1966年に発表されたこの映画を関西日仏学館のシネクラブで見た。当日は別の会合に出ていて1時間程遅れてから見たのだが、それでも3時間弱見ることができた。
見ても理解できず、ずっと心に引っ掛かっていた映画の一つだ。最後に見たのは確か十数年前だ。
無職のアレクサンドルは年上のマリーに養われるように一緒に住む身でありながら、若い看護師の娘、ヴェロニカとも付き合う。彼の行動は次第にエスカレートし、ヴェロニカをマリーと自分が住むアパートにまで連れてくる。
愛なのか欲望なのか分からない力で結ばれた三人は、アレクサンドルを中心に化学反応を起こすかのように、感情を起伏させ、もつれながら三人一緒に床に入るまでに至る。
この映画を見るたびに考えるのは、この映画のタイトルである。「ママ」というのはマリーであり、「娼婦」というのは、他の女と暮らしていることをものともせず、その女のところにまで自分の欲する男に会いに行く看護師のヴェロニカのことなのだろうと、観客は最初はそう思う。
しかし驚くのは、映画の最後の方でヴェロニカが三人一緒にいるところで、涙を流しながら、自分が本当に望むのは、好きな男と結婚し子供を産むことなのだと告白するところである。
F.トリュフォーの映画にも、一人の女を中心とした二人の男を描いた「突然炎のごとく」や逆に一人の男が二人の女性に好かれる「恋のエチュード」のような作品があるが、このユスターシュの作品がそれらと違うのは、女性の持つ二つの特性(それもおそらく男性の視点から見た特性だろうが)を対照的に描いている点だろう。
思い出すのは、寺山修司が「少女」を「娼婦」の性質を帯びた存在と定義していたことだ。寺山によれば「少女」の反対語は「少年」ではなく「母親」なのだ。「母親」とは子を産むという点で「生産性」を表しているのに対し、「少女」はそれを持たないという点で「娼婦」という性質を帯びているというのだ。
この「ママと娼婦」においては二つの女性の特性を二人の対照的な登場人物で代表させているかに見せて、実は「娼婦」的に思われたヴェロニカにも実は「ママ」的な本質への憧れがあったことを見せることにより、どの女性にも二つの性質が普遍的に備わっていることを見せているのだろう。
この映画を見ていて分からないのは、斎藤環が最近、ことあるごとに断言する、「所有」を求める男に対し、女は「関係」を求めるという主張がこの映画でもまさに問題にされているのに、それがすっきりと自分の中で整理できないからだ。
三人は性的な関係を保つほど親密でありながら互いに相手をvous(あなた)で呼ぶ。目の前で相手が別の女と性行為していても嫉妬は感じていても耐える。確かにマリーもヴェロニカもアレクサンドルと「関係」を保っている今が大事で「所有」を目ざしてはいないように見える。しかしマリーも二人が関係しているとき自殺しようとして薬を多量に飲んでしまうし、ヴェロニカも最後には、上に述べたように告白する。
人がそのとき好きになった人と、一切他人へ気兼ねすることなく関係することができ、「所有」という概念から自由になれたとしたならそれは愛のユートピアであろう。それについてはこのブログでかつて鹿島田真希の『ゼロの王国』を論じたときに触れた。この映画でも何よりも「関係」を求めながらも、「所有」を求めてしまうことで、三人の関係が瓦解する様を描いたようにも思えるのだが、どうなのだろう。やはり分からない。誰かこの映画を見た人、教えてほしい。(番場 寛)
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J.ユスターシュの「ママと娼婦」が分からない
2009年12月01日アルモドヴァル「オール・アバウト・マイ・マザー」に見る「父-の-名」
2009年11月25日 まえにこのブログで松田正隆作(マレビトの会)の「声紋都市―父への手紙」について紹介したとき、その作品に「父-の-名」というJ.ラカンの概念が表現されていると指摘した。最近、国際文化特殊講義という授業でアルモドヴァルの映画を扱ったとき、そこにもこれが現れていることに気づいた。
