Archive for the 'Uncategorized' Category

「コールセンターの恋人」(朝日放送)の最終回

2009年09月30日

  今回フランスにいるとき日本に帰ってそれを見ることを楽しみにしていた「コールセンターの恋人」という連続ドラマ(現在はYou Tubeで見ることができます)が終わった。
 それはテレビショッピングの客の苦情を処理する目的で設置されたコールセンターが舞台だ。小泉孝太郎演ずる都倉渉は、仕事のミスからそのコールセンターに飛ばされる。くさりながらもそこで成果を上げて本社に戻れることを夢見て働くわけだが、毎回、その回ごとに紹介される新商品を買った客からそのコールセンターに届くクレームに対応するのはその彼だ。
 ただひたすら謝るだけで逆に客を怒らせてしまうこともある彼を、冷静な分析と適切な対応で救うのが、ミムラ演ずる青山響子(アオキョウと呼ばれている)だ。他の登場人物と同様、彼女も極端なまでに個性化された人物として演出されている。いつも黒い服装をしていて横に爆発したようなパーマをかけた髪をしている。なによりも不思議なのは、いつも水道の水を入れた大きな黄色い水筒を持参し、契約社員なのに夜、そのセンターに寝泊まりして24時間、客からかかってくるクレームの電話に対応することだ。
 極端なまでに誇張され類型化された殆どすべての登場人物像は放映を重ねても殆ど変化しない。テレビショッピングで商品を派手に紹介する名取裕子演ずる南極アイスという名は、それを必要としない客にも欲望をかきたて買わせようという、テレビショッピングの本質をおかしいまでに表している。
 最終回でそのアオキョウの全ての謎が明らかになる。幼い頃父親に連れられて旅を続ける時、父親は飲食店に詐欺をしてクレームをつけることで糧を得ていた。いつか父親が電話でクレームを言ってくるのではないかという可能性に期待して彼女はコールセンターで働いていたのでは?という推測がなされる。そんなときある町の福引で当たった3等の景品が黄色い水筒であり、父親はそれに水道の水を入れ彼女の方にかけ、よかったと頭を撫でてくれた思い出の品である(彼女にとってそれは父親のファルスとも言える)。
 感動的なのは、犯罪者の娘であることが皆に知られ、迷惑をかけることを恐れ置手紙を置いて失踪したアオキョウが、やがて父親の死を知らされ、ぼろぼろになったときふと自分が働いていたコールセンターに真夜中に電話するシーンである。電話に出るのはアオキョウに代わってそこに寝泊まりしていた都倉である。この連続ドラマのすべてはこのシーンのためにあると言っても言い過ぎではない。
 都倉がアオキョウをモデルにして書いて出版した『クレームの女王』が成功したことでテレビに出演した都倉は番組中に彼女に戻るよう呼び掛けたことに対し、「苦情です。テレビで人の名を呼ばないでください」と青山は鼻をつまんで電話口で言う。それに対して都倉の言った言葉はそれだけを取り上げたらいかにも説教じみた、いわゆるくさい台詞なのだが、それまで連続してこのドラマを見た人、とくに数回前のシーン、都倉が自分の客への対応のミスで仕事がらみで再会した昔の友人を救うことができず、本社にいる恋人にもふられてしまってぼろぼろになって絶望した彼が、ふと例のコールセンターに真夜中に電話したときにアオキョウが答えた台詞を、今度は職場を去らねばならないまでに追い詰められ、しかも長年探し求めていた父親が死んだことを告げられ、打ちひしがれて電話をかけたアオキョウに、同じ内容を返す。
 これはまるでラカン言っている「主体は自分のメッセージを<他者Autre>から逆向きに受け取る」をそのまま映像化したものにも思える。
   「そこに水筒があるでしょう、その水を飲んでみてください」と言う都倉の指示に従ったアオキョウは「しょっぱいです」と答える。それに対し「ある人が教えてくれたんです。人生はペットボトルの水ではありません。思い通りにならない人生を生き続けてください」と、都倉は自分が前にそのアオキョウから言われた同じ言葉を繰り返す。それに胸を打たれたアオキョウはゆっくりと自分で自分の頭を撫で、泣きじゃくる。つまりかつて自分が電話で都倉を慰めた言葉が今度は、幼い頃頭を撫でてくれた父親と同じくらい自分を慰めたのだ。
   驚かされたのは会話だけではない。アオキョウが真夜中に電話しているとき、公園のジャングルジムか何かの遊具が背景に映し出されるが、その遊具がはっきりと分かるように黄色に塗られているのが強調されている映像である。それはアオキョウの大切にしている水筒の色であるばかりでなく、コールセンターの職員が着ている作業服の色でもあったことに気づかされる。
   つまり都倉が悟ったように、コールセンターに苦情を言う人は、もっとよりよく生きたいという願望をクレームという形で表しているのだとしたなら、その黄色はその苦情という形で求めている電話口にいる人へのコールセンターで答える人の思いやりの隠喩でもあったのだ。
   エンディングは、アオキョウが都倉のおかげで職場に戻ったときにかかってきたシュウマイが一個たりないというクレームに、アオキョウが的確に対応するシーンである。彼女の対応で、結局足りなかったシュウマイは蓋の裏にくっついていたことが分かる。
   なんて粋な終わり方だろう。教えているのだ。つまり、欠けているものは目に見えないが、つねにそこにあるのだと。(番場 寛)

