で聞く機会のないせいか、会場には200人ほどの聴衆が来ていた。
会場には5か所にそれぞれ違った種類の「音楽」を演奏する楽器や装置が設置され、それらが交互にあるいは同時に演奏される。
最初の「演奏者は何らかの習熟した行為を選び、音楽的な身振りを一切排除して行う。そこで発する付随的な音が、スピーカーから最大限の音量で会場に流される」と説明されている「0’00’’(1962)」という曲は、一人の女性(演奏家)が爪を切り、さらにやすりで磨く音をマイクで拾いスピーカーで増幅したものであった。極めて日常的に聞いている筈の音をこのように聴くのは初めてであった。
会場で配布された、チラシの説明によれば、ケージは「”沈黙”とは意図されない音の集まりである」と言っているそうだ。別の「Branches(1976)」という曲の演奏で、よりこの概念は明確になった。この曲はサボテンや豆の莢など10種類の植物を机の上に置き、それらの棘を弾く音や振って鳴らす音をマイクで拾いスピーカーで増幅するものだ。
音符であらわされるような音は他の音とくっついたとき旋律を形成してしまう。それを意図的に排除し、しかもそれらを組み合わせたとき生まれる純粋な音そのものに満ちた時空間、それがケージの言う「沈黙」の音楽なのではないかと思った。
これはデュシャンの言う「レディメイド」という概念と非常に近いと思った。「こする」「ひっかく」「たたく」といった日常的な行為から発せられる音をまったく違った文脈に配置しなおすことで、思いもかけなかった世界が生まれる。
中でも特に不思議な作品はRyoanji(1983)という作品であった。これは龍安寺の石庭の一五の石の配置を音で表したものだという。空間を音の連なりという時間に変換するという思考に驚かされた。この曲の説明を聞いてデュシャンの最大の謎とされ、今なお解釈が続けられている「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(大ガラス)(1915-23)という作品を思い出した。
デュシャンのこの作品には作者の精緻なメモが残されており、極めて綿密な思考を練りあげて制作されていることがわかるが、出来上がった作品だけを見る鑑賞者のみならず、そのメモを読んだ者にも、そのメモの意味とそれがそのように形象化されているかについては理解し難い。デュシャンもケージも、かれらの作品を生み出す思考が理解し難いとしても、その現実を突き抜けた思考に基づいているからこそ出来上がった作品は今もわたしたちを惹きつけてやまないのであろう。(番場 寛)
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