1966年に発表されたこの映画を関西日仏学館のシネクラブで見た。当日は別の会合に出ていて1時間程遅れてから見たのだが、それでも3時間弱見ることができた。
見ても理解できず、ずっと心に引っ掛かっていた映画の一つだ。最後に見たのは確か十数年前だ。
無職のアレクサンドルは年上のマリーに養われるように一緒に住む身でありながら、若い看護師の娘、ヴェロニカとも付き合う。彼の行動は次第にエスカレートし、ヴェロニカをマリーと自分が住むアパートにまで連れてくる。
愛なのか欲望なのか分からない力で結ばれた三人は、アレクサンドルを中心に化学反応を起こすかのように、感情を起伏させ、もつれながら三人一緒に床に入るまでに至る。
この映画を見るたびに考えるのは、この映画のタイトルである。「ママ」というのはマリーであり、「娼婦」というのは、他の女と暮らしていることをものともせず、その女のところにまで自分の欲する男に会いに行く看護師のヴェロニカのことなのだろうと、観客は最初はそう思う。
しかし驚くのは、映画の最後の方でヴェロニカが三人一緒にいるところで、涙を流しながら、自分が本当に望むのは、好きな男と結婚し子供を産むことなのだと告白するところである。
F.トリュフォーの映画にも、一人の女を中心とした二人の男を描いた「突然炎のごとく」や逆に一人の男が二人の女性に好かれる「恋のエチュード」のような作品があるが、このユスターシュの作品がそれらと違うのは、女性の持つ二つの特性(それもおそらく男性の視点から見た特性だろうが)を対照的に描いている点だろう。
思い出すのは、寺山修司が「少女」を「娼婦」の性質を帯びた存在と定義していたことだ。寺山によれば「少女」の反対語は「少年」ではなく「母親」なのだ。「母親」とは子を産むという点で「生産性」を表しているのに対し、「少女」はそれを持たないという点で「娼婦」という性質を帯びているというのだ。
この「ママと娼婦」においては二つの女性の特性を二人の対照的な登場人物で代表させているかに見せて、実は「娼婦」的に思われたヴェロニカにも実は「ママ」的な本質への憧れがあったことを見せることにより、どの女性にも二つの性質が普遍的に備わっていることを見せているのだろう。
この映画を見ていて分からないのは、斎藤環が最近、ことあるごとに断言する、「所有」を求める男に対し、女は「関係」を求めるという主張がこの映画でもまさに問題にされているのに、それがすっきりと自分の中で整理できないからだ。
三人は性的な関係を保つほど親密でありながら互いに相手をvous(あなた)で呼ぶ。目の前で相手が別の女と性行為していても嫉妬は感じていても耐える。確かにマリーもヴェロニカもアレクサンドルと「関係」を保っている今が大事で「所有」を目ざしてはいないように見える。しかしマリーも二人が関係しているとき自殺しようとして薬を多量に飲んでしまうし、ヴェロニカも最後には、上に述べたように告白する。
人がそのとき好きになった人と、一切他人へ気兼ねすることなく関係することができ、「所有」という概念から自由になれたとしたならそれは愛のユートピアであろう。それについてはこのブログでかつて鹿島田真希の『ゼロの王国』を論じたときに触れた。この映画でも何よりも「関係」を求めながらも、「所有」を求めてしまうことで、三人の関係が瓦解する様を描いたようにも思えるのだが、どうなのだろう。やはり分からない。誰かこの映画を見た人、教えてほしい。(番場 寛)
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J.ユスターシュの「ママと娼婦」が分からない
2009年12月01日アルモドヴァル「オール・アバウト・マイ・マザー」に見る「父-の-名」
2009年11月25日 まえにこのブログで松田正隆作(マレビトの会)の「声紋都市―父への手紙」について紹介したとき、その作品に「父-の-名」というJ.ラカンの概念が表現されていると指摘した。最近、国際文化特殊講義という授業でアルモドヴァルの映画を扱ったとき、そこにもこれが現れていることに気づいた。
主人公マヌエラは、シングルマザーとして一人で育ててきた大切な息子をその17歳の誕生日に目の前で起きた事故で亡くす。 それをきっかけにマヌエラは17年ぶりにバルセロナに戻るがその目的はその息子の父親にこのことを告げるためだったことがやがて分かる。衝撃的なのはその逃げるように別れた夫とは、男性の性器をとらないまま乳房をつけ性転換したロラであり、彼(彼女?)はマヌエラと別れたあとロサという若い女性を妊娠させエイズに感染させやがて死なせてしまうことである。
この映画で重要なのは、ロサが死ぬ前に生まれたばかりの自分の息子にマヌエラの息子と同じエステバンという名をつけることである。やがて分かるのであるが、その名は二人の女性の夫の名、つまりその息子の父親の名でもあった。
ここで困ってしまった。授業ではエディプス期における主体の母親との関係をラカンの「父性隠喩」と呼ばれるつぎのような定式を紹介して説明したのである。
父-の-名(Nom-du-père) 母の欲望 →父-の-名( A )
母の欲望 主体にとってのシニフィエ ファルス
つまり子にとって自分は母親の欲望の対象だという思いは「父-の-名」の出現により挫折させられる(言い換えれば、自分は母親の想像的ファルスでもなければ、それを持ってもいないということを思い知らされる)。しかしそれにより自らもやがて象徴的ファルスを持つことができるようになるのである。
授業ではこの定式で示される「父-の-名」は、決して「現実の父親の名前」ではなく象徴的に父の機能を果たす存在というように説明していた。しかしこの映画では、偶然だが、「エステバン」という二人の息子につけられた父親の名が「父-の-名」を表しているのである。
17歳の誕生日を迎えたエステバンは「写真とおなじように僕の人生も半分が欠けている」と言うが、その半分とは父親のことである。映画のタイトルに「オール・アバウト・マイ・マザー」と「マイ」とついているのは息子、エステバンを主体の位置においてタイトルがつけられていることが分かる。エステバンは目に見えない「父-の-名」に支配されているのだ。
