まるで家の中で飼われているペットが自分を人間だと思ってしまうように、教員も大学で若い学生たちの中にいると自分まで若いと思ってしまいがちである。ダイエットをする人が体重計に乗って自分の肉体の真実を見つめるように、「オヤジ」と呼ばれる人たちの中に身を置いて自分の年齢を見つめる必要も感じていた。
年代・性別に分かれたグループで創作したダンスを踊るというこのワークショップに参加したのには、コンテンポラリーダンスの振付というものをどのようにやるのかを知りたいという理由の他にそういう狙いもあった。しかし、自分の姿を鏡に映したかのような「オヤジ」グループのメンバーを見たときは、正直言って少しショックであった。
2週間あまりの短期間で作り上げたダンスも、いよいよメイン会場での本番である。泣いても笑ってもこれで最後だ。誰からともなく「円陣を組もう」と声を掛け、輪になり手を重ねる。高校野球ではあるまいし、と思いながらも感動してしまう。
問題は、その後の他の全グループとの同時演技である。「オヤジ」グループは胸を抱えて「オッパイ、オッパイ」と声に出しながら足ふみをするのだ。一人だったら絶対やれないが他の皆に合わせなくてはならない。なぜそんな演出をしたかと聞いたら、知り合いに生まれた子供を見ていて男の子にとっては、何といってもオッパイなのだと思い知らされたという説明であった。
ダンスが始まる前のオープニングでは、後でダンスを踊る女性たちが全員で何か書いた半紙を床に置いていっては拾ったり、撒いたりする。見るとそこには、地名とともに幼稚園から大学まで、結婚、出産、子育て、介護、…といった「女の一生」が描かれている。部屋のふちに腰掛けて並んで紙を撒いているのは、女子高生らしき少女と70歳くらいの老婦人である。
前日見ることのできた他のグループのダンス(?)でオヤジたちに一番強烈な印象を残したのは、「談話室」とよばれる昔の小学校のままに机のならんだ部屋を利用した演技であった。教室の小学生のような仕草は、昔見て忘れられないタディウシュ・カントールの「死の教室」を思わせた。うめき声を上げ、泣き叫び、ある女性は認知症になった人のような言動を演じる・・・誰かが言ったが、老婦人が踊っている姿はそれだけで涙腺を緩ませてしまう。
ぼくたちのダンスといったら「幽体離脱」をイメージした「肩たたき」の仕草や飛ぶ鳥のまね、机や椅子を運ぶことで表す「労働」、それを集めて「秘密基地」を作り、そこから飛行機になって飛び立ち、最後は「オッパイ…」である。女性の一生に比べて情けなくなる程現実味のない「男の一生」に思えてくる。
一番緊張したのはダンスの最後でその会場にいるすべてのメンバーとのチークダンスである。相手を見つけるのが大変で、あぶれるとオヤジ同士で頬をくっつけなくてはならない。リハーサルのたびごとに異なった頬のぬくもりが残るのだが、本番では27歳の女性と頬をつけたまま踊ることができた。とても踊るのがうまくてこちらをリードしてくれる。後で聞いたら彼女は、普段はぼくがよく見る「維新派」のメンバーとして演じたり踊ったりしているとのこと、さらに感激した。
終わってから、これは「コンテンポラリーダンス」だったのだろうか?と思った。わかったのだ。ここで踊ったぼくもふくまれるダンサーたちは、日常生活を隠していても、顔の皺や薄くなった髪や脂肪や筋肉の付き具合、姿勢の歪み具合など、年数を経た実生活とその人の歴史が踊っているその体からにじみ出てくる。「男の背中が並んだ姿を見せたかった」とぼくらの振付の山田珠美さんが言ったように、いわばこれらのダンスは踊るそれぞれのメンバーの実人生を「引用」し、明倫小学校という「歴史」の残る建物を会場として作り上げた作品なのだ。
珠美さんがメインの舞台の前に言った「視野を広く取りながら踊ってください」という指示は、全体の空間を構成するものとして自分の動きを意識するようという、ダンサーに必要不可欠なものなだろうが、ぼくは同時に時間的にも自分のいる位置を意識することの必要性と理解した。無邪気に踊る4歳の女の子の可愛らしさとは別な意味で、老婦人やオカンやオヤジも本当に「カッコイイ」と思った。
振り付けを担当した北村茂美、山田珠美、砂連尾理の三人のみなさん、会場の運営にあたった多くの方々、寒い中来てくださった観客のみなさん本当にありがとうございました。(番場 寛)

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