このとてつもない忙しい時期にもかかわらず、朝7時42分の新幹線に乗り、東京に行ったのは、雑誌で目にした『神曲』三部作の紹介の記事である。普通、日本に呼ぶことのできる劇やダンスの作品は、その評価がすでに高く、製作者がその力量の頂点に達している場合が殆どであるのに対し、この作者であるロメオ・カステルッチは評価の頂点のへの途上にあるという紹介であった。しかもこの『神曲』は2008年のアヴィニョン演劇祭で圧倒的な評価を受けたという。
是が非でも見にいかなくてはと思った。日程を調べると、「天国篇」と「煉獄篇」も同日に見ることができる。あわててネットで予約した。また同日の2時には下北沢の「スズナリ」で、寺山修司の『田園に死す』を天野天街が舞台化したものも当日券があるということで、それも見ることにする。
せっかく東京に行くのだから何か興味のある展覧会も見ようと思い、3本の劇・インスタレーションの前に森美術館(六本木)で「医学と芸術展」を見る。
時間を気にしながら一筆書きのように東京を駆け巡って展覧会と3本の劇・インスタレーションを観終えて、頭の中に混在している印象を整理すると、今残っているテーマは「老いと死」である。
森美術館で見たもので印象深かったのは、やなぎみわの「The three fates 2008年」である。3人の少女たちのすぐ横に並べられたのは、乳房が垂れ、皺がより、髪は白髪になった3人の老婆である。展示は右に少女たちの写真が置かれていたが、左から右に見れば若返るという解説が見事だった。同じ発想で別の作者により製作されたのは、白い若い女性の顔の彫刻なのだが、空気を抜かれることで一気に老婆に変身するものだ。
またきれいな模様のウエディングドレスが目についたがそれは「記念日」という作品であるが、近くで見ると貼り付けられていたのは6500個もの「経口避妊薬」であった。解説者も指摘しているが、この「結婚」と「避妊」という表面上の対立をどのように考えるべきだろうか?
この展覧会で一番衝撃的だったのは、年齢も性も異なる人物の顔の大きく引き伸ばされた何枚かの写真である。左側は目を開いており、右は眠ったように眼を閉じている。死後すぐに撮られた写真だという。それぞれの死に直面した人の経歴が添えられていたが、不思議なことに生きていたときの写真ではなく、死んだ直後の目を閉じた写真の方がより生々しくまるで生きているように感じられたことだ。その中でも生まれて数年もたっていない少女の顔である。天使も死ぬのだろうかと思わずにおれない写真であった。
前にこのブログで「セイの美しい「醜さ」から目をそらさないで」と書いたが、「生」のリアリティを感じにくい現代にあってそれを感じることのできるのは、「若さ」と「老い」、「誕生」と「死」を暴力的に接近させるときなのであろう。(次回へ続きます) (番場 寛)
Archive for the '雑感' Category
12月19日のカンゲキツアー(ロメオ・カステルッチ『神曲』他)
2009年12月22日「恋重荷」を観る
2009年12月09日 先週、金曜日にファスビンダー原作、田中章義演出の「塵、都会、死」という劇を観て、日曜日に三浦基演出の「追伸」と題された、A.アルト-のテキストに基づく朗読劇を見たが、それに挟まるように土曜日に、河村能楽堂で能を観た。
そこで観た能のひとつの「恋重荷(こいのおもに)」という作品にまず惹かれたのは、その題目である。シテは老人で、かれが恋するのは高貴な身分の若い女性だという設定だけでもうイメージが広がってしまった。
手持ちのテキストの中では岩波古典文学大系版にしか載っていなかったが、そこで演じられたものとはかなり謡が異なっているようだった。能はときどきではあるが、何年も前から見ており、2年ほど前から直に先生につき習っているのだが、良く見る現代劇のようには、なかなか分からない。
それでもこの「恋重荷」については十分楽しめた。その天皇の女御に恋した庭師である老人は苦しさのあまり、その恋を忘れようとする。しかしその恋を忘れることは、それがかなわないことよりもっと耐えがたいのだという。そこで出される試練が「恋重荷」という物体の箱である。それを持ち上げて何度が庭をめぐることができれば、もういちど老人の前にその女御は姿をあらわすと言う。老人は必死にそれを持ち上げようとするができず、絶望のあまり狂い死んでしまう。
老人は鬼のような面に変わった怨霊となって、その女御を責めさいなむが、最後には、自分を弔ってくれるなら、あなたの守り神となろうと言って消える。最後まで忘れられないのである。
とても悲しく身につまされる話なのに、恋の苦しみを、「重荷を持ち上げる」という視覚的な行為に転換しているので、喜劇的なものへと変化している。こうした観念の視覚化という技法はひょっとして寺山修司が能から学んだ技法でもあるのだろうか?