「彼女たちElles」展-ジョルジュ・ポンピドゥーセンター近代美術館にて-

2009年09月14日

   パリで、今回もポンピドゥーセンターに行った。今回の企画展の「彼女たちElles」というタイトルが建物の正面に大きく掲げられていた。3階が近代美術館の入口になっていて館内に入るとニキ・ド・サンファルのおなじみの「花嫁あるいはエヴァ・マリア」と「1965年頃の磔刑」という作品が目に入る。
 ある部屋に入って戸惑った、アバカノヴィッチの巨大な女性器の造形や、他の作家による男女の結合した性器そのものの写真が展示され女性の観客がくすくす笑っている。こんなのが表現だろうか、そのままじゃないか? 少し失望して部屋を移っていく。次第にそれぞれの作家の意図が伝わってくる。あまりにも多様な作品があるのだが、たとえばビデオで映し出されていたSigalit Landauというイスラエルのテルアヴィヴ生まれの女性の作品は一目瞭然の作品だ。女性が裸でフラフープのように何かを腹で回している。よく見るとそれはフラフープではなく、鉄条網の針金を輪にしたものだった。それが回るたびに女性の裸は傷だらけになっていく。「これは、肉体を活発に無限に包んでいる目に見えない、皮膚の下にあるもろもろの限界に関する個人的で政治的、官能的なパフォーマンスなのです」と作者は説明している。
 もう一つ忘れられないというより、その作品を見たときの感情の原因を自分で分析しきれてない作品がある。それは暗い部屋の中いっぱい、次々と、男と女、男と男、(女と女があったかどうかは覚えていない)というカップルが愛し合っている様のスライド写真が映し出され、それに女性の歌が音楽とともにかぶさるというHeartbeat, 2000-2001という作品であった。
 何でそれだけの作品に感動したのか分からない。普段、映画でもカップルが抱き合うシーンは見たくないし、ましてや男同士のラヴシーンには目を背ける。それなのにこの作品には嫌悪感を抱かない、なぜだろう。まるで何か一面に葉をつけた木と木が風にそよぎ揺らぎこすれ合うのに、立ち会っているような気になってくる。二つの肉体がからまっているがそれは単なる偶然で、見ているとふたつの孤独と孤独がお互いをいつくしんでいるようにしか見えない。
 美しいというより、何か宗教的な静謐な感じになるのはなぜだろうと思うと、流れている言葉が分からない、祈りにも叫びにも似た女性のボーカルのせいだろうかと思い出口で確認するとビョークの歌っているPrayer of Heartという曲だった。
 さらに驚いたのはこのインスタレーションビデオの作者はぼくと同じ年に生まれていたことだ。なぜ、この会場のあちこちに展示されている女性たちは、男性の芸術家に比べて、これほどストレートに性を造形化している者が多いのだろう? 「彼女たちElles」という展示企画は成り立っても「彼らIls」という企画は成立しないだろう。フランス語のilsは、男性だけの場合だけではなく、女性の中に、男性が一人以上含まれている場合も指すからだ。
 分析の時に、このインスタレーション作品を見たとき、なぜかは分からないが、これがラカンの言う「性関係はないIl n’y a pas de rapport sexel」ということなのかと思ったと語ったときである。驚いた。分析家は「そうですね。ラカンは『性的行為はないIl n’y a pas d’acte sexel』とも言ってます」と言ったからだ。
  まだまだ解読され続けているが、ラカンが「性関係はない」と言ったのは、たとえば論理的に説明できるように記述できるような関係というものは、「性」にはないという意味なのだと普通には理解されている。当然、常識的に性交はなされているので、それがないと言っているのではないと一部の学生には話すこともあった。それなのに、「…行為はない」と言っているという指摘は戸惑わせる。日本に帰ってから検索してみると確かにラカンは数箇所でそう言っていることが分かった。
 どう考えればいいのだろう? 今思い浮かぶのはあのHeart Beatという作品である。もし「性関係はない」としたなら、男と女、男と男、女と女はどう絡み合っていてもそれは性関係ではないし、それは性的行為でもないことになる。ではあの絡み合った二つの肉体を結びつけていたものは何だったのだろう? それが「欲望」か「愛」だとしてもなぜそれがその二つの肉体であるのかは、おそらく分からないだろう。(番場 寛) 