こうしたことは映画だけではなく、現実でも起きている。「父-の-名」が明確に機能していると思われるのが彫刻家のルイーズ・ブルジョワである。詳細は2008年度の日本病跡学会で発表したが、彼女の父親は男の子を切望していたのに女の子が生まれたことで大変失望し、自らの名Louisを女性形にしたLouiseを娘につける。父に対する複雑な思いを抱いて成長したブルジョワは「父の破壊」という攻撃的なタイトルのもとに奇妙なインスタレーションを作成する。
驚いたことにそうしたブルジョワが、自分の息子の一人にその父親と同じLouisという名をつけたのである。
また、分数式をまねた疑似数学的な、ラカンの式は無味乾燥的に思えるかもしれないが、この概念がラカンに生まれた頃の彼の実生活のことを知ると驚かずにおれない。ルディネスコによれば、ラカンは当時まだジョルジュ・バタイユと離婚していないシルヴィア・バタイユ(ジャン・ルノワールの「ピクニック」に出ている彼女はなんと眩いのだろう)とつきあっており、彼女のお腹にはすでに、娘がやどっていたのだ(その娘はのちに結婚し、ジュディット・ミレールとなる)。 象徴的で現実の父親ではないと強調するのだが、その概念が生まれた状況を考えるととたんに生々しいものに思えてくる。
現実においても確かに「父-の-名」はわたしたちに影響を及ぼしているのだ。(番場 寛)
ジョン・ケージの曲の生演奏を聴く(京都芸術センターにて)
2009年11月10日 John Cage 100th Anniversary Countdown Eventというチラシを見つけたら、急にそのコンサートを聴きたくなった。
ジョン・ケージの名は前から気になっていた。たまたま「国際文化特殊講義」という授業でマルセル・デュシャンの作品に見られる「レディメイド」という概念を説明した直後だった。「レディメイド」とは、たとえば男性用便器に「R.MUTT 1917」と署名し、「泉Fountain」と題して美術展に出品した作品にみるように、すでに出来合いの品物や絵を使い、ほんの少し手を加えるだけでまったく違った文脈にその対象を置くことである意味を生み出す技法である。
そのデユシャンが晩年交流していたのがジョン・ケージだと知って、より興味を持っていた。現実にはなかなか生演奏で聞く機会のないせいか、会場には200人ほどの聴衆が来ていた。
会場には5か所にそれぞれ違った種類の「音楽」を演奏する楽器や装置が設置され、それらが交互にあるいは同時に演奏される。
最初の「演奏者は何らかの習熟した行為を選び、音楽的な身振りを一切排除して行う。そこで発する付随的な音が、スピーカーから最大限の音量で会場に流される」と説明されている「0’00’’(1962)」という曲は、一人の女性(演奏家)が爪を切り、さらにやすりで磨く音をマイクで拾いスピーカーで増幅したものであった。極めて日常的に聞いている筈の音をこのように聴くのは初めてであった。
会場で配布された、チラシの説明によれば、ケージは「”沈黙”とは意図されない音の集まりである」と言っているそうだ。別の「Branches(1976)」という曲の演奏で、よりこの概念は明確になった。この曲はサボテンや豆の莢など10種類の植物を机の上に置き、それらの棘を弾く音や振って鳴らす音をマイクで拾いスピーカーで増幅するものだ。
音符であらわされるような音は他の音とくっついたとき旋律を形成してしまう。それを意図的に排除し、しかもそれらを組み合わせたとき生まれる純粋な音そのものに満ちた時空間、それがケージの言う「沈黙」の音楽なのではないかと思った。
これはデュシャンの言う「レディメイド」という概念と非常に近いと思った。「こする」「ひっかく」「たたく」といった日常的な行為から発せられる音をまったく違った文脈に配置しなおすことで、思いもかけなかった世界が生まれる。
中でも特に不思議な作品はRyoanji(1983)という作品であった。これは龍安寺の石庭の一五の石の配置を音で表したものだという。空間を音の連なりという時間に変換するという思考に驚かされた。この曲の説明を聞いてデュシャンの最大の謎とされ、今なお解釈が続けられている「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(大ガラス)(1915-23)という作品を思い出した。
デュシャンのこの作品には作者の精緻なメモが残されており、極めて綿密な思考を練りあげて制作されていることがわかるが、出来上がった作品だけを見る鑑賞者のみならず、そのメモを読んだ者にも、そのメモの意味とそれがそのように形象化されているかについては理解し難い。デュシャンもケージも、かれらの作品を生み出す思考が理解し難いとしても、その現実を突き抜けた思考に基づいているからこそ出来上がった作品は今もわたしたちを惹きつけてやまないのであろう。(番場 寛)
PARK CITY(作・演出 松田正隆、写真 笹岡啓子)を見て
2009年11月04日 松田正隆が主宰する「マレビトの会」の新作と聞いて見に行った。時間があったので「びわこホール」へと大津駅から歩いた。琵琶湖が近づくにつれて気のせいか、何かどぶ川のような臭いがする。それはまるでおもちゃのように動かず浮かんでいる数えきれないほど多くの鴨が浮かんでいる湖面が何か草かゴミのようなもので覆われているのを見たとき、気のせいではなかったことが分かった。もうすぐ冬を迎えようとしているこのころは同時に腐敗の季節でもあったのだ。
劇は見る前はあまり気が乗らなかった。近年、舞台上で安易に説明的に映像を映し出している劇を見るたびに、映画を見るのは映画館で十分で、こんなものを見にわざわざ劇場に来たんじゃないとどなりたくなる経験を何度かしていたからだ。観客はある時間、その場でのみ発せられる舞台上のアウラ(ベンヤミン)を感じたいがために見に行くのだ。
PARK CITYという今回の新作は、広島を題材にし、そこを作品として写真に撮った笹岡啓子の作品を劇中でスライド上映したものと、その前で看護師やさまざまな人物が自分の体験をモノローグで語ってゆくことで進行する。