もう何年か前に現実に起きたことだが、ある老人が女子高生に恋をして、想いを打ち明けて訴えられたということがニュースになった。 身分の差ということは殆どなくなったとしても、越え難い年齢差という「重荷」はどうにもし難い。この作品のように死ねない老人は、現代だったらストーカーになってしまうのだろうか? 恋した若い女の心をつかむため、メフィストに魂を譲り渡してまで若返ろうとしたファウスト同様、「恋重荷」の老人を笑うことはできない。
しかし、この能にはまだ救いがあるのでは、とふと思った。もしこの主人公が若くて、身分も高くて十分美しくて、それでもその恋した女の心をつかむことができなかったとしたら。それこそ、現代においてあり得る「恋重荷」ではないか。この能のリアリティは、その「恋重荷」を持ち上げることが不可能なのに、それよりも恋を捨てる方がより苦しいという告白である。
ところで、あなたはあなたの「恋重荷」を持ち上げられますか? (番場 寛)
花はどこへ行った
2009年12月04日一面レンガで覆われた大学の中庭の真ん中に大きな木がたっている。もう2週間以上も前のことなのに忘れられない。
その木の根元だけが土が剥き出しになっておりほとんどそこに注目することはなかった。
ところが、ある日そこの東側に20センチくらいの草が伸びておりそこに青紫の花が一輪咲いていた。
春だったら珍しくもないかもしれないが、あちこちの木々が紅葉をしている頃だ、その草のかぼそいの茎と葉の緑とその花は鮮やかな対照をなしていた。それを見たとき、よくぞこんなところに咲いてくれたという思いと同時になにか危うい感じ、痛々しい感じがしたが、そのときはその理由が分からなかった。
それが分かったのは授業を終えて再びその場所を通ったときだ。その青紫の花が咲いていたところには跡形もなくなっており、ほとんど乾いた土が残っているばかりだった。
だれかが、採り去ったのだ。誰が、何のために? 先ほど感じた痛々しい感じが蘇った。綺麗と思った瞬間それを自分だけのものにしたいと思ったし、それはいけないとも思ったのだ。20センチくらいにまで伸びていたのだ。おそらく花さえ咲かなければ、そこにいまでも摘まれることなく生きていることができたのだろう。
それにしても誰がどんな気持ちで摘んだのだろう? 思いを巡らしてみる。ある親しい男女の学生がいる。男子の方は彼女に魅かれているが、その気持ちを伝えてしまったらもう今のように親しい口が利けなくなるかもしれないと恐れている。ある日彼は偶然、木の根元にひっそりと花開いたその青紫の花を見つけると迷うことなくそれを摘み、その魅かれている彼女に、「これ、おれの愛のしるしだぜ」とできるだけおどけた調子で投げつける。
同い年なのに考え方が幼くて、まるで弟のようだと思っていたその男の子の口から、いきなり「愛」という言葉が出てきたことに彼女は驚き、断るのも忘れて受け取ってしまう。 一瞬捨てようかと思うが、あまりに可愛いのでためらう。どうしようかと思ったのち、持っていたペットボトルの水でティッシュを濡らし、その花の茎をつつみそっとカバンにしまう。
もしそうだったならあの花は、今も彼女の机の上の一輪ざしのなかで咲いている筈だが、本当はどうなのだろう? もうゴミとして捨てられてしまったのだろうか?