「国際ラカン協会」の夏のセミナーに参加して

2009年09月08日

   「もう勘弁して」耳と頭が悲鳴を上げている。出発前は、どの程度理解できるだろうか不安だった。3年前の同じ「国際ラカン協会」の「精神分析的行為」という講義録対象の夏のセミナーに参加した時は絶望的に分からなかったので、今回はできるかぎり準備したつもりだった。セミナーで扱うラカンの講義録のうちまだ読み終えてなかった2つを読んだし、ホームページで公開されている関係する過去のセミナーで発表された内容を飛行機の中でもまだ読んでいた。
 それなのにやはり分からない。発表者はゆっくりと明瞭に発声しているので単語が分節されないというより、知らない単語、言い回し、レトリックがあるのだろう。自分の体の不安もあったし、遠く離れて住んでいる母親も行かないでくれと言われたのに来たのだ。必死で耳を傾けた。
 それでも分からない。聞き取れる部分はぞくぞくするほど面白いところを語っているのに分からない部分が多いことが悔しい。しかし異なった発表者の言葉に耳を傾けていると同じ言葉と概念が何度も繰り返されていることが分かってくる。
lettreという言葉には「手紙」と「文字」という意味があるが、シニフィアンの中でも特殊なのは、それは「パロール(ことば)」と違い、書かれたとたんに「現実的なものle réel」になってしまう点である。また日常的には何の疑問も抱かず使われている「一」という概念が実は考えれば考えるほど理解の困難な概念であり、それをラカンはYad’lUn(日本人には「宿らん」と聞こえる)という概念で表したということ。これは普通の書き言葉で文法的に正しく表せば、Il y a de l’Un(いくらかの一がある)となるがこれだけでも意味的にはかなり変な文で、ラカンが参照しているプラトンの『パルメニデス』の訳を出発前に読んでいたが、分かり難い。
 セミナーの二日後に、そこで発表したステファヌ・チビエルジュという分析家と会ったとき、「主語を省いたとしてもなぜ Y a de l’Unではなくて、Y a d’lUnなのか?」と質問した。
 チビエルジュ氏によれば、もちろん書き言葉で書けばIl y a de l’Unとなるのだが、まず話し言葉では主語が省略されたり音がくっついたりするのでそうなったということである。では、普通だったらIl y a l’Un(一がある)ではないか?という質問には、「もしそうなってしまったら「一神教」になってしまう。そうではないということを強調したいがためにラカンはこんな変な言い方をしたのだ。つまりラカンは思想を表す「言説discours」を話し言葉であえて表したのであり、言い換えれば言表に言表行為を押し込んだのだ」とチビエルジュ氏は説明してくれた。
 セミナーの二日目のプログラムに、普通プログラムとは別に、夜場所を変えカクテルパーティーを行うと書いてあったので参加した。それは、サンジェルマン大通りにあるフロイトの師であるシャルコーが昔住んだことのある「ラテンアメリカの館」というまるで博物館のように豪華な建物の中庭で行われた。「これおいしいから食べてみなさい」話しかけてきた老婦人が教えてくれた普通に見えたそのマカロンを口に入れると、少し甘みも加えてあるフォアグラが口の中一杯に広がった。不思議な信じられない味だった。
 改めて参加者を見回してみると殆どが中年、熟年、高齢者で若い人は殆どいない。セミナーの時は徐々に参加者が増え、最終的には300人くらいはいたのだが、各発表の後には司会者の注釈があり、会場に問いかけると必ず質問か、コメントを述べる人がいる。みな相手を論破するというのではなく、相手の説を受け質問というより、それに共鳴して自説を述べるという風で、みなとても幸せそうだ。
 分かったのは、結局やはりラカンは分からないということだ。たとえば、有名な様相論理記号とラカン特有の矢印を用いた男女の「性別化」の表にしても、「みな思うように、なぜ女性の側に「主体S/(Sに斜めの線を重ねてください)」がないのか分からない」とある人が言ってくれたことで、別な意味で安心した。みなそう思うのだ。だから斎藤環氏のように「ラカンによれば、人間にとって欲望の対象は常に女性になるので、男性を欲望する女性は同性愛者となる」(『関係の化学としての文学』にあった文です。手元になくて正確な引用文ではありませんが趣旨は同じです)と言う人まで出てくる。この見方をパーティーにいたB.ヴェンデルメルシュに提示したら、それは間違っているとは言ったが、ではどう解釈すべきかについては教えてくれなかった。
 ラカンの理論は理解し難い内容に満ちているが、その謎にみな共鳴して何か語らずにおれない。 思った。ラカンよ、あなたはひょっとして絶対に解けない謎をばらまいたペテン師かもしれない。でもあなたの残した謎は毎年こんなにも多くの人をその謎で結びつけ、幸せにしている。ちょうど口の中に入れたあのマカロンの味のように。(番場 寛)