劇の中で唯一演劇らしい対話と行為が行われるのは島と呼ばれる青年である。彼は、正確には再現できないのだが、「広島は僕だ」「僕は島だ」と執拗に繰り返し、「Hiroshimaはフランス語ではHを発音しないのでiroshimaイロシマだ」と、自分の名が広島を表していることを強調する。彼は倒され水をかけられボートのオールでたたかれる。これは、戦争でアメリカ軍に空襲を受け、原爆を投下された広島を擬人的に描いていると同時に、どんなに広島に同一化しようとしても傍観者としてしかありえず、そこで歴史を経験した者からはたたかれるにも等しい受け止められ方をする人物をも表していた。裸にされた彼を台の上に横たえさせ、その体を広島の地図に見たて説明する場面には感嘆した。
思い出すのは「二十四時間の情事」という題で上映されたマルグリット・デュラス原作、アラン・レネ監督の「ヒロシマ、私の恋人Hiroshima, mon amour」という作品である。映画の冒頭から交わされ、何度か繰り返される日本人の男とフランス人の女の会話、「きみはヒロシマで何も見なかった。何も」「わたしはすべてを見たの。すべてを」を思い出させる。
このPARK CITYという作品も、広島を見極めたいという欲望と、どんなに努力して探索したつもりでも、「何も見なかった」に等しいと感じてしまう焦燥感によって成立しているように思えた。
しかし、スクリーンに映し出される笹岡の写真を見て、同時に演じられている役者の演技と台詞に集中し、時々は手元のモニターに映し出されている広島の映像を見るという鑑賞はかなり忙しく、意識の集中の対象を移動させながら緊張を保つのは難しかった。
広島を空間的(地理的)と時間的(歴史的)に把握しようという試みと、いまそこに現前している役者たちの身体の演技で成り立っている舞台は危ういところで成立していた。「マレビトの会」の最近の他の作品に多く見られた、台詞を音楽や音で意図的にかき消し、観客にストレスを与えるような演出も今回はなされず、マイクを使ったためもあり台詞はすみずみまでよく聞こえた(個人的にはワークショップで演技指導をしていただいた山口春美さんの台詞も明確に聞こえて嬉しかった)。
上演後、劇中でなぜ「月光の囁き」という映画の題名が引用されていたのかと松田に訊ねた。高校生の純愛をフェティシズムとマゾヒズムで描いた、ぼくの好きな映画がなぜこの劇で引用されていたのかと疑問に思ったからだ。松田は、あまり話したくない個人的な思い出にまつわることだが、その映画の最後には、好きなスピッツの曲「運命の人」が使われていたせいだと答えた。
さらに松田から、だんだん自分だけで書いた台詞で上演するのが少なくなっている。今回も練習をする過程で役者の意見で書き換えたところが何か所かあるとうかがった。数多くの引用、何人もの役者やスタッフ、ドラマトゥルクの田辺剛に加えてついに共作者までも加えた創作を松田は行うようになった。まさに「詩は一人でなく、万人によって作られねばならない」と書いたイジドール・デュカス(ロートレアモン)の詩学を実践している。
再び大津駅へ向って歩いて帰るとき琵琶湖のほとりを歩いた。どぶ臭さは変わらなかったが頬をなぶる風は心地よかった。(番場 寛)
ルイーズ・ブルジョワについての講演を聞いて
2009年10月27日 10月22日に大谷学会研究発表会があり、国際文化学科では、芦津かおり先生が「大岡昇平と太宰治―それぞれの『ハムレット』、それぞれのシェイクスピア―」というタイトルで発表された。日本における対照的な二人の作家(奇しくも1906年という同じ年に生まれていることを初めて知った)の『ハムレット』受容の違いを分析し、そこに二人の作家の表現技法の特徴と『ハムレット』の日本における影響の強さがみられるという発表であった。
同日、京都工芸繊維大学でニューヨーク大学から招かれたリンダ・ノックリンLinda Nochlin教授のルイーズ・ブルジョワについての講演を聞いた。
写実主義の画家と思われるギュスターヴ・クールベの専門家と伝えられている女史が、それとまったく違って、前衛的で攻撃的な作品を生み出しているブルジョワについてどんなことを語るのだろうと興味を持った。
「ルイーズ・ブルジョワ-OLD Age style: Late Louise Bourgeois」という講演の題目通り、98歳の現在なお創作を続けている彼女の後期の作品を解説してくれた。ノックリン教授の作品解読の方法は美術史家の方法で、たとえば美術史上に見られる似たモチーフの作品を併置し、ブルジョワの作品の独自性を説明しようとするものだった。
中でもノックリン教授が注目したのは、初期において大理石や金属や石膏など堅い素材を用いていたブルジョワが、後記に同じモチーフを、詰め物を布で縫い合わせて覆う方法で作成していることである。そこには製作者としての肉体的に扱いやすい素材を選んだという理由も考えられるかもしれないが、幼いころ見た彼女の母親が仕事としていた刺繍の技法の影響が見られるということで、わざと縫い目を粗く見せ糸さえも見えるのは老いによる技術的な欠如によるものではなく、彼女も母親に倣って試みたであろう少女期への回帰とも考えられるという説明であった。
確かに2年前にポンピドゥーセンターでみたブルジョワの特別展にも近年の作品には縫い閉じた布で作成された作品が殆どだったように覚えている。しかし疑問は消えない。
講演後、なぜ、ブルジョワの作品では重要だと思われる「少女Fillette」という作品(題名とは裏腹に男性の性器の彫刻)と「父の破壊The Destruction of The Father」という作品(洞窟のような空間の上下に球状や突起物の物体が置かれ赤い光を当てられている)について触れないのかと質問した。その際、会場に多くの女性がおられることに躊躇ったが、ブルジョワには明らかにフロイトの言う「ペニス羨望」と父親に対する特別な感情が明らでありそれを抜きにしては彼女の作品は語れないのではないかと主張した。