主人公マヌエラは、シングルマザーとして一人で育ててきた大切な息子をその17歳の誕生日に目の前で起きた事故で亡くす。 それをきっかけにマヌエラは17年ぶりにバルセロナに戻るがその目的はその息子の父親にこのことを告げるためだったことがやがて分かる。衝撃的なのはその逃げるように別れた夫とは、男性の性器をとらないまま乳房をつけ性転換したロラであり、彼(彼女?)はマヌエラと別れたあとロサという若い女性を妊娠させエイズに感染させやがて死なせてしまうことである。
この映画で重要なのは、ロサが死ぬ前に生まれたばかりの自分の息子にマヌエラの息子と同じエステバンという名をつけることである。やがて分かるのであるが、その名は二人の女性の夫の名、つまりその息子の父親の名でもあった。
ここで困ってしまった。授業ではエディプス期における主体の母親との関係をラカンの「父性隠喩」と呼ばれるつぎのような定式を紹介して説明したのである。
父-の-名(Nom-du-père) 母の欲望 →父-の-名( A )
母の欲望 主体にとってのシニフィエ ファルス
つまり子にとって自分は母親の欲望の対象だという思いは「父-の-名」の出現により挫折させられる(言い換えれば、自分は母親の想像的ファルスでもなければ、それを持ってもいないということを思い知らされる)。しかしそれにより自らもやがて象徴的ファルスを持つことができるようになるのである。
授業ではこの定式で示される「父-の-名」は、決して「現実の父親の名前」ではなく象徴的に父の機能を果たす存在というように説明していた。しかしこの映画では、偶然だが、「エステバン」という二人の息子につけられた父親の名が「父-の-名」を表しているのである。
17歳の誕生日を迎えたエステバンは「写真とおなじように僕の人生も半分が欠けている」と言うが、その半分とは父親のことである。映画のタイトルに「オール・アバウト・マイ・マザー」と「マイ」とついているのは息子、エステバンを主体の位置においてタイトルがつけられていることが分かる。エステバンは目に見えない「父-の-名」に支配されているのだ。
こうしたことは映画だけではなく、現実でも起きている。「父-の-名」が明確に機能していると思われるのが彫刻家のルイーズ・ブルジョワである。詳細は2008年度の日本病跡学会で発表したが、彼女の父親は男の子を切望していたのに女の子が生まれたことで大変失望し、自らの名Louisを女性形にしたLouiseを娘につける。父に対する複雑な思いを抱いて成長したブルジョワは「父の破壊」という攻撃的なタイトルのもとに奇妙なインスタレーションを作成する。
驚いたことにそうしたブルジョワが、自分の息子の一人にその父親と同じLouisという名をつけたのである。
また、分数式をまねた疑似数学的な、ラカンの式は無味乾燥的に思えるかもしれないが、この概念がラカンに生まれた頃の彼の実生活のことを知ると驚かずにおれない。ルディネスコによれば、ラカンは当時まだジョルジュ・バタイユと離婚していないシルヴィア・バタイユ(ジャン・ルノワールの「ピクニック」に出ている彼女はなんと眩いのだろう)とつきあっており、彼女のお腹にはすでに、娘がやどっていたのだ(その娘はのちに結婚し、ジュディット・ミレールとなる)。 象徴的で現実の父親ではないと強調するのだが、その概念が生まれた状況を考えるととたんに生々しいものに思えてくる。
現実においても確かに「父-の-名」はわたしたちに影響を及ぼしているのだ。(番場 寛)
セイの美しい「醜さ」から目をそらさないで(「空気人形」を見て)
2009年10月14日 ようやく「空気人形」本編を見ることができ、圧倒され、今は言葉を失ったような気分だ。
「生」を描くには「死」を対比させなくてはならず(「ワンダフルライフ」)、「人間」の本質は「人間以外のもの」たとえばロボットか人形を対比させることで浮かび上がってくるのだろう。