まだ見ていない映画、是枝裕和監督「空気人形」についての映画評

2009年08月19日

  最近困るのは、見たい映画の前に流される別の映画の予告篇である。本篇を見ていないのにかなりの部分が分かったような気がしてしまう。「空気人形」はまだ見ていないが、予告篇を一回見てしまった。そしてすっかり惹きつけられイメージが膨らんで抑えることができない。
 画面にペ・ドゥナがメイドの服装ですっくと立ち、「わたしは心を持たない空気人形」と言う。それから別の場面に変わり「それなのに恋を知ってしまったのです」と言い、その人形を性の道具として愛玩していたと思われる男が「帰ってくれ」と叫ぶ(実際の台詞は映画館で確認してください)。
  これを見て「ラースと、その彼女」という映画を思い出した。まじめな好青年で彼に関心を寄せる女性もいるのに彼自身は女性に興味を抱かず、兄夫婦が心配していた。そんなラースが突然彼らの前に「彼女だ」と連れてきたのは通販で取り寄せたダッチワイフだった。
  兄夫婦は当惑しながらも弟の気持ちを尊重し受け入れていく。次第にその輪は広がりラースの周りの人たちもその幻想を受け入れていく。人形は無表情なのにラースによって服をさまざまに着せかえられ話しかけられることにより生きている娘のようにラースと周りの人たちの生活を豊かにしていく。それを見ているとまるでラース自身が周りの人たちの愛情を具現している人形のようにも見えてくる。
  「人形」が主題の作品を見るたびに思い出す別の映画がある。もう20年近く前にフランスで見たもので確かタイトルは「I love you」だったと思う。若い男が偶然、舞踏会のマスクのような顔だけのキーホルダーを拾う。持ち帰り、ボタンを操作すると、I love youと言う。不思議なことに他の人が操作しても黙ったままで、彼にだけそう言うのだ。彼はすっかり気に入りそのキーホルダーを愛でる。
 ところがある日、彼以外にキーホルダーにI love youと言わせることのできる男がいることを彼は発見してしまう。彼は狂ったように怒り、そのキーホルダーを叩き潰してしまう。
  そう、能面が見る人の気持ちで表情を変えるように、すべては見る者の想像力の産物なのだ。これらの作品を見ていて怖くなるのは、人形ではない生身の人間に対しても恋や愛情を捧げるとき、人はこれと同じことをしているのではないかとさえ思えてくるからだ。
  「ラカンが言うように『性関係はない』のです。だからこそ文学作品が書かれるのです」パリ第8大学のマリ=エレーヌ・ブルス先生の言った言葉が思い出される。
  もし人形が心を持ち、主人の思いを無視して別の人に恋をしてしまったなら… 秋葉原で「お帰りなさいませ」と笑顔を振りまくメイド喫茶の少女たちとは違い、予告篇で見た、無表情であるがゆえに見る者の愛をかき立てるメイドの服装をしたペ・ドゥナが美しい。9月の公開が待ち遠しい。(番場 寛)

「所有欲」から自由になった恋愛は存在し得るか?-鹿島田真希『ゼロの王国』を読んで-