会場におられた女性の方で不愉快な思いをされた方がいたら許してほしいが、今もその主張は変わらない。美術作品は作家が受けた他の作品からの影響関係、作家が生きた時代、作家の伝記的事実といろいろな角度から解読されるべきだろう。しかしブルジョワに関しては精神分析的方法が極めて有効だと思う。どんなに老いても彼女の作品に見られるセクシュアリティをむき出しにした「攻撃性」と、そしてそれと同じくらい溢れている「優しさ」「温かさ」が好きだ。
とここまで書いて、芦津先生の発表に対してなされた門脇先生の質問を思い出した。大岡と太宰が書き換えの対象として『ハムレット』を選んだのは、芦津先生が援用したハロルド・ブルームが指摘した、「影響の不安」から逃れるための、いわば比喩的にとらえたオイディプス的な「父殺し」のようなものなのか(その場合はシェイクスピアが父親の位置に来る)、作品としての『ハムレット』自体に隠れている「父殺し」のテーマを選んだのかという質問は興味深かった。自分でも考えてみたい。(番場 寛)
能舞台とミニスカート
2009年10月07日 菊池 晃さん、博士号授与おめでとうございます。指導された教員のみなさんや後につづく学生たちにも励みとなることでしょう。 それに比べれば少し恥ずかしくなるような考察を書かせてもらいます。
先日の4年生のゼミの授業で、「ミニスカートの文化」というテーマで研究を続けている女子学生が、60年代に若者に社会秩序や当時の価値観に対する反抗が芽生え、それがパンクに見られるような新しい音楽やファッションを生み出していったのだと説明した。ミニスカートも、当時の「脚を露出するのは、はしたない」という価値観への反抗心の表れだったのではないかというのが、彼女の現時点での仮説であった。
他の学生からは、既成の価値観を覆そうという動きは他の時代にも見られるので、その説明では不十分だという意見が出された。
ぼくが説明を聞きながら思ったのは、3月2日にこのブログ(「ミニスカートが好き」を考える)で書いた疑問だった。それは「スカートを穿かない女に未来はない」と言い放っていたココ・シャネルが、当時流行り始めたミニスカートについて「あんな醜いものを穿く気持ちがわからない」という内容のことを言っていたことである。女性の脚を最も美しく見せるスカートの丈は膝が隠れるくらいだという考えを彼女は変えなかった。
シャネルブランドのデザインを引き継いで成功したカール・ラガーフェルドはミニスカートをデザインし成功しているのだが、その二人の差は男女差によるものなのか、時代的な制約によるものなのかを知りたいと思っている。
しかし今日このブログのタイトルをこう書いたのは、しばらく前になるのだがミニスカートについてある先生と話したときの疑問がまた浮かんだからだ。
ショートパンツスタイルが流行っていたときのことだ。どうしてミニスカートの方に心が動いてしまうのだろう?とぼくが話したときのことだ。その先生が「そうなんだよね。でもショートパンツを穿いた上に一枚の布を巻きつけただけで心が動くんだから不思議だね」というようなことを言った(学生のみなさん!先生はいつもこんなアホなことを議論している訳ではありません)。
単なる脚の露出という点だけではミニスカートの謎は解けない。その謎が解けたと自分で思えたのは、ひょんなことからである。
もう前になるが、ぼくが能を教えていただいている河村晴久先生が、5月6日に、大学の授業で教えている学生やお弟子さんたちを引き連れて奈良の能の舞台となっているところを案内してくださる催しに参加した。
奈良県新公会堂にある能楽ホールの能舞台を案内してくださったときのことである。そこは能の上演だけでなく会議にも使われる場所のため能舞台の柱が外れるように造られている。その日はたまたま左正面の柱が外されていた。「よかった。ここを皆さんに見せることができて。ほら柱がないといかに間の抜けた感じになるかおわかりでしょう」と先生が解説された。
舞台の柱は、面をつけているため、視界が限られている能を演ずる役者たちにとって空間を把握するための目安となるのだということは知っていた。しかし能をみるたびに、その柱が観るときの邪魔になって、なければいいのにといつも思うのだった。
しかしその柱がない舞台を見たことで河村先生の説明が納得できた。つまり柱があることで舞台に奥行のある空間が生まれるのだ。視界の一部を遮られることはその奥行きを生むために必要なのだ。
そのことを聞いて、ずっと抱いていたミニスカートへの疑問が氷解したように思えた。ミニスカートは能舞台の柱の役割を果たしているのではないか? 見えてしまえばそれだけの部分を視線からさえぎることで、空間に奥行を与えているのだ。
でも新たな疑問が生まれる。それはあくまで能の観客にあたる見る人への効果からの推測にすぎない。能でいえば役者にあたるミニスカートを穿く女性にとっては、それはどのような働きをしているのだろう?
ふわふわとひらひらとその持ち主の身体の動きに合わせ、呼吸しているかのように動く、名もなきデザイナーたちによって生み出されている素敵なその姿をみるたびに、こんなとりとめのないことを考えてしまう。(番場 寛)
理想のレストラン
2009年09月27日 「悲しけりゃ、ここでお泣ーきよ…」著作権のことがよく分からないのでこれ以上書けないが、ふと「失恋レストラン」という歌を口ずさむことがある。落ち込んだときにそこにいくだけで慰められるレストランがあればいいのにと思う。
パリでは(も)一人で食べることが多く適当なレストランを探すのに苦労する。うっかり一人でまともなフランス料理のレストランに入ってしまい出てくる料理と料理の間に耐えきれない思いをすることもある。6・7年前に一年間住んだとき以来、とにかく料理を待つ時間が惜しいことと、それほど食事にお金をかけたくないという理由でもっぱらあるレストランに通う。
大学では、フランスの社会や文化を紹介し、それについて考える授業をする機会が多い。学生には、フランス料理に関する関心を抱いて、そこからフランスという国とその文化に興味を持つ者が多い。