前にこのブログで、セドリック・クラピッシュの「Paris」を、「末期の目」を設定してパリを見たらどう見えるかという撮り方だと指摘した。 そういう言葉があるのかどうか知らないが、これは「生まれて初めて世を見る眼差し」でこの世を見たらどう見えるかという映画だと思う。
その眼差しは「誰も知らない」の幼い妹のあどけなさからくる可愛らしさを引き継いでいる。「心を持ってしまった」人形(ペ・ドゥナ)が、初めて外へ出て、人の歩き方をまねて歩く動作、初めて一つ一つ言葉をたどたどしく覚えていくシーン、レンタル・ショップで純一(ARATA)のまねをしてソフトを吹くしぐさ、これらは、大人のまねをしてひとつひとつ覚えていく幼児のしぐさに似ている。
メイドの服を初めとする衣装はすべて手脚の長いペ・ドゥナに似合っており、演出家、カメラマン、衣装、メイクとペ・ドゥナの作り上げる人形は完ぺきで、それを前にすると「可愛い」という言葉はありきたりで、恥じ入り顔を赤らめうつむいてしまうだろう。
「わたしの体をあなたの息で満たして」と人形は頼む。空気を吹き込む行為はセックスの隠喩だと監督が説明する通り、人形と彼女が好きになった純一が裸で抱き合い、空気を抜かれた人形が、息で膨らませられて次第に顎から胸にかけてのび、せりあがっていく場面は悦びと美しさに満ちており、映画史に残ることであろう。
しかし驚かせるのは、相手に今度は自分の息を吹き込もうとする人形が、息を吹き込む栓を相手の体に探す果てに、相手を傷つけ血まみれになり殺してしまう場面である。これは大島渚の「愛のコリーダ」(フランス語の原題L’empire des sens(感覚の王国)の方が映画の主題に忠実だと思う)の定が性交の際、吉蔵の首を絞めることで快感が増すということで、それが過ぎて吉蔵を殺してしまった後、性器を切り取ってしまうシーンを思い出させずにおれない。性愛の極限の姿は美しさを突き抜けたエゴイズムという醜さにまで行きついてしまう。
「わしも同じだ。からっぽだ」とつぶやく老人を初め、他の登場人物もみな孤独だ。「ワタシは誰かの代用品」と繰り返す人形は、「普通の人形に戻ってくれ」と叫ぶ持ち主に対し、「なぜわたしなの?ノゾミというのは昔の彼女の名前なのでしょう?」と詰め寄る。しかし、その持ち主も職場の上司に「いやならやめてもらってもいいんだよ。お前の代わりなんていくらでもいるんだから」と言われる。人形が恋をしたレンタル・ショップの店員の純一でさえ、人形が彼にバイクに乗せてもらう時にかぶらせてもらったヘルメットは彼の昔の恋人のものだった。
何よりも、純一と人形が働くのがレンタル・ショップであり、店長の「本当は映画はこんなんでなく映画館で見る方がいいんだけどね」と言う台詞にもあるとおり「代用品」というテーマはこの映画を貫いている。 オンリーワンである筈のわたしたちはみな、自分がこの世で代わりのいないかけがいのない存在として誰かに認められることに飢えている。
人形が自分を作った人形師の所を訪ねていくシーンにおいて、オダギリ・ジョーが演じる人形師は、再び返却され、廃棄を待つばかりになっている人形の山を見ながら、これらを見ているとどれだけ人に愛されたか分かると言う。そして人形に言う「君が見た世界は美しくないものばかりじゃなかった筈だ」と。是枝自身は否定するがどう考えてもこの人形師は神の隠喩にしか見えない。
殺してしまった純一を人形はごみ捨て場に置いてしまい、自身も空気を入れないまま、ごみ捨て場に横たわり、その生を終える。しかしその前に、捨てられていた空きビンをバースディケーキのロウソクのように自分の周りに並べておく。すでにいらなくなった筈の空きビンを光にかざしその美しさにみとれる人形。醜いはずのゴミも先に述べた眼差しによれば輝いて見えることに驚かされる。
常に「誰かの代用品」として生きるわたしたちは、生きることでゴミを出し続け、やがて自身もいつか処分されてしまう。しかしそれは悲しいだけではない。「空気人形」というタイトルが風に吹かれて散っていくかのようなオープニングで始まり、その散った文字が、人形がその生を終えたとき、まるで人形の空気がタンポポの種のように世に散っていき人々の所にとどくかのようなエンディングの意図は明らかだ。