2009年07月12日

   何歳くらいのことだろう。人を好きになった喜びは、必ず痛みを伴うことを人は知る。喜びだけを保持することはできないのだろうか? そのためには「所有」という欲望さえあきらめることさえできれば、つまりその好きな人はだれのものでもないと心の底から思えたらどんなに幸せなことだろう? 
 鹿島田真希の小説は全部読んでいるわけではない。それでも気がつくと雑誌の目次に彼女の名前を見つけるとその号を買っている自分に気がつくようになった。そうなったのは何といっても『ナンバーワン・コンストラクション』とそれに続く『ピカルディーの三度』を読んでからだ。二つの小説では「愛」とか「犠牲」とか一昔前の劇の台詞のような会話が饒舌的に交わされるのだが、読んでいるとまるで難しい方程式を解いていくめくるめく手さばきをみせつけられているかのような気がしたものだ。
 最近単行本で発売された『ゼロの王国』を読みながら、最近何年かぶりで会った女性(30代、独身)が言っていた言葉を思い出した。彼女は自分の好きな人が他の女性と楽しく過ごしているとしてもそれを喜んであげたいと言う。なぜなら人を所有することも独占することもできないからだと言う。 
この小説の主人公、吉田青年も、「人は所有するところから、不幸が始まるのです。なにかを所有しているつもりの人は、そのなにかに心を奪われているのです。だから僕は、いつエリさんが自分のものでなくなってしまうのか、びくびくしてはいけないのです。それは、自由でない状態なのですから」と言う。
しかし問題は吉田青年のように、独占欲も嫉妬心もなく人を愛したときそれは恋愛と呼べるのだろうかという点である。現に吉田青年に惹かれる二人の女性は「あなたは女性を愛するということがわかってない」となじる。例のぼくが最近会った女性も、「ではあなたの好きな人が別の女性と親密な関係になっても平気でいられるのか?」という質問には黙ってしまった。 
  今まで読んだ性愛を描いた現代小説で、最も感動させられたのは、高樹のぶ子の『透光の樹』である。その小説の最後では恋人を亡くして気のふれた主人公の女性が、自分の右耳を撫でるようにしながら、かつての恋人が自分を愛撫しながら言った言葉「あなたのこの右耳は、僕の耳・・・・・右の乳房は僕の右胸・・・・・」を繰り返す。最高の享楽を「所有」ということで恋人に同一化して発せられた台詞なのだ。その気のふれた母親を見ながら、世間的には幸福な結婚をした娘は、羨望のような感情に襲われ、「自分とは無縁の、自分には一生味わえそうもない大きな幸福を、その毀れかけた体に閉じ込めているような気」がするのである。
人を愛することの中でも「恋愛」の喜びの究極の姿が「所有」だとしたならそれを取り除いた「恋愛」は存在し得るのだろうか? 
   611頁にもわたる「愛」と「恋愛」と「結婚」と「労働」を巡る『ゼロの王国』はその問題を追求する巨大な思考実験であり、読者をあり得ない世界へと導いてくれる。 (番場 寛)

村上春樹『1Q84』を読んで-差異と反復(2)-

2009年06月08日

(以下は小説を読んでからお読みください。)
疑問
「殺すのは、だれでもよかった」これは、前に何度か見聞きした無差別殺人の犯人の言葉である。その身勝手さと理不尽さに憤りを感じた後で思ったのは、被害者にとっては、「誰でもよかった」と言って殺されるのと、「この人を殺したかった」と言って殺されるのではどちらがわずかでも慰めになるだろうかという疑問である。
 個人を特定した殺人は「憎しみ」からであれ、何らかの必然的な理由からであれ、個人対個人の関係の在り方として最も強力なものの一つである。この村上の新作の主人公の一人、青豆は、女性に対し性的暴力により死へと追いやった男のみを狙う30歳の殺し屋である。彼女が最後に依頼されて狙う男はカルト集団の教祖と仰がれているが、実際は10歳の少女に性的暴力を与えている男である。その謎の男との接見の場面はこの小説のクライマックスである筈なのに、大きな疑問を読者に残す。なぜならそこはまだ第2冊目の3分の1ほどの分量を残した場面であるのにそれまで読者を引っ張っていた謎の殆どがその教祖の口から説明されてしまい、それまでの省略と暗示で生み出された緊張感を緩め、単なる種明かしの印象をあたえてしまうからだ。
 また、それまで自分のゆがんだ性的嗜好により少女たちを犯していたと思わせるように書かれていたのにその教祖の口からは快感がないのにそうせざるを得ないのだと説明され、しかもほっておいても苦しみ死ぬ運命にあるその男が殺されることは、その男自身も望んでいたことであると説明されると読者は分からなくなる。しかしこれは、物語を動かす力としては有効な、善悪、敵味方という対立に還元することのできないものを追求したかったためと思われる。
欠如と過剰
 人の心をとらえるのは欠如だと知りつくした村上の技法は本作でもますます冴えている。そしてその欠如は過剰と対比されることでより際立つ。
青豆の足りない胸は友人あゆみの豊満なそれと対比させられ、彼女が性的気晴らしの相手として望む男は髪がほどよく薄くなった男である。それらは単なるユーモアに留まっているが、切ないほど胸を打つのは青豆、天吾という二人の主人公の、親に対する愛情の欠乏に起因する孤独である。また、天に浮かぶ二つの月という過剰さは、自分が失ってしまった「1984」というもとの世界の欠如を表しているのだ。
 天吾は人妻と過剰とは言えなくても満ち足りた性的関係を保ち、青豆は自分の望んだとき性的関係を保つ方法を知っている。しかし、この小説の最後まで二人を捉え、忘れなくさせているのは、十歳のとき、一度だけ青豆が天吾の手を握った思い出であり、二人とも相手を生涯本当に好きになった一人と思っている。
 他の誰かではなく、その人とだけとつながりたいという性の交わりも、誰でもいいのではなくまさにその人を狙った殺人と同じく、人と人との関係の究極の在り方なのだろう。
差異と反復
 この新作のタイトルはオーウェルの『1984』との差異を示すものであると同時に、ありえたかもしれないもう一つの現実を表している。反復がなければ差異は感じられない。主人公の一人、天吾は何度も赤ん坊の自分が寝ている横で母親が自分の知っている父親とは別の男と性的行為をしている光景、フロイトの言う「原光景」を何度も反芻する。
また天吾は自分の意志とは無関係に、ふかえりの意志により性交をするがそれは教祖が自分の娘である彼女とした行為を反復したことを示し、救済への希望という、同じ行為が持つ差異を際立たせている。
 それにしてもどうしてカルト集団なのだろうか? 前にこのBlogで扱った映画「愛のむきだし」もカルト集団に巻き込まれた家族と愛のテーマの映画だったが、一昨年翻訳されたミシェル・ウェルベックの新作『ある島の可能性』も未来のカルト教団が舞台となっていた。死が最も直接的に問題となるのは宗教においてであるからだろうか? 現代において、家族の問題、それと付随、拮抗する「性愛」の問題、それらをもっとも先鋭的に露呈させたのがオウム真理教の事件だった。
 村上は過去にオウムの元信者へのインタビューを行っているので、その問題についての考察の深化をこの小説に期待すると失望させられる。では村上の本当の狙いは何なのだろうか?
メタ小説
 現代においては、小説というジャンルに意識的な作家が書く小説は、小説についての問いそのものを小説に書くというメタ小説の側面を持つのであり、村上のこの作品ではよりその姿勢が明確になっている。新人賞への応募作品にあった『空気さなぎ』という作品を編集長の計略に従い、書き直し出版するというのが天吾の行動をなす。もとの著者はふかえりという名の謎の美少女という設定だが、識字障害のため普通に読むことも書くこともできないという設定は見事だ。少女の発する言葉は短くひらがなで書かれるばかりで、疑問文のイントネーションまでも補って推測しなければならない発話であり、くっきりとイメージとして浮かびかがらせることに成功している。
 「空気さなぎ」とはリトル・ピープルとよばれる小人たちが何もない空中から紡ぎだす糸で造りだすものである。二つの月が空に浮かぶ1Q84が現実とはずれてしまったもう一つの現実なら、「空気さなぎ」とは現実をもとに無から記述して世界を作り出していく小説を書く行為そのものなのだろう。大吾がふかえりの書いたものを書きなおすことで真に読むに耐えうる作品を書いたように、現実を反復するのではなく、それとのずれ、差異のうちにこそ描かれるべき真の現実は存在する。そういうことをこの小説は語っているように思える。
 施設ですでに意識のなくなった戸籍上の父親に自分の思いのたけを語ったあと、その父親がいなくなったベッドに天吾が目にするのは、「空気さなぎ」に入った10歳の少女の青豆であり、それは青豆が、天吾が助かる代わりに自分は死ななくてはならないという教祖の予言に従って自害した後のことである。
 差異と反復により、この小説は過剰の果てにある「ただこの人だけ」という切ないほどの欠如の想いで埋め尽くされている。(番場 寛)

椿 昇のRADIKAL DIALOGUEとは何か(半径一メートル以内の好奇心から外へ出るために(2))

2009年04月15日

「NOBORU TSUBAKI 2004-20009 GOLD/WHITE/BLACK」(京都近代美術館にて)
 
何の説明もなく広い空間に展示されたものを見て途方にくれた後だった。入口に、この部屋の展示を見て心身に異常をきたす場合もあるので、個人の責任において見るようにという内容の注意書きがある部屋に入ったときのことだ。壁のスクリーンには、バングラデッシュで撮られたという牛の屠殺のシーンが映し出されていた。
大人も子供も集まっており、それが何か宗教的な行事だということは分かるのだが、縛られ、横たえられている生きたままの牛の喉を割き切るシーンは、血に染まる牛や地面だけでなく、その切り口までも映し出しており、最も嫌悪感を催させる映像となっている。
 
それを見たときまず、これは卑怯だと思った。惨殺や血をそのまま見せることで人に衝撃を与えようとするのは、芸術家としてあまりに安易で、丁度映画で子犬や人間の子供を映し、見る者にストレートに感動を与える方法と同じで何の表現の努力もしていないと思ったのだ。それでも気になったのは部屋の中央に置かれた回転する丸い板で、そこに絵とともに黄金色で書かれていたRADIKAL DIALOGUE という言葉だった。
気になったので展覧会のパンフレットとDVD『椿昇 Radikal Monologue』(2009 KENJI KUBOTA ART OFFICE製作)を買って家で見てようやく納得できた。
 
パンフレットの説明によれば中央に置かれたものはパレスチナの聖墳墓教会入口の扉の実物大の複製であり、そこを椿が金色に塗り、その扉の上に円形の封印を置いている。その封印にはスターバックスのマークそっくりの女性像が描かれ、その周りにRADIKAL DIALOGUE(綴りを意図的に変えている)と描かれている。
 
 この説明を読んだとき3月20日に「京都自由大学」で岡 真理氏の講演「ガザ-21世紀における人権の彼岸」を聞いたときの衝撃が蘇った。岡氏も少し触れたが、イスラエルがガザ地区に作った分離壁にスターバックスが多額の資金援助をしたということが展覧会のパンフレットにも書かれている。ならば椿の意図は推論できる。人間の欲望を具現した資本主義によるグローバリスムが、人間同士の対話を阻み、悲惨をも生み出している。しかしそこに求められるのは、「もっとも根源的な対話」ではないか、ということなのだろうと思った。
 
しかしDVDのインタビューで答えている椿はもっと「根源的」であった。彼は言う。「問題があるとき、対話というのは最も原始的だが唯一の解決方法なのだ」と。
 さらに彼は、「オタクには定年がある」と言い、アニメやフィギュアが本流をなしているかに見える現代日本の若いアーティスト達に苦言を呈している。世界で評価され資本主義的な流通に乗っているとはいえ、そこに留まる事はサイードの指摘したオリエンタリズムに回収されてしまうことではないかと警告する。
 椿昇は、アーティストが現実社会においては無力だと明言しており、それでいながらこの現実を見据えて表現せずにおれないという点に感動する。「無力」だと明言することは現実に対する何らかの「力」「働きかけ」への欲求を意識するがゆえに出てくる言葉である。
 
イスラエル人と日本人がパレスチナの壁を移動させ、それで宇宙ステーションを作るのだと説明される作品を見るとき、妄想と片付けることは簡単だ。室井尚が言うように、動かないから壁は壁なのに椿はそれを違うものと見なそうとしている。
「ただ存在する巨大な問題に対し、目をそむけるのでなくて、見続けることが大切だ。自分はその臨界点に立つ」と椿は言う。
 自らの現実における無力さを自覚した上で自分には何かできるか、いや自分は何をすべきかを問いかけること、それが彼の作品が人に送っているメッセージなのだろう。
 
ピアニストの高橋悠治の言説を読んだり聞いたりするときにも同じことを感じるのだが、芸術家というのは何と感受性の射程が遠く鋭いのだろうかということだ。まるで粘膜のように敏感な感受性を持っていると同時にそれが強靭な思考力に支えられていることにいつも感心する。
 また、自分が椿昇と同じ年の同じ月に生まれたことを知った。彼は過激な芸術家なのに同時に若者にエネルギーを与え続けているすぐれた教師(彼自身は「学生には考え方を教えている」と言っている)としての側面を持っていることも聞いてさらに驚いた。
 芸術家でない大学教員としての自分、いや一人の人間としての自分にもできること、やらなければいけないことはある筈だ。そんなことを思った。 (番場 寛)

園 子温 監督『愛のむきだし』(「京都みなみ会館」にて)を見て

2009年04月01日

  博士号を取得されたお二人、本当におめでとうございます。
本日4月1日は大谷大学の入学式であり、新たな気持ちで新生活をスタートする新入生の皆さんを迎える日にこんなブログを披露しますが、4月馬鹿だと思って許してください。
 
インターネットや新聞を見ていると、教員を始めとする、驚かせるような仕事や地位についている人が盗撮で逮捕されたというニュースを目にする機会が多く、あきれてしまう。フロイトの「フェティシズム」という論文に書かれていることを受け入れるとしたなら、男性が