この小説はすでに指摘されているが、明らかに小説家本人の不倫をきっかけとして妻が精神的に異常を来した家庭の地獄を小説にした島尾敏雄の『死の棘』を下敷きにしている。しかしこの桐野の小説は、その『死の棘』にも似た、架空の小説『無垢人』と、その小説の一人の登場人物を主人公にした『淫』という小説を書こうとしている作家タマキ自身の私生活を書き込んだ、いわばメタ小説的な側面と私小説を模倣した側面とを持つ小説である。
人はなぜ小説を読むのだろう? 書かれていることは虚構だと知っていて、それでいてその虚構を通して現実というか真実が描かれていることを期待する。そのとき読者は時として、主人公は作者の意識をどの程度反映しているのかとか、ある登場人物は誰をモデルにしているのだろうかという推察の誘惑に駆られてしまう。
7月8日に芥川賞受賞作家の津村記久子さんが本学に来てトークショーをしたときに、ある人を小説に書くとき、どんなにそれを実際の人物とは変えていても、書いたことでその人を傷つける可能性があるのだが、津村さんにはそれへの恐れはないのかと質問した。彼女は、それには十分注意しており、そのために、書いたものが客観的に描かれているかは常に注意していると答えた。
しかしぼくの聞きたかったのは正確にはそういうことではなかった。作家の車谷長吉が、書くことは必ず人を傷つけるのであり、自分は罪びとだといった内容の告白を書いていたが、単にモデルに似ていて書いたことでその人を傷つけるということだけではなく、現実の人間についてたとえ虚構であれ、その人を念頭において書くことだけでその人を傷つけることにならないだろうかという疑問である。
桐野のこの小説は彼女の他の小説とは違ってそこに書かれていることはまるで私小説のようにありうることなのではないかと思わせるに十分な書き方をしている。タマキの関心は『無垢人』に書かれている作者と思われる主人公の不倫の相手である「○子」のモデルが実在の誰なのか、という探究へと収束していく。 次第に『無垢人』という小説がその読者だけでなく、そのモデルにされたと思われる現実の人物たちの生活へも影響を及ぼしていく様が描かれている。
タマキは「小説とは皆の無意識を拾い集めて、物語という時間軸とリアリティを与え、さらに無意識を再編することだと気付く」。
この桐野の小説『IN』を読んでいて突然声を上げて泣いた部分がある。自分でも驚いた。それは恋愛が終わってもなお忘れられず続いているタマキの不倫の恋人阿部青司が入院し、死を待つばかりの状態にいるときに、仕事場にいるタマキに起こる。 インターホンを押してタマキの前に現れ、タマキの書いた小説のゲラ刷りに目を通す編集者の青司は幻か幽霊だ。少し長いがそのまま写させてもらう。
「『あなたはどうしてここに来たの』タマキが言うと、青司は答えずに笑った。タマキが出した緑茶を飲み干す青司。きっとこれが最後なのだ、とタマキは思った。(中略)青司はもうじき死ぬのだ。そう思ってから、タマキは気付いた。この幻も「淫」という小説が連れてきた不思議なものなのだった。共時性、偶然、運命。青司とタマキが必死に命を懸けてやってきた小説という仕事が、最後に、青司の幻をタマキの眼前に連れてきてくれたのだった。これ以上のものはなかった。」
ここには現実までも変容させてしまう小説という虚構の力が描かれている。それは「作者」と、「読者」である「モデルとなった実在の人物」、「編集者」との、性愛以上に激しくエロチックな関係である。改めて自分に問う。小説とはいったい何なのだろう?(番場 寛)
Archive for the '小説' Category
なぜ突然泣いてしまったのだろう? -桐野夏生「IN」を読んで-
2009年08月02日「所有欲」から自由になった恋愛は存在し得るか?-鹿島田真希『ゼロの王国』を読んで-
2009年07月12日 何歳くらいのことだろう。人を好きになった喜びは、必ず痛みを伴うことを人は知る。喜びだけを保持することはできないのだろうか? そのためには「所有」という欲望さえあきらめることさえできれば、つまりその好きな人はだれのものでもないと心の底から思えたらどんなに幸せなことだろう?