それ以来、あの木のそばを通るたびに根元を見てしまう。ある日思わず天を仰いで驚いた。この季節にもあおあおとした葉をつけているその木の上の方に真っ赤な花が咲いている。よく目を凝らしてみるとそれは花ではなく、しぼんだ風船がひっかかっているものらしいと分かる。おそらく学園祭かなにかのときに舞い上がって引っかかったままなのだろう。
もういちど根元に視線を落とす。やはりそこにはほんのかすかな小さな草の他には、砂漠のように土が広がっているばかりだ。
ぼくの心の中には、そこにはないあの青紫の花がいまもひっそりと咲いている。(番場 寛)
「コールセンターの恋人」(朝日放送)の最終回
2009年09月30日 今回フランスにいるとき日本に帰ってそれを見ることを楽しみにしていた「コールセンターの恋人」という連続ドラマ(現在はYou Tubeで見ることができます)が終わった。
それはテレビショッピングの客の苦情を処理する目的で設置されたコールセンターが舞台だ。小泉孝太郎演ずる都倉渉は、仕事のミスからそのコールセンターに飛ばされる。くさりながらもそこで成果を上げて本社に戻れることを夢見て働くわけだが、毎回、その回ごとに紹介される新商品を買った客からそのコールセンターに届くクレームに対応するのはその彼だ。
ただひたすら謝るだけで逆に客を怒らせてしまうこともある彼を、冷静な分析と適切な対応で救うのが、ミムラ演ずる青山響子(アオキョウと呼ばれている)だ。他の登場人物と同様、彼女も極端なまでに個性化された人物として演出されている。いつも黒い服装をしていて横に爆発したようなパーマをかけた髪をしている。なによりも不思議なのは、いつも水道の水を入れた大きな黄色い水筒を持参し、契約社員なのに夜、そのセンターに寝泊まりして24時間、客からかかってくるクレームの電話に対応することだ。
極端なまでに誇張され類型化された殆どすべての登場人物像は放映を重ねても殆ど変化しない。テレビショッピングで商品を派手に紹介する名取裕子演ずる南極アイスという名は、それを必要としない客にも欲望をかきたて買わせようという、テレビショッピングの本質をおかしいまでに表している。
最終回でそのアオキョウの全ての謎が明らかになる。幼い頃父親に連れられて旅を続ける時、父親は飲食店に詐欺をしてクレームをつけることで糧を得ていた。いつか父親が電話でクレームを言ってくるのではないかという可能性に期待して彼女はコールセンターで働いていたのでは?という推測がなされる。そんなときある町の福引で当たった3等の景品が黄色い水筒であり、父親はそれに水道の水を入れ彼女の方にかけ、よかったと頭を撫でてくれた思い出の品である(彼女にとってそれは父親のファルスとも言える)。
感動的なのは、犯罪者の娘であることが皆に知られ、迷惑をかけることを恐れ置手紙を置いて失踪したアオキョウが、やがて父親の死を知らされ、ぼろぼろになったときふと自分が働いていたコールセンターに真夜中に電話するシーンである。電話に出るのはアオキョウに代わってそこに寝泊まりしていた都倉である。この連続ドラマのすべてはこのシーンのためにあると言っても言い過ぎではない。
都倉がアオキョウをモデルにして書いて出版した『クレームの女王』が成功したことでテレビに出演した都倉は番組中に彼女に戻るよう呼び掛けたことに対し、「苦情です。テレビで人の名を呼ばないでください」と青山は鼻をつまんで電話口で言う。それに対して都倉の言った言葉はそれだけを取り上げたらいかにも説教じみた、いわゆるくさい台詞なのだが、それまで連続してこのドラマを見た人、とくに数回前のシーン、都倉が自分の客への対応のミスで仕事がらみで再会した昔の友人を救うことができず、本社にいる恋人にもふられてしまってぼろぼろになって絶望した彼が、ふと例のコールセンターに真夜中に電話したときにアオキョウが答えた台詞を、今度は職場を去らねばならないまでに追い詰められ、しかも長年探し求めていた父親が死んだことを告げられ、打ちひしがれて電話をかけたアオキョウに、同じ内容を返す。
これはまるでラカン言っている「主体は自分のメッセージを<他者Autre>から逆向きに受け取る」をそのまま映像化したものにも思える。