それで授業で使う映画でも、大勢で食べているシーンにフランスの社会情勢や国民性が現れる『パリのレストラン』や、「舌の快楽」を追求するカトリック教徒と「舌は神を賛美するためだけにある」ともっぱらその食の快楽を禁じる敬虔なプロテスタント教徒との葛藤を描いた『バベットの晩餐会』という映画を教材として使うことがある。前者では和気あいあいとおしゃべりしながら、後者では沈黙のうちに食べ続けるという点で対照的だが、どちらも映画を観た学生のコメントにはよだれが出そうだというものが目立つ。
しかし、ぼくがパリに行くと実際によく通うレストランは、パリの3区、Arts et Métiers(技術と職業という意味。近くにある工芸学校の名からつけられた)という地下鉄の駅を出て、ポンピドゥーセンターの方向に10メートルほど歩いたところの路地を入ってすぐのところにある中国料理のレストランである。
その地域はパリに何カ所かある中華街の一つで、その路地には中国人の経営する小さなスーパーや理髪店を始め、レストランも数件あるが、そのレストランだけがなぜかいつも人で溢れている。そのため一人で入っても大抵、細長いテーブルに会い席で座ることになる。
驚くのはどの料理もおいしくてしかも待つ時間が短いことである。殆どが炒めるか、蒸すかで調味料がよいのか分からないが注文してから10分程度でできてくるのには驚かされる。夜遅くまで開いているのでポンピドゥーセンターの横の映画館で観た帰りには助かる。住まいのある人はショーケースに並べられたものから選び、ご飯と一緒に発砲スチロールの容器に入れてもらって買っていく人も多い。
しかしなぜそこに通ってしまうのかというと、味や安さや待ち時間の少なさのせいばかりではない。店内は明るく、客の活気が満ちている。2人以上で食べている者は会い席でいる一人の客のことなど気にせず、大声で話す。フランス人の中国人が多く、ぼくはいつも中国語で話しかけられる。3人連れで親が幼い子の口に箸で料理を運んでやっている光景にも出会う。 一人で食べているのに大勢で一緒に食べているような気になってくる。
店内は多くの人種、様々な年齢層の客で溢れ、一人者を含むあらゆる組み合わせの連れがいる。あるとき中年のフランス人らしき男が、匂い立つように官能的な若い娘と食べていた。こんなところで一緒に食べるのだから親子だろうと思い、会話に耳を傾けるとどうも恋人同士なのだ。うらやましくてならなかった。
日本でも一人でレストランで食べる機会が多いのだが、なぜか一人で黙っている他人が悲しそうに見える。二人で食べているカップルもひそひそ話していてそんなに楽しそうに見えない。
確かにフランスで食べる、フォアグラもエスカルゴもカモのオレンジソース煮もとても美味しい。授業でフランス料理について説明するぼくが、あの例のレストランで食べる、ただチンゲンサイを油で炒めたものをご飯に添えただけのものlégume vert sauté avec du rizやナスaubergineの油炒めを恋しがっているのを知ったら学生は失望するだろうか?
レストランrestaurantの語源は「元気を回復させる」という意味のrestaurerという動詞から来ていると聞いている。ぼくにとってはあの明るく、活気で満ちているレストランが今でも理想のレストランなのだ。(番場 寛)
精神分析は「パンドラの匣」なのだろうか?
2009年09月25日 今回もパリに行き短い滞在期間だったが、セミナー期間は夜一回、それが過ぎてからは一日2回計10回の分析を受けてきた。分析と言っても聞いて人が普通想像するように、分析家が被分析者の話を聞いて、あなたの問題点はこれこれです、というように「分析」してくれるというのでは、まったくない。特にラカン派の分析では、分析を受ける人は「被分析者」という意味の、analysé(「分析するanalyser」の過去分詞の名詞化したもの)ではなくて、能動的な意味を帯びた現在分詞から作ったanalysantと呼ばれ、普通「分析主体」と訳される。
自由連想法により心に浮かぶことを分析家に話すだけで、分析家の役目はもっぱらそれを聞き、分析を受ける人がいかに無意識を開放して言葉として自由にでてくるよう手助けをすることにある。
もう7年前になるが大学から一年間の研究休暇をもらってパリに滞在したとき、あるラカン派の分析家に、分析を受けるべきかどうかたずねたことがある。彼が、分析を受けないでどうして精神分析が何であるか分かるだろうかと断言したことが心に引っかかった。
治療のための分析ではなく、分析家になるための「教育分析」を終えるには十年以上もかかるとも聞いていた。滞在の期間も一年だし、それ以後渡仏して続ける気はなかった。しかしそれ以上にぼくをたじろがせたのは、分析に対するイメージであり、それは「パンドラの匣」のイメージであった。
つまり決して開けてはならない箱であり、それを開けてしまったら心の奥底にあるすべての醜いもの、おぞましいものが出てきてしまい、どうにか安定した心の状態で送っている日常を失うことになるのではないか、そういった恐れであった。
しかし、チビエルジュ氏の奥さんで、パリで自身も精神分析家として働いている那須恵理子さんに会ったとき、もし分析を始めて途中でやめたら何か問題があるだろうかと尋ねた。彼女は、今ぼく自身に何か問題がないのなら、分析を始めてもいつやめても大丈夫だと断言した。それでぼくも分析を始めたのだった。まるで、好奇心に負けてしまったパンドラのように。
待合室で分析を受けたばかりの人を見ると、やはり暗い表情で出てくる人が目につく。あるときぼくが分析を終えて出たら待合室に4人の女性が待っていた。いずれも若い女性だ。改めてどうしてなのだろうと思う。パリの電話帳のイエローページで確認したら、分析家だけが掲載してある頁が5頁もあった。
チビエルジュ氏に、分析を受けている女性が多いのを見て驚いたことを言ったら。彼もそうだと言った後、では日本では若い女性たちは悩みをだれに相談しているのかと尋ねられた。そう言われるとフランスが異常なのか、分析など必要ないかに見える日本が不思議なのかわからなくなる。(皆さんは一体どうしているのでしょう?)