そのタンポポの種のひとつが部屋に舞い降りたとき、そこに引き籠ってゴミの山の中で生活していた過食症の少女は初めて窓を開け、人形が生を終え、空きビンに囲まれて横たわっているごみ捨て場を見て「まあ、きれい」と声をもらす。ここを見たとき観客は改めて、人形がただの人形でなく「空気」人形であったことの意味と、吉野弘の「生命は」という詩が引用されていたわけを知る。
「誰かの代用品」としてのセイを生きる「互いに欠如を満たすなどとは/知りもせず/知らされもせずばらまかれている者同士」の私たちは、おなじような誰かに働きかけることができたとき初めてその存在の呪いから解放されるのかもしれない。
セイ(性、生)は美しいが、とてつもなく醜くもある。その美しい「醜さ」から目をそらしてはいけない。(番場 寛)
シャネルと本谷有希子
2009年08月23日 先に見た友人が、自分にとってはつまらなかったと言っていたが、授業でモードも扱っているのでクリチャン・デュゲイ監督「ココ・シャネル」を見てきた。映画はココ・シャネルについての新しい見方、視点を提示するものではなく、すでに知られている数多くのエピソードから父親に孤児院に置き去り同然に預けられてから愛に飢えていたシャネルが経験した二つの恋愛に焦点を絞り、展開していく。
一度目のカムバックのショーの大失敗で、二度目のショーを禁じられたのを振り切り奇跡的な大成功を収める流れを現在と設定し、随所に回想する過去が流れるという作りがされており、オーソドックスな映画だと思った。本物のシャネルの作品を何点も見られた以外は何かを発見したという映画ではなかった。
映画館は年配の女性で溢れていたが、映画が始まると私語は消え、部屋全体が感動しているのが伝わってきた。これはありふれたサクセスストーリーなのになぜこれほど人を惹きつけるのだろうか?
2度目のショーを阻止しようとするビジネス相手の助言を「私はシャネルよ」とはねつけ果敢にショーを成功させてしまう姿は傲慢なのに見ていて気持ちいい。
映画を見た翌日大阪で本谷有希子作・演出の「来来来来来」(ライ…と読む)を見た。小説は何作読んだし、彼女の作品原作の映画(「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」)も見たが、演劇だけを見てなかった。
ストーリー自体はとても分かりやすい。ある家庭の長男と結婚した女性が、長男の失踪後まるで人質のようにこきつかわれるという設定である。なぜ逃げないのかという問いかけにも「逃げるのではなく、乗り越えたい」と答え、イジメにも似た扱いにも耐える。
劇場は満員で、今話題の本谷とはいえ、改めて彼女の魅力とは何かと考えた。何よりもデビュー当時世間を驚かせたのは「劇団本谷有紀子」という名で旗揚げしたことだ。強烈な自己顕示欲は「わたしはシャネルよ」と言い、自己ブランドのマークにココの頭文字を使ったシャネルと同じだ。
過剰に感情をむき出しにした登場人物の本谷の演出に注意し、台詞に耳を傾けていると多くの人を惹きつける秘密の一部が分かるような気がしてくる。
確かに舞台で演じられる行為は常軌を逸しているが、それらはわたしたちが日常誰でもが感じているが、敢えて言葉にしなかったり、行動に表さなかったりすることだ。本谷は普通の人の感情を分析し、それをまるで電子顕微鏡で拡大するかのように見せてくれる。
たとえば、あれほどいじめられていた姑(昔、劇団「青い鳥」で活躍していた木野花さんが演じていて嬉しい)が認知症になったとき、頭を撫でられたことで自分をよくやったと初めて認められたと思い、彼女を連れてそこから脱出する決心をするところは、誰でもが持っている自分を認めてもらいたいという感情とは、それほど強いのかと感動させる。(小劇場の先輩、木野に頭をなでてもらうという演出は無意識的なものなのか?)
唯一主人公の味方の女子高生が言う。「努力してないと生きている実感がないなんて言わないでよ(…)わたし蓉子ちゃんのことが好きなのか嫌いなのか分からなくなった。好きと嫌いは似ている」(覚えているまま)
彼女の人気の秘密はだれでもが感じるがそれを認めたくない、強く惹かれる他者への愛と憎しみの感情が強く絡み合っている様をむき出しに見せてくれるからだ。 それは誰でもが美しいと感じるが、自分では気づかない「色」「形」「手触り」を「わたしはシャネルよ」と言って、組み合わせて見せてくれるシャネルと共通している。
終演後、俳優たちと一緒に舞台に立った本谷は細く、どこからこんな過激な世界を生みだすのかと思わせるような美少女(?)だった。(番場 寛)
まだ見ていない映画、是枝裕和監督「空気人形」についての映画評
2009年08月19日 最近困るのは、見たい映画の前に流される別の映画の予告篇である。本篇を見ていないのにかなりの部分が分かったような気がしてしまう。「空気人形」はまだ見ていないが、予告篇を一回見てしまった。そしてすっかり惹きつけられイメージが膨らんで抑えることができない。
画面にペ・ドゥナがメイドの服装ですっくと立ち、「わたしは心を持たない空気人形」と言う。それから別の場面に変わり「それなのに恋を知ってしまったのです」と言い、その人形を性の道具として愛玩していたと思われる男が「帰ってくれ」と叫ぶ(実際の台詞は映画館で確認してください)。
これを見て「ラースと、その彼女」という映画を思い出した。まじめな好青年で彼に関心を寄せる女性もいるのに彼自身は女性に興味を抱かず、兄夫婦が心配していた。そんなラースが突然彼らの前に「彼女だ」と連れてきたのは通販で取り寄せたダッチワイフだった。
兄夫婦は当惑しながらも弟の気持ちを尊重し受け入れていく。次第にその輪は広がりラースの周りの人たちもその幻想を受け入れていく。人形は無表情なのにラースによって服をさまざまに着せかえられ話しかけられることにより生きている娘のようにラースと周りの人たちの生活を豊かにしていく。それを見ているとまるでラース自身が周りの人たちの愛情を具現している人形のようにも見えてくる。
「人形」が主題の作品を見るたびに思い出す別の映画がある。もう20年近く前にフランスで見たもので確かタイトルは「I love you」だったと思う。若い男が偶然、舞踏会のマスクのような顔だけのキーホルダーを拾う。持ち帰り、ボタンを操作すると、I love youと言う。不思議なことに他の人が操作しても黙ったままで、彼にだけそう言うのだ。彼はすっかり気に入りそのキーホルダーを愛でる。
ところがある日、彼以外にキーホルダーにI love youと言わせることのできる男がいることを彼は発見してしまう。彼は狂ったように怒り、そのキーホルダーを叩き潰してしまう。
そう、能面が見る人の気持ちで表情を変えるように、すべては見る者の想像力の産物なのだ。これらの作品を見ていて怖くなるのは、人形ではない生身の人間に対しても恋や愛情を捧げるとき、人はこれと同じことをしているのではないかとさえ思えてくるからだ。
「ラカンが言うように『性関係はない』のです。だからこそ文学作品が書かれるのです」パリ第8大学のマリ=エレーヌ・ブルス先生の言った言葉が思い出される。
もし人形が心を持ち、主人の思いを無視して別の人に恋をしてしまったなら… 秋葉原で「お帰りなさいませ」と笑顔を振りまくメイド喫茶の少女たちとは違い、予告篇で見た、無表情であるがゆえに見る者の愛をかき立てるメイドの服装をしたペ・ドゥナが美しい。9月の公開が待ち遠しい。(番場 寛)
老人は何に対して戦うのか?-「人生に乾杯」(京都シネマにて)を見て-
2009年08月18日 時間が立つにつれて、何本か見た映画の印象が頭の中で混ざり合い記憶は曖昧になってくる。それとは反対にまるで映画の骨組のようなものの共通性が見えて来ることもある。
たとえば「エヴァンゲリオン劇場版 碇」に続いて見た、同じくアニメの「劇場版交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい」は、地球を守るために戦うよう運命づけられた少年がロボットに乗り敵と戦うという主要な粗筋だけでなく、その敵が形の定まってない何か得体のしれないものだという点(後者の敵は「イマージュ」(フランス語で、「イメージ」の意)でも、既視感がある。
二つの作品は、キャラクターや父親の存在という差異に覆われているが、戦いにおいて限界までに力を出し尽くした主人公にさらなる奇跡のような戦闘能力を発揮させるのが、「人類」という抽象的なものではなく、「綾波レイ」や「エウレカ」といった主人公が心から愛する少女であるという類似点を露呈する。実際レイとエウレカは髪型や体型だけでなく、主人公に対する自分の気持ちを抑える性格までもが似通っている。人は具体的な愛する誰かのためだったら戦えるのだ。
そんな二つのアニメに比べて「人生に乾杯」というハンガリー映画はまったく共通点がないように思われるだろう。なにしろ80歳と70歳(?)の足元もおぼつかない老夫婦というアンチヒーローが闘う映画なのだから。
年金生活だけでは生活できず、公的・私的料金の支払いが滞り、ついに差し押さえが入り、老婆が唯一大事にしていた首飾りを借金の片に持っていかれる。それは夫が唯一楽しみとしていた本を持っていかれそうになった老婆が身を切るような思いで差し出したものだった。
老人はついに立ち上がり、大事にしまっていた銃を取り出し、愛車に乗り銀行強盗を実行し成功してしまう。それからは歯止めが利かず、二人でさらに過激な強盗を重ねていく。
その犯罪がテレビ中継されると同じように低い地位と経済状態に置かれた世の中の老人たちの喝采を浴びるのである。しかし彼らは何のために戦うのだろう。一見単純に金のために見えるが、やがてそうではないということが分かる(映画見てください)。
「あなたはいつも私を守ってくれた」皺くちゃの頬を老婆が夫に寄せるシーンを見たとき。これは愛する少女を守ろうとする碇シンジであり、レントンの物語なのだと思った。
しかし老人が乗るのは最新ロボットではなく1958年製の旧共産党公用車であり、手にするのは電子ビーム銃ではなく操作も危ういトカレフなのだ。それでも、人は愛するたった一人のために戦うときだけ主人公になれる。
ところで、ぼくは誰のために何と戦えばいいのだろう。主人公になれるのだろうか? (番場 寛)
見るべき映画、想田和弘監督「精神」(京都シネマにて)
2009年07月29日 映画に関しては、人に、これは見るべきだという薦め方はしたことがない。それでもこの映画に対しては、「これは見るべきだ」とあなたに言いたい。なぜか? それはこれがこの映画に出てくるような精神の病を持つ患者さんへの偏見を捨てることに役立つだけでなく、これを見るわたしたち自身の生をより豊かにしてくれると思うからだ。
これは岡山市にある外来の精神科診療所「こらーる岡山」で診察を受ける患者さんとそれを支える山本昌知医師とスタッフの日常を映したドキュメンタリー映画である。 すでに知らされていても、映画に出てくる患者さんにモザイクがかかっていないことにはやはり驚かされる。映画上映のあとのスピーチで想田監督自身は、モザイクをかけるということは人間を記号に変えてしまうことなので何とか避けたかったと語った。
その狙いは、確かに映画の中の言葉を使えば、精神障害者と健常者と言われる人の間にあり、障害を持つ人自身も自ら感じてしまう、偏見という名の「人と人との間にあるカーテン」に気づきそれをなくすように意識改革をするためと思われるが、それを実現することがどれほど困難なことであるかは推察できる。
この映画が見る人の心を動かすのは監督が「観察映画」と命名しているように観客自らの目で見て判断できるように撮られているからだ。勿論合計70時間まわしたフイルムから2時間分を切り取って編集したのは監督なので、観客が自ら自分の目で見て判断しているという臨場感を持てるように撮られているといったらより正確であろう。
前にこのブログで「愛のむきだし」という映画を扱ったが、それに倣って名づければ「生のむきだし」の映画だと言える。患者の語る幻聴や幻覚は健常者には現れないとしても、誰でもが抱く筈の「不安」「孤独」がここでは、むきだしでカメラの前にさらけ出されている。そしてそれは人間である限り誰でもが普遍的に抱いている「裸にされた生」そのものの姿だ。ただ、患者としてその生を脅かされているのは患者の置かれた状況に対応しきれていない社会的、制度的なもの整備が不十分なためと思わずにおれない。その中でも、直面している問題として何回か「自立支援法」が口に出される。
また想田監督のいう「観察映画」とは可能な限りの観客の自由な思考をうながすことを目指すという説明には賛同しながらも疑問も抱いた。たとえば人物以外の映像で最初と最後に映し出される。蜘蛛の糸に引っ掛かって揺れている一枚の枯れ葉、ほんの少しでも強い風が吹けば落ちてしまいそうで、不安定な患者の心と生の隠喩と見てしまうことを方向づけられていると感じるのはぼくだけではないであろう。自由に動き回る猫と鎖につながれた貧弱な犬の映像もどうしても患者たちと結び付けて見るように映画は作られている。それがショットとショットをつなげて見るように作られている映画の宿命であろう。
そうだとしたなら映画の最後に映し出される本当に重い現実(実際に映画館で経験してほしい)をどのように受け止めるべきなのだろうか? これはまさに、映画館を出てからも観客の意識の中で続く「観察映画」なのだ。(番場 寛)
ケン・ローチ監督「この自由な世界で」を見て
2009年02月13日 先入観なしにこの映画を見たのだが、派遣切りや大企業の人員削減のニュースが新聞の一面を飾る日常にあまりに重なる映画だと思った。
息子を両親に預けて働く33歳のシングル・マザーであるアンジーは、ロンドンの移民に労働を斡旋する事務所で働いていたが、上司にたてついたことで首になってしまう。考えた末、友人と一緒に自分たちで、移民に日雇いの仕事を斡旋する事務所を開く。最初は無許可で始める。仕事が軌道に乗りかけたかに思われたとき、手形が不渡りになり、労働者たちに賃金を払えなくなり、それを機に彼女たちは移民労働者たちの暴力と威嚇にさらされることになる。見ていない人のためにこれ以上の粗筋は控えるが、タイトルの「この自由な世界で」が問題なのだ。「仕事をくれ」と求める者に対し、与えることのできる立場の者は圧倒的に優位な立場におり、そこに「搾取」が生まれる。搾取される立場だったアンジーが仕事を進める中で搾取する立場に変化していく姿を冷酷ともいえるカメラでとらえている。息子を守るために、威嚇、要求された賃金を払うためにウクライナに飛び、不法労働の手助けをしてお金を得ようとするシーンでは思わず涙がこぼれてしまった。
ケン・ローチは加害者や悪人が明確な世界ではなく、悪いこと、卑劣なことを分かっていながらもやらざるを得ない状況に追い込まれていく人間を描く。
最初は労働許可証を持っていないという理由で追い払ったイラン人の男を偶然見かけ、子供を抱えて隠れ住む現状を知ったときアンジーは自分の家に彼らを呼び食べ物を与える。友人が彼女に忠告するように、それは何千人といる人の中のほんの一部をきまぐれに救おうとすることでしかない。現に自分に舞い込んだ仕事に必要な労働者を確保するために、移民たちが隠れ住んでいる住まいから追い払おうと電話で当局に密告までしてしまう。優しい心を持った人でもこれほどまでに残酷になれるのだ。
大企業の1万5千人削減という数に驚くべきではない。もしたった一人削減だとしても、その人には食べ物や住まいが必要だし、家族だっているのだ。もし次の仕事が見つからなければ映画の登場人物たちのようにさ迷わなくてはならない。数にではなく、一人への想像力を禁じるのがこの「自由な世界」なのだろうか?
就職活動を始めたぼくのクラスの学生たちも厳しい現実に向かっていることだろう。映画のなかの「仕事をくれ」をいう悲痛な叫びを聞くといたたまれなくなる。世の中にある仕事とは「椅子取りゲーム」の椅子のように数が限られているのだろうか。そうではなく、「介護」のように必要とされている仕事の賃金が十分補償されていないことが問題なのだ。
心につきささるようなこの映画を見ていると「希望」なんてないかに思えるかもしれない。でも違う、映画では「お金」の関係を離れた移民の青年とアンジーの関係をも描かれているし、何よりもこの映画がイギリスで造られ、世界で多くの賞を受賞していることが「希望」の証だろう。
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