「そこに水筒があるでしょう、その水を飲んでみてください」と言う都倉の指示に従ったアオキョウは「しょっぱいです」と答える。それに対し「ある人が教えてくれたんです。人生はペットボトルの水ではありません。思い通りにならない人生を生き続けてください」と、都倉は自分が前にそのアオキョウから言われた同じ言葉を繰り返す。それに胸を打たれたアオキョウはゆっくりと自分で自分の頭を撫で、泣きじゃくる。つまりかつて自分が電話で都倉を慰めた言葉が今度は、幼い頃頭を撫でてくれた父親と同じくらい自分を慰めたのだ。
驚かされたのは会話だけではない。アオキョウが真夜中に電話しているとき、公園のジャングルジムか何かの遊具が背景に映し出されるが、その遊具がはっきりと分かるように黄色に塗られているのが強調されている映像である。それはアオキョウの大切にしている水筒の色であるばかりでなく、コールセンターの職員が着ている作業服の色でもあったことに気づかされる。
つまり都倉が悟ったように、コールセンターに苦情を言う人は、もっとよりよく生きたいという願望をクレームという形で表しているのだとしたなら、その黄色はその苦情という形で求めている電話口にいる人へのコールセンターで答える人の思いやりの隠喩でもあったのだ。
エンディングは、アオキョウが都倉のおかげで職場に戻ったときにかかってきたシュウマイが一個たりないというクレームに、アオキョウが的確に対応するシーンである。彼女の対応で、結局足りなかったシュウマイは蓋の裏にくっついていたことが分かる。
なんて粋な終わり方だろう。教えているのだ。つまり、欠けているものは目に見えないが、つねにそこにあるのだと。(番場 寛)
精神分析は「パンドラの匣」なのだろうか?
2009年09月25日 今回もパリに行き短い滞在期間だったが、セミナー期間は夜一回、それが過ぎてからは一日2回計10回の分析を受けてきた。分析と言っても聞いて人が普通想像するように、分析家が被分析者の話を聞いて、あなたの問題点はこれこれです、というように「分析」してくれるというのでは、まったくない。特にラカン派の分析では、分析を受ける人は「被分析者」という意味の、analysé(「分析するanalyser」の過去分詞の名詞化したもの)ではなくて、能動的な意味を帯びた現在分詞から作ったanalysantと呼ばれ、普通「分析主体」と訳される。
自由連想法により心に浮かぶことを分析家に話すだけで、分析家の役目はもっぱらそれを聞き、分析を受ける人がいかに無意識を開放して言葉として自由にでてくるよう手助けをすることにある。
もう7年前になるが大学から一年間の研究休暇をもらってパリに滞在したとき、あるラカン派の分析家に、分析を受けるべきかどうかたずねたことがある。彼が、分析を受けないでどうして精神分析が何であるか分かるだろうかと断言したことが心に引っかかった。
治療のための分析ではなく、分析家になるための「教育分析」を終えるには十年以上もかかるとも聞いていた。滞在の期間も一年だし、それ以後渡仏して続ける気はなかった。しかしそれ以上にぼくをたじろがせたのは、分析に対するイメージであり、それは「パンドラの匣」のイメージであった。
つまり決して開けてはならない箱であり、それを開けてしまったら心の奥底にあるすべての醜いもの、おぞましいものが出てきてしまい、どうにか安定した心の状態で送っている日常を失うことになるのではないか、そういった恐れであった。
しかし、チビエルジュ氏の奥さんで、パリで自身も精神分析家として働いている那須恵理子さんに会ったとき、もし分析を始めて途中でやめたら何か問題があるだろうかと尋ねた。彼女は、今ぼく自身に何か問題がないのなら、分析を始めてもいつやめても大丈夫だと断言した。それでぼくも分析を始めたのだった。まるで、好奇心に負けてしまったパンドラのように。
待合室で分析を受けたばかりの人を見ると、やはり暗い表情で出てくる人が目につく。あるときぼくが分析を終えて出たら待合室に4人の女性が待っていた。いずれも若い女性だ。改めてどうしてなのだろうと思う。パリの電話帳のイエローページで確認したら、分析家だけが掲載してある頁が5頁もあった。
チビエルジュ氏に、分析を受けている女性が多いのを見て驚いたことを言ったら。彼もそうだと言った後、では日本では若い女性たちは悩みをだれに相談しているのかと尋ねられた。そう言われるとフランスが異常なのか、分析など必要ないかに見える日本が不思議なのかわからなくなる。(皆さんは一体どうしているのでしょう?)