もう十数年以上前になる。ラカンの弟子の一人で、現在は自分の派を形成して大成功している分析家のJ-D.ナシオ氏を大谷大学に招いて講演会をしてもらったことがある。かれに「分析家は何を分析の目標としているのですか?」と誰かが尋ねたときのことである。ナシオ氏は答えた。「それは分析を受ける人が分析家と別れられるようになることです」と。
何と深い言葉だったのかと今は分かる。分析のときには「転移」と呼ばれる恋愛のような親密な心理状態に陥る。もし恋愛だったら、人は別れるために恋人に会い続けるのだとは言わない。やがて別れることができる日を目指して会い続けるとは、何と倒錯的とも言える関係なのだろう。
「パンドラの匣」の話はぼくを恐れさせたが、それは同時にぼくの好きな話でもある。それは、この世のすべての災いが出て行ったあとに、その匣の底にたったひとつ残っていたもの、それが「希望」であったからだ。(番場 寛)
「あなたに会いたいのですが・・・」
2009年09月06日 出発の前日ここで書いたが、わざわざ飛行機に乗っていくのが億劫だったし、健康上の不安もあった。でも本当に行ってよかった。短期間にあまりにも多くのことを経験して頭の中がまだ整理できてない。
4日間はラカンの1970年から72年にかけての講義録を対象にした「国際ラカン協会」の夏のセミナーに参加し、その後4日間に、美術館(オルセー、ポンピドゥーセンター)に行き、ペールラシェーズ墓地を訪れ、買い物をした。その間、土日を除き、パリに行くたびに受けている精神分析家の寝椅子に横になり、分析を受けた。それから劇と映画も一本ずつ見ることができた。
その合間をぬって5人の友人と会ってきた。直前まで行けるかどうか分からなかったので直前にメールやファックスをしたのだが、ありがたいことにみな会ってくれた。服飾デザイナーのEさんはフランス人の夫に子供を預けて会ってくれたし、バカンスに行っていて連絡のとれなかったC氏はホテルに直接連絡をくれ会いに来てくれた。またセミナーで再会した分析家のT氏はよかったら後日会おうといってくれたので、二日後に会った。みなこちら以上に忙しい中を何とか調整して会ってくれた。どうしても時間のとれない大使館につとめるW氏とは、入口で久しぶりに厳重なチェックを受け、彼のオフィスで30分だがお話できた。
こちらが会いたいと思って会えるのは、なぜパリだと可能なのだろう。それはわざわざ遠くから来たのだからと相手が思うのだろうか? それよりもたとえばこの京都で「あなたに会いたい」と言葉に出す機会が果たしてどのくらいあるのだろうと自問してみると殆どないことに気づく。
人が人に会うためには理由がいる。仕事なり情報の交換なり明確な目的があるか、もしくは友情なり恋愛感情なり性的欲望なりを相手に感じているかを相手に伝えないと会えない。それがそこでは、ただ気持ちをそのまま伝えるだけで会えるのだ。
「あなたに会いたいのですが・・・」こう言うためだけでもパリに行った価値はあった。 (番場 寛)
末期の眼
2009年08月24日 明日から10日間の予定でパリに行くのに憂鬱というか、億劫だ。いや正直に言えば不安でならない。言葉も通じて泊まったり、行動したりする界隈も一年間住んでいた所であり、コインランドリーの位置も分かるくらいの所なのに、なぜかとても不安で楽しい気にはなれない。
思えばここ何年か、外国への旅行を億劫に感じている自分に気づく。今回はそういった状況に加えて6月に受けた人間ドックで、ある項目がひっかかって検査しても分からないという状態が続いていることも不安を増している原因である。
それでも今行かなかったら、やがてもっと億劫になるだろう。今回の一番の目的は「国際ラカン協会」の夏のセミナーに参加するためだ。1971年から73年にかけての後期ラカンの重要なテーマ、「性関係はない」という言い方で有名な、論理式をもじった性別化の式(男女の関係がいかになりたたないかを示したもの)を講じた「アンコール(再び、もっと」「ウ・ピール(あるいはもっと悪く)」「精神分析家の知」という講義録を発表者が注解し、それについて議論するというものだ。
このブログでセドリック・クラピッシュの映画「Paris」について書いたのは2月5日だった。心臓の手術を受けなければ亡くなるが、手術の成功の確率も非常に少ないと告げられた主人公の目を通して映し出されるパリの風景を、末期の眼を通した映像だと思った。今回はそんな気持ちが分かる気がする。
昼間から路上に腰を下ろし物乞いをする浮浪者、冷え切ったすがすがしい空気の中を地下鉄の駅へと急ぐ人たち、そうかと思えば朝からビールのグラスを前にしてカフェでぼんやりとくつろぐ人たち、今度は彼らはどのようにぼくの目に映るのだろうか?
今日旅行の準備の品を揃えるため京都の街を歩き回った。いつの間にか空気が冷えており、ふとパリを思わせる。こんなに京都は美しかったろうかと思った。この風景でさえ、見ることができるのは限りあるのだということを誰も忘れている。(番場 寛)
シャネルと本谷有希子
2009年08月23日 先に見た友人が、自分にとってはつまらなかったと言っていたが、授業でモードも扱っているのでクリチャン・デュゲイ監督「ココ・シャネル」を見てきた。映画はココ・シャネルについての新しい見方、視点を提示するものではなく、すでに知られている数多くのエピソードから父親に孤児院に置き去り同然に預けられてから愛に飢えていたシャネルが経験した二つの恋愛に焦点を絞り、展開していく。
一度目のカムバックのショーの大失敗で、二度目のショーを禁じられたのを振り切り奇跡的な大成功を収める流れを現在と設定し、随所に回想する過去が流れるという作りがされており、オーソドックスな映画だと思った。本物のシャネルの作品を何点も見られた以外は何かを発見したという映画ではなかった。
映画館は年配の女性で溢れていたが、映画が始まると私語は消え、部屋全体が感動しているのが伝わってきた。これはありふれたサクセスストーリーなのになぜこれほど人を惹きつけるのだろうか?
2度目のショーを阻止しようとするビジネス相手の助言を「私はシャネルよ」とはねつけ果敢にショーを成功させてしまう姿は傲慢なのに見ていて気持ちいい。
映画を見た翌日大阪で本谷有希子作・演出の「来来来来来」(ライ…と読む)を見た。小説は何作読んだし、彼女の作品原作の映画(「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」)も見たが、演劇だけを見てなかった。
ストーリー自体はとても分かりやすい。ある家庭の長男と結婚した女性が、長男の失踪後まるで人質のようにこきつかわれるという設定である。なぜ逃げないのかという問いかけにも「逃げるのではなく、乗り越えたい」と答え、イジメにも似た扱いにも耐える。
劇場は満員で、今話題の本谷とはいえ、改めて彼女の魅力とは何かと考えた。何よりもデビュー当時世間を驚かせたのは「劇団本谷有紀子」という名で旗揚げしたことだ。強烈な自己顕示欲は「わたしはシャネルよ」と言い、自己ブランドのマークにココの頭文字を使ったシャネルと同じだ。
過剰に感情をむき出しにした登場人物の本谷の演出に注意し、台詞に耳を傾けていると多くの人を惹きつける秘密の一部が分かるような気がしてくる。
確かに舞台で演じられる行為は常軌を逸しているが、それらはわたしたちが日常誰でもが感じているが、敢えて言葉にしなかったり、行動に表さなかったりすることだ。本谷は普通の人の感情を分析し、それをまるで電子顕微鏡で拡大するかのように見せてくれる。
たとえば、あれほどいじめられていた姑(昔、劇団「青い鳥」で活躍していた木野花さんが演じていて嬉しい)が認知症になったとき、頭を撫でられたことで自分をよくやったと初めて認められたと思い、彼女を連れてそこから脱出する決心をするところは、誰でもが持っている自分を認めてもらいたいという感情とは、それほど強いのかと感動させる。(小劇場の先輩、木野に頭をなでてもらうという演出は無意識的なものなのか?)
唯一主人公の味方の女子高生が言う。「努力してないと生きている実感がないなんて言わないでよ(…)わたし蓉子ちゃんのことが好きなのか嫌いなのか分からなくなった。好きと嫌いは似ている」(覚えているまま)
彼女の人気の秘密はだれでもが感じるがそれを認めたくない、強く惹かれる他者への愛と憎しみの感情が強く絡み合っている様をむき出しに見せてくれるからだ。 それは誰でもが美しいと感じるが、自分では気づかない「色」「形」「手触り」を「わたしはシャネルよ」と言って、組み合わせて見せてくれるシャネルと共通している。
終演後、俳優たちと一緒に舞台に立った本谷は細く、どこからこんな過激な世界を生みだすのかと思わせるような美少女(?)だった。(番場 寛)
ジャック・ラカンのディスクールdiscours(語らい)理論はどの程度有効なのだろうか?
2009年08月08日 7月20日に京大の「あがるまの会2009」(代表 新宮一成、尾崎純子)という、精神療法を実践している精神科医や臨床心理士の臨床報告とそれに対する検討がなされる研究会に参加した。
そこでパリ第8大学の精神分析学部での留学を終え、「NPO法人ICCC」で職員として働いている池田真典氏の「障害福祉サービスに精神分析は活用できるか?-フランスのラボルド・クリニックを参考にして-」という発表を聞いた。 それは留学時にフランスのラボルド・クリニックに一週間滞在して学んだことを帰国後自らが働く、精神に障害を持つ人の世話をする作業所で応用して実践した報告と考察の発表であった。
ラボルド・クリニックはラカン派の精神科医であるジャン・ウリが開いた精神病院で治療者と被治療者の垣根を払い、開放型の入院病棟を持つ病院として有名である。
驚いたのは池田氏によれば、そのラボルトの病院で治療がうまくいかなくなった時、ジャン・ウリがラカンのディスクール(語らい)理論を持ち出し、これはこのままでは使えないと断った上で、Grille(「一覧表」という意味)という方法を提示し、それに従って全員が行動するようになってから病院全体がうまく機能するようになったということである。それは病院の専門職と雑用係の垣根を取り払いお互いに仕事そのものと意見の交流を目指すもので、各自がそのときそのときにおいて、病院全体にとって各自の最良の能力を発揮できる仕組みだった。
さらに驚かされたのは、池田氏は帰国してからそのラボルドで学んだことを自ら働く精神障害者のための福祉サービス施設の現場に活かそうとして実践したことである。 残念ながらその詳細は省くが、池田氏は具体的な方法としてその施設でのみ通じる地域通貨をまねた労働の評価方法としてのスタンプの導入を発案して実践し、それなりに成果を収めつつあるという報告であった。
ラカン理論は神経症や精神病の治療を目的として提示された筈なのに、論理式やさまざまな数学の概念や記号を使用した、いたずらに難解な理論と受け止められる傾向がある。
そんなラカンの提示した四つのディスクール(語らい)の理論は一挙に社会全体に視野を広げることとなった。ラカンはディスクールを「社会紐帯」つまり人と人とを結びつけるしくみと捉え、「主のディスクール」「ヒステリー者のディスクール」「分析のディスクール」「大学のディスクール」の四つのディスクールを提示した。
各ディスク―ルは同じ四つの要素(主のシニフィアン、知、剰余享楽、主体)とそれらが置かれる四つの場(動因、他者、生産物、真理)からなる。動かない四つの場をその四つの要素が同じ順序で回転しながら場を移動していくことで上に挙げた四つのディスクールが生じる。
スラヴォイ・ジジェクとそれに続く多くの人のように、多くの者が、映画や政治などの分析にこのディスクール理論に当てはめて論じてきた。 しかしジャン・ウリや彼に学んだ池田氏のように実際に精神障害者の人々への援助支援をこのディスク―ル理論をもとに考えることの困難さは容易に想像できるし、その例は一部を除き他に知らない。
人は言葉で人と繋がりそれが集団をなす。ぼくが、パリ第8大学精神分析学部の客員研究員だったときに知り合った年配の看護師の女性になぜラカン理論を学ぶのかと尋ねたことがある。「私の病院では医師は精神分析を学ばない。それで私たち看護師が学ばなくてはなりません。それは患者さんに接するのに必要だからです」。正確に覚えている訳ではないが、彼女はそんなことを言った。
難解なラカン理論は永遠に解けない謎のように魅力的だが、自分の取り組んでいるその謎が現実にも有効なヒントを秘めていることを願わずにおれない。 (番場 寛)
俳優とダンサーの肉体-青年団「鳥の飛ぶ高さ」、勅使川原三郎「ダブル・サイレンス-沈黙の分身」を見て
2009年06月16日 12日に青年団の「鳥の飛ぶ高さ」(京都芸術センター)、13日に「ダブル・サイレンス-沈黙の分身」(兵庫県立芸術文化センター)を見て年齢ということを思ってしまった。
「鳥の飛ぶ高さ」はそのまま上演すると6時間以上もかかってしまう、フランスの作家の作品を平田オリザが2時間あまりの、彼自身「経済戯曲」と呼ぶ作品に全面的に書き換えた作品だ。
温水トイレの販売不振に悩む企業にフランスの企業から買収の話が持ち上がり、それを拒絶し何とか企業を立て直そうとする社長のグループと新たなやり方で会社を自分のものにしようともくろむ長男の話がメインなのだが、それに日本のアマテラスによるオオクニヌシノミコトの出雲の国の支配という神話と、ルワンダのフツ族によるツチ族の大量虐殺の話が並行して盛り込まれ、それらをつなぐものとしてその劇を書いた劇作家が語り手として登場する。
複雑なのに破綻をきたさない歌あり踊りありの楽しい舞台で、日仏の俳優によって両言語によって演じられた。アルノー・ムニエというフランス人の演出のせいか、「間」のなさ、場面の転換の速さ、理屈っぽい説明、まるでフランスで演劇を見ているような気になった。特に、新製品を開発するため社員でブレーンストーミングするときの、排泄物をどうとらえるかについての掛け合いは見事だった。
グローバル経済の中で起こる企業買収の現象に、他の地方を侵略し合併してしまった日本の国造りの神話と、現実に起きた民族間の虐殺とに共通したものを見ようとする作者の意図は分かった。古くから繰り返されてきた、力ある側が弱い側を侵略、支配することは特にグローバル社会の現代では避けられないことなのだろうかという問題提示である。
しかし劇を見ながらぼくはもう一つの別のことに感心していた。それは30代40代の人が中心の俳優たちの中に髪の薄くなっていることから推測すると50代ひょっとしてそれ以上の俳優たちも主要登場人物として演じていたことだ。
ぼくが普段見る小劇場の俳優たちは殆どが20代30代でそれ以上の年代の人はまれである。それは実生活を続けるためには、アルバイト生活を強いられる演劇活動を続けられないからだろう。青年団の俳優たちがこの年代まで続けていられること自体に感動させられたのだった。
一方、翌日見た勅使川原三郎のダンス「ダブル・サイレンス-沈黙の分身」は緊張の持続を強いられる舞台だった。最初は観客の体の奥をも共鳴させるような振動音が会場に流れ、闇から浮かび上がったダンサーが直立したまま身体をその振動音に合わせて細かく振動させる。その動きの徐々に大きくなる様は、デビッド・リンチの映画『イレイサー・ヘッド』を思わせる。
勅使川原の舞台は今まで3度見ただけだ。20数年前見た時は、まるで手を直線的、平面的に動かし、空間を切るような動きをしていた。2002年か2003年にパリのオペラ座で見たときは驚いた。髪をまるめていたこととすっかり体が太くなっていたことだ。そのときパンフレットで彼が自分と同じ年に生まれていることを知って驚いた。
今回は体つきはそのときと殆ど変っていないが動きは見事だった。それは彼の後集団で踊った若いダンサーたちの踊りと比べると際立った。若いダンサーたちの踊りは、手脚全体を使って大きく、速く動かしても、回転、直線的な動き、美しく見事なのだが、どれも見ているとやがて飽きてくる。それよりもはっとさせられるのは、勅使川原と佐東利穂子の、なめらかな動きに続くひきつりこわばった、凍りついたような身体だ。そのとき改めて身体というものを生々しく感じさせられる。
「ぼくは沈黙をつくりたいのだ」「沈黙を求めて身体を使う」と、不可能を追求する勅使川原の意欲に拍手を送りたい。
肉体が老いても、なお老いないものを二つの舞台で見たように思った二日間だった。(番場 寛)
京都の中のフランス(「半径一メートル以内の好奇心」から外へ出るために(1))
2009年03月06日授業でフランス文化を教えているが、学生たちにとっては、フランスとは遠い憧れの存在であり、映像で見る美しい街並みや風景、フランス料理やファッションやブランドの国であるようだ。 フランス文化の授業だけでなく、学生を前にして最初の授業でまず言うのは、「半径一メートル以内の好奇心から出よう」ということだ。その「半径一メートル」というのは勿論比喩のつもりで言うのだが、ときどきこれは比喩ではなく本当に半径一メートル以内のこと、つまり自分のほんの身近な、慣れ親しんだ世界にしか興味を抱かないというより、それで満足している学生が多いように思えることがある。携帯電話やインターネットで物理的には何千キロ、何万キロと離れたところの情報を得ているとしても、自分にとって異質なものに興味を持とうとしなければそれも「半径一メートル以内の好奇心」に過ぎないと思う。なぜそれじゃあいけないの?という質問が出たとしたら、「いけなくはないけれど、せっかくの学生時代、せっかくの短い人生、もっとどきどき、もっと楽しくしたくないかい?」というくらいのことしか言えない。
そうは言うものの、自分でも普段気心のしれた人とだけ会って似たような会話をしてしまいがちだ。そんな自戒をも込めてできるだけフランス文化と生身のフランス人と接する機会を持とうとしている。月の最初の日曜18時からは京阪三条駅の近くのアイリッシュパブで、また毎週水曜日の19時半からはcocon karasumaの一階のフレンチカフェでフランス人とのフリートークの会があるが、時間があるときは参加している。
仕事や留学や日本人と結婚したことなど、理由は様々なフランス人がこれほど京都に多く住み、日本人や、フランス人とのまったく無償の会話を楽しみたいと思っているように見えることに驚く。
先日、初めてだが別のことに驚いた。水曜日の会に出たら、一年前に教えた大谷の学生が3人と大谷の別の学生1人が参加していたことだ。こちらは緊張し、必要以上に頑張って話してしまった。嬉しいような恥ずかしいような気持ちだった。その学生の中でも一番うまくコミュニケーションできていたように見えたのは、フランス語の単語5つくらいを日本語でつなぎながら話していた女子学生であった。君は偉い。コミュニケーションの基本を彼女は知っていると思った。
また木曜日には関西日仏学館で19時から映画を上映し、解説とディスカッションが行われるシネクラブにも参加している(有料。ホームページで確認のこと)。 参加しているぼくにとっては人生の先輩にあたる年齢の方々の知的好奇心には感心させられ、励まされる。
以上がさしあたってのぼくが経験している京都のフランスだ。 これを読んでくれているあなたに「京都の中のフランスの一部」を紹介し、あなたも誘いたいが、ぼく自身が「半径一メートル以内の好奇心」から外へ出ているかという問いかけはこれからも続けていきたい。
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