鹿島田真希の小説は全部読んでいるわけではない。それでも気がつくと雑誌の目次に彼女の名前を見つけるとその号を買っている自分に気がつくようになった。そうなったのは何といっても『ナンバーワン・コンストラクション』とそれに続く『ピカルディーの三度』を読んでからだ。二つの小説では「愛」とか「犠牲」とか一昔前の劇の台詞のような会話が饒舌的に交わされるのだが、読んでいるとまるで難しい方程式を解いていくめくるめく手さばきをみせつけられているかのような気がしたものだ。
最近単行本で発売された『ゼロの王国』を読みながら、最近何年かぶりで会った女性(30代、独身)が言っていた言葉を思い出した。彼女は自分の好きな人が他の女性と楽しく過ごしているとしてもそれを喜んであげたいと言う。なぜなら人を所有することも独占することもできないからだと言う。
この小説の主人公、吉田青年も、「人は所有するところから、不幸が始まるのです。なにかを所有しているつもりの人は、そのなにかに心を奪われているのです。だから僕は、いつエリさんが自分のものでなくなってしまうのか、びくびくしてはいけないのです。それは、自由でない状態なのですから」と言う。
しかし問題は吉田青年のように、独占欲も嫉妬心もなく人を愛したときそれは恋愛と呼べるのだろうかという点である。現に吉田青年に惹かれる二人の女性は「あなたは女性を愛するということがわかってない」となじる。例のぼくが最近会った女性も、「ではあなたの好きな人が別の女性と親密な関係になっても平気でいられるのか?」という質問には黙ってしまった。
今まで読んだ性愛を描いた現代小説で、最も感動させられたのは、高樹のぶ子の『透光の樹』である。その小説の最後では恋人を亡くして気のふれた主人公の女性が、自分の右耳を撫でるようにしながら、かつての恋人が自分を愛撫しながら言った言葉「あなたのこの右耳は、僕の耳・・・・・右の乳房は僕の右胸・・・・・」を繰り返す。最高の享楽を「所有」ということで恋人に同一化して発せられた台詞なのだ。その気のふれた母親を見ながら、世間的には幸福な結婚をした娘は、羨望のような感情に襲われ、「自分とは無縁の、自分には一生味わえそうもない大きな幸福を、その毀れかけた体に閉じ込めているような気」がするのである。
人を愛することの中でも「恋愛」の喜びの究極の姿が「所有」だとしたならそれを取り除いた「恋愛」は存在し得るのだろうか?
611頁にもわたる「愛」と「恋愛」と「結婚」と「労働」を巡る『ゼロの王国』はその問題を追求する巨大な思考実験であり、読者をあり得ない世界へと導いてくれる。 (番場 寛)
小川洋子 『猫を抱いて象と泳ぐ』を読んで
2009年02月25日 宗教や民族の違いに起因する戦争やテロ、経済のグローバリスムがもたらした世界恐慌、それに続く失業や雇用不安、この世の中のすべての問題は絡み合い縺れ合いとても解決などはその糸口さえ見出せないかに思える。
そんな現代において、最初から最後までチェスでその生を埋め尽くした人物の世界に読み浸ることは、現実からの逃避なのだろうか? そうかもしれない。しかしこの小説を読み終えて全く別な風にも考えてみた。
あまりにも複雑になってしまった世界情勢やもっと身近な自分の職場や家族や恋人や友人との関係に悩んでいるぼくたちは、この小説で描かれているチェスのようにシンプルな方法でこれほどまでに深く他人とかかわれることに驚くばかりである。
どうあがいても一人では生きられない人間は他人を愛し、憎み、ときに争い、競う。それらはすごく複雑に見えるがひょっとして本当はものすごく単純なことなのかもしれない。
他人との関係のなかでしか人間として存在し得ないなら、その関係がどのようにシンプルであってもいい筈だ。この小説で最初から最後まで繰り広げられるチェスの戦いは、最終的には相手のキングを取ることを目標にしているようでいて、実際は敵である相手とちょうどダンスを踊るように意思を交換する行為なのだ。競いながら相手を思いやり、敬う。小説で描かれているそのシンプルさに胸を打たれる。
8×8の升を限られた駒で埋めていく行為は、普通に行われる人と人とのコミュニケーションと比べるといかにも貧しいように一見思われるかもしれない。しかし、言葉を介して行われる日常のコミュニケーションはチェスに比べてどれほど豊かであるだろうか? ある情報を伝える、同意を求める、反対を述べる、愛あるいは憎しみの感情をぶつける、笑わせる、独り言を言う。それらは、はたして、ひたすらキングを追い詰めることをめざして緊張の糸を相手とたぐっていくチェスに比べて優っているのだろうか?
主人公の少年を初め、登場人物たちはすべて固有名詞を持たない。主人公の少年は二つの唇が合わさって生まれてきていることが象徴的に示しているように、言葉によって他人に本当の思いを伝えるは不可能だと思っている。小川はすべて引き算することで、単純でもっとも深いものがくっきりとした手触りとともに伝わることを目指しているのだと思う。
昨年偶然見たフランス人の製作した、小川洋子自身へのインタビューが思い出される。小川は、他の作家が言葉への信頼を持って書いているように見えることが信じられないという。自分の表したいものは言葉では表すことができないという確信が彼女の出発点なのだという。生涯をチェスを指すことにささげ、チェス盤に向かったままひっそりとその生を終える少年の在り方をそのまま彼女の創作行為の隠喩とみなすことさえも禁じるほどこの小説は深いところで超然と存在している。
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