劇「日本国憲法」(小嶋一郎演出、京都芸術センターにて)を観て

 限りある時間の中でこれを読んでくれるあなたのためにできるだけリアルタイムで書きたいのだが、執筆が現実に追いつかない。

 9月25,26日の二日間しか上演されなかった劇だが、書いておきたい。驚いた。チラシを読むと、日本国憲法をそのまま台詞にし、しかも小学生にもわかる劇を目指したのだという。現実ではなく理想の日本を描いたのだと演出家である小嶋一郎は説明している。 日本国憲法の精神を演劇にするという試みだけでも斬新なのに、台詞にそのまま憲法の文章を使うとは、一体どうなるのだろうという好奇心を抱いた。

 舞台は京都芸術センターのフリースペースと呼ばれる、入口横にある広い板張りの部屋に設置されたが、普通の演劇のようにそこに板を敷いて舞台を作ることはせず、床に一つのソファを置いただけの簡素なものだった。

 最初は一人の若い男が床に横たわり小さな動きで体をよじる。おそらく赤ん坊か、人間の誕生を象徴的に意味しているのだと思う。立ち上がってもなかなか言葉を発しない。ようやく言葉にならない発声をするまでの10分にも満たない時間が苦痛を伴う緊張感を与える。若い女が出てきて男と向かい合っても最初は言葉にならない発声で呼応し、ようやく日本国憲法をそのまま会話のように発声する。 「(…)戦争と、武力により威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。

 それを聞くのはおそらく高校生以来だと思うが、なんて美しい言葉の連なりなのかと驚いた。まるで現実離れしていて、ちょうどあのジョン・レノンの「イマジン」を聞いたときと同じ気持ちになる。

 しかし劇はなかなか展開しない。女が出てきても、向き合い、微笑み、距離を変えても、何らかの二人の関係に大きな変化は起こらない。それが狙いだとしても退屈だ。これで分かったと思ったか、30分もたたないのに観客の中のひと組のカップルが立ち上がり、観客席から外へ出て行った。登場人物が増え、最後にはすべての人物が手拍子を打ちながら微笑み、日本国憲法の朗読が音楽なしで、いつしか歌に変わっている。

 これが小嶋が説明する、「現実ではなく、理想を描いた」ということなのだろうが、演劇作品としてはもっと何かできなかっただろうかと思わずにおれない。たとえば他人の戯曲をそのまま使い、発声と動きを極限にまで制御し、別の現実を作る三浦基だったら全く別の舞台を作るだろう。

 劇自体の物足りなさとは別の次元で、演出家の意図した以上の効果を上げていたことがある。それは劇が行われた部屋の外に面した戸を開け払っていたことだ。これ自体は演劇の終わり方の手法として頻繁ではないが見られる手法だ。いわゆる日本庭園の「借景」と呼ばれるものと同じで、外の眺めを庭の眺めと連続させる手法である。

 例えば、太田省吾も昔、劇の最後で舞台背後の戸が開けっ放しになり東京の住宅街が広がる演出をしたことがあるし、今も毎年続けられている唐十郎の劇の最後は必ず背後の戸が払われ外に主人公が出て行く。劇場内の虚構の時間が現実の時間へと接続されていることを示す瞬間である。

 この劇の演出家がどこまでこの効果を考えて演出したのかは分からない。近所の犬の吠える声が劇の間中聞こえ、劇の妨げになると同時に外には劇と違った「現実」の時間が流れていることを常に観客に意識させる。もう暗くなっており、中に開いているのはカフェだけで他も催し物もない筈なのに、芸術センターに入るために通り過ぎていく人が絶えない。彼らは最初、部屋の中の方を見るが、まるで無関心であるかのように通り過ぎていく。

 演劇も、日本国憲法も、慌ただしく過ぎていく日常の中では意識されず忘れられている。自分の意志でチケットを買うか、手に取り文章を読む人にしか作用を及ぼさない。しかし目には見えなくても、演劇も憲法もその日常のど真ん中にある。それをこの「日本国憲法」という劇は伝えることに成功している。 (番場 寛)

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