もう十数年以上前になる。ラカンの弟子の一人で、現在は自分の派を形成して大成功している分析家のJ-D.ナシオ氏を大谷大学に招いて講演会をしてもらったことがある。かれに「分析家は何を分析の目標としているのですか?」と誰かが尋ねたときのことである。ナシオ氏は答えた。「それは分析を受ける人が分析家と別れられるようになることです」と。
何と深い言葉だったのかと今は分かる。分析のときには「転移」と呼ばれる恋愛のような親密な心理状態に陥る。もし恋愛だったら、人は別れるために恋人に会い続けるのだとは言わない。やがて別れることができる日を目指して会い続けるとは、何と倒錯的とも言える関係なのだろう。
「パンドラの匣」の話はぼくを恐れさせたが、それは同時にぼくの好きな話でもある。それは、この世のすべての災いが出て行ったあとに、その匣の底にたったひとつ残っていたもの、それが「希望」であったからだ。(番場 寛)
「あなたに会いたいのですが・・・」
2009年09月06日 出発の前日ここで書いたが、わざわざ飛行機に乗っていくのが億劫だったし、健康上の不安もあった。でも本当に行ってよかった。短期間にあまりにも多くのことを経験して頭の中がまだ整理できてない。
4日間はラカンの1970年から72年にかけての講義録を対象にした「国際ラカン協会」の夏のセミナーに参加し、その後4日間に、美術館(オルセー、ポンピドゥーセンター)に行き、ペールラシェーズ墓地を訪れ、買い物をした。その間、土日を除き、パリに行くたびに受けている精神分析家の寝椅子に横になり、分析を受けた。それから劇と映画も一本ずつ見ることができた。
その合間をぬって5人の友人と会ってきた。直前まで行けるかどうか分からなかったので直前にメールやファックスをしたのだが、ありがたいことにみな会ってくれた。服飾デザイナーのEさんはフランス人の夫に子供を預けて会ってくれたし、バカンスに行っていて連絡のとれなかったC氏はホテルに直接連絡をくれ会いに来てくれた。またセミナーで再会した分析家のT氏はよかったら後日会おうといってくれたので、二日後に会った。みなこちら以上に忙しい中を何とか調整して会ってくれた。どうしても時間のとれない大使館につとめるW氏とは、入口で久しぶりに厳重なチェックを受け、彼のオフィスで30分だがお話できた。
こちらが会いたいと思って会えるのは、なぜパリだと可能なのだろう。それはわざわざ遠くから来たのだからと相手が思うのだろうか? それよりもたとえばこの京都で「あなたに会いたい」と言葉に出す機会が果たしてどのくらいあるのだろうと自問してみると殆どないことに気づく。
人が人に会うためには理由がいる。仕事なり情報の交換なり明確な目的があるか、もしくは友情なり恋愛感情なり性的欲望なりを相手に感じているかを相手に伝えないと会えない。それがそこでは、ただ気持ちをそのまま伝えるだけで会えるのだ。
「あなたに会いたいのですが・・・」こう言うためだけでもパリに行った価値はあった。 (番場 寛)
末期の眼
2009年08月24日 明日から10日間の予定でパリに行くのに憂鬱というか、億劫だ。いや正直に言えば不安でならない。言葉も通じて泊まったり、行動したりする界隈も一年間住んでいた所であり、コインランドリーの位置も分かるくらいの所なのに、なぜかとても不安で楽しい気にはなれない。
思えばここ何年か、外国への旅行を億劫に感じている自分に気づく。今回はそういった状況に加えて6月に受けた人間ドックで、ある項目がひっかかって検査しても分からないという状態が続いていることも不安を増している原因である。
それでも今行かなかったら、やがてもっと億劫になるだろう。今回の一番の目的は「国際ラカン協会」の夏のセミナーに参加するためだ。1971年から73年にかけての後期ラカンの重要なテーマ、「性関係はない」という言い方で有名な、論理式をもじった性別化の式(男女の関係がいかになりたたないかを示したもの)を講じた「アンコール(再び、もっと」「ウ・ピール(あるいはもっと悪く)」「精神分析家の知」という講義録を発表者が注解し、それについて議論するというものだ。
このブログでセドリック・クラピッシュの映画「Paris」について書いたのは2月5日だった。心臓の手術を受けなければ亡くなるが、手術の成功の確率も非常に少ないと告げられた主人公の目を通して映し出されるパリの風景を、末期の眼を通した映像だと思った。今回はそんな気持ちが分かる気がする。
昼間から路上に腰を下ろし物乞いをする浮浪者、冷え切ったすがすがしい空気の中を地下鉄の駅へと急ぐ人たち、そうかと思えば朝からビールのグラスを前にしてカフェでぼんやりとくつろぐ人たち、今度は彼らはどのようにぼくの目に映るのだろうか?
今日旅行の準備の品を揃えるため京都の街を歩き回った。いつの間にか空気が冷えており、ふとパリを思わせる。こんなに京都は美しかったろうかと思った。この風景でさえ、見ることができるのは限りあるのだということを誰も忘れている。(番場 寛)
ジャック・ラカンのディスクールdiscours(語らい)理論はどの程度有効なのだろうか?
2009年08月08日 7月20日に京大の「あがるまの会2009」(代表 新宮一成、尾崎純子)という、精神療法を実践している精神科医や臨床心理士の臨床報告とそれに対する検討がなされる研究会に参加した。
そこでパリ第8大学の精神分析学部での留学を終え、「NPO法人ICCC」で職員として働いている池田真典氏の「障害福祉サービスに精神分析は活用できるか?-フランスのラボルド・クリニックを参考にして-」という発表を聞いた。 それは留学時にフランスのラボルド・クリニックに一週間滞在して学んだことを帰国後自らが働く、精神に障害を持つ人の世話をする作業所で応用して実践した報告と考察の発表であった。
ラボルド・クリニックはラカン派の精神科医であるジャン・ウリが開いた精神病院で治療者と被治療者の垣根を払い、開放型の入院病棟を持つ病院として有名である。
驚いたのは池田氏によれば、そのラボルトの病院で治療がうまくいかなくなった時、ジャン・ウリがラカンのディスクール(語らい)理論を持ち出し、これはこのままでは使えないと断った上で、Grille(「一覧表」という意味)という方法を提示し、それに従って全員が行動するようになってから病院全体がうまく機能するようになったということである。それは病院の専門職と雑用係の垣根を取り払いお互いに仕事そのものと意見の交流を目指すもので、各自がそのときそのときにおいて、病院全体にとって各自の最良の能力を発揮できる仕組みだった。
さらに驚かされたのは、池田氏は帰国してからそのラボルドで学んだことを自ら働く精神障害者のための福祉サービス施設の現場に活かそうとして実践したことである。 残念ながらその詳細は省くが、池田氏は具体的な方法としてその施設でのみ通じる地域通貨をまねた労働の評価方法としてのスタンプの導入を発案して実践し、それなりに成果を収めつつあるという報告であった。
ラカン理論は神経症や精神病の治療を目的として提示された筈なのに、論理式やさまざまな数学の概念や記号を使用した、いたずらに難解な理論と受け止められる傾向がある。
そんなラカンの提示した四つのディスクール(語らい)の理論は一挙に社会全体に視野を広げることとなった。ラカンはディスクールを「社会紐帯」つまり人と人とを結びつけるしくみと捉え、「主のディスクール」「ヒステリー者のディスクール」「分析のディスクール」「大学のディスクール」の四つのディスクールを提示した。
各ディスク―ルは同じ四つの要素(主のシニフィアン、知、剰余享楽、主体)とそれらが置かれる四つの場(動因、他者、生産物、真理)からなる。動かない四つの場をその四つの要素が同じ順序で回転しながら場を移動していくことで上に挙げた四つのディスクールが生じる。
スラヴォイ・ジジェクとそれに続く多くの人のように、多くの者が、映画や政治などの分析にこのディスクール理論に当てはめて論じてきた。 しかしジャン・ウリや彼に学んだ池田氏のように実際に精神障害者の人々への援助支援をこのディスク―ル理論をもとに考えることの困難さは容易に想像できるし、その例は一部を除き他に知らない。
人は言葉で人と繋がりそれが集団をなす。ぼくが、パリ第8大学精神分析学部の客員研究員だったときに知り合った年配の看護師の女性になぜラカン理論を学ぶのかと尋ねたことがある。「私の病院では医師は精神分析を学ばない。それで私たち看護師が学ばなくてはなりません。それは患者さんに接するのに必要だからです」。正確に覚えている訳ではないが、彼女はそんなことを言った。
難解なラカン理論は永遠に解けない謎のように魅力的だが、自分の取り組んでいるその謎が現実にも有効なヒントを秘めていることを願わずにおれない。 (番場 寛)
唐十郎、太田省吾、そして三浦基-差異と反復(1)
2009年05月14日G.ドゥルーズの著作の題名『差異と反復』という言葉が頭を離れない。
また今年も唐組の公演、「黒手帳に頬紅を」見に難波の元精華小学校跡のグランドに行ってしまった。マンネリだと思ってしまうのにまたこの桜の季節になると無性にあの雰囲気を味わいたくなってしまう。貼られたテントの中に押し合うように座って見る舞台はちょうど、吉本喜劇のそれに似ており、平面的に並んだ登場人物から機関銃のように発せられる台詞には殆ど「間」といったものはない。しかしその台詞を追っていくとその背後に流れている時間を立体的に感じられる構成になっている。お馴染みの役者、感情たっぷりの音楽、観客の期待の高まったところで登場する唐十郎。脚本も台詞も毎年変わっているが殆ど何も変わってないと言えば変わってない。それなのに見に来てしまう。見終わって携帯のカメラで大阪の夜空の下のテントを写して驚いた。昨年も全く同じ日、4月26日にここに来て見ていたのだ。
そして昨日5月13日、京都芸術センターで、三浦基演出の「あたしちゃん、行く先を言って」を見た(京都公演は5月15日まで)。もともと彼は現代の小劇場演劇の先端をなす演出家なので欠かさず見ているのだが、とくに今回は見る前から疑問と期待が大きかった。なぜなら今回の公演は唐十郎と同時期に演劇をリードし続けた太田省吾の全作品のテキストを編集しなおして三浦が演出すると予告していたからだ。もう30年近くなるかもしれない。実際に見ることのできたのは数回だけだったが、沈黙劇と呼ばれた太田省吾の劇は強烈な印象の記憶として残っている。彼の死の数年前に京都で本人に会え、あの時の感動を直接伝えることができて嬉しかった。
三浦の演出はまず、舞台設定が見事だった。客が部屋の真ん中に散らばった椅子に座り、それを囲むように役者は部屋を壁伝いに移動して台詞を言う。途中で客席に入ってきて台詞を言うときもある。客は6人の登場人物の発する台詞が物語的な時間の中で発せられているのではなく、寸断された対話をモノローグのように語っているのだと思う。しかしそのモノローグはつながりを持った普通の劇の人物同士の対話のように交換されていることに戸惑い、驚く。太田のエッセイや演劇論までもがモノローグで語られるとき、これは一体何を目指しているのだろうと思わずにおれない。物語的な時間を否定したとしても舞台上の時間は流れなくてはならない。劇が終わったとき、始まったときと比べて観客の中で、確かに何かが変わった、時間が流れたのだという意識が生まれなかったなら観客は満足しないだろう。反復は心地よく、差異は不快だが、それが心地よさに変わったときにはその心地よさははかり知れない。しかし差異が差異として認識されるには反復がなければならない、というようなことをドゥルーズの著作をもとに考えてしまう。
疑問はいくつか残ったが、太田省吾のつくった台詞が物のようにそこに発せられてそこに存在していると感じさせる目論見は成功していたと思う。三浦が太田省吾の一作品だけを通して演出したものも見てみたい。そして彼には、当日客席で彼と並んで見ていた松田正隆にと同様にエールを送りたい。もっと前衛に、もっと過激に、と。 (番場 寛)
「学ぶ」ということから
2009年04月08日昨日7日(火曜日)より授業が始まった。毎週火曜日の1限目に国際文化学科1回生必修の「国際文化演習I」が割り当てられているため、国際文化学科の新入生にとって、この授業が、大学で初めて受講する授業となった。担当者である私にとっても、これが本年度最初の授業であった。
チベット語に「ロプ(སློབ་, slob)」という語がある。「教える」という意味で使用されることの多いこの語の意味をあらためて確認するために、チベット語の辞書として権威を持つ『蔵漢大辞典』を引いてみると、次のような記述がみられる。
ロプ 〔他動詞〕 他より学問を「ロプ」すること、あるいは、他に学問を「ロプ」すること。
つまり「ロプ」というこの語は、「学ぶ」「教える」という2つの意味を有しているのである。このことは、「学ぶ」「教える」という一見対照的な行為が一体のものであるという事実に改めて気づかせてくれる。「教える」者がいなければ、「学ぶ」ことはできないし、「教える」ることに対するレスポンスが何らかの気付きを与えてくれること、換言すれば「教える」ことによって「学ぶ」ことは何度でも経験させられる。2つの行為がうまくかみ合い何かを生み出せる一体感を持った「場」を創出すること、それこそが「学び」なのではないか。「ロプ」という語から、そんなことを考え、年度最初の授業で少し提起してみたのであった。[三宅 伸一郎]
電車の中で
2009年02月09日 後期試験も終わり、卒業論文の口頭試問なども一段落した7日の土曜日から、一般入試が始まりました(試験は明日10日まで)。土日はいいお天気でした。
先日通勤途中の電車の中で、ふと気になることがあり、カバンの中からチベット語の資料を取り出し、気になる箇所を確認した後、それをカバンに戻してしばらくしたころ、隣に座っていた50代ぐらいの男性に、「さっきご覧になっていた本は何語ですか?」と尋ねられた。「チベット語です」と答えると、「左から読むのですか?」とか「どんな言語なのですか?」と、ひとしきりチベット語についてのやりとりが続いた。
隣の人の読んでいる本を見る、まして、その本について尋ねるというのは、少々失礼な行為であるが、その時は何の違和感も感じなかった。そうした感覚を抱かせなかった原因は、チベット語という少々マイナーな言語について関心を持ってもらえた、あるいは、知ってもらえたという「嬉しさ」にあったのかもしれないが、それとともに、その時の男性の間を計ったていねいな尋ね方を挙げるべきだろう。
ふとした縁を活かすこと、また、周囲に/すぐ近くの隣に関心を抱くことが新しい知識の発見へとつながることがある。しかし、新たな知識を求めてずかずかと隣の内側に入って行っては、かえって拒絶され、手を空しうして帰らざるをえなくなる。大きな好奇心とともに、他者との間合い(距離)を計り、知ること、それが、ふとした縁をおおいに活かす秘訣なのだろう。
今日は卒論の提出日
2009年01月10日今日10日は卒業論文の提出締切日でした。毎年この日、響流館3F綜合研究室は、卒論の仕上げ、特に製本のためごった返します。私は響流館1Fの図書館にいましたが、期限の4時が近づくと、階上の総合研究室から何人もの学生が提出会場に向け走って行きました。なにはともあれ、提出された学生の皆さん、おつかれさまでした。
大谷大学のある北区は、昨夜から雪が少し降っていたようです。比叡山や東山もうっすらと雪景色。大文字が雪色に彩られていました。
私の住んでいる伏見の方は、全く降ってませんでした。同じ京都でも南と北で、少し気候が違うのを、冬のこの時期、毎年実感させられます。
もうすぐ卒業論文の提出
2009年01月08日冬休みが終わり、昨日7日、授業が再開されました。
昨年の12月10日は、修士論文の提出日でした。それからちょうど1ヶ月の明後日1月10日は、卒業論文の提出日です。
卒論は学部生にとって、4年の学業の集大成です。まだ時間はあります。がんばってください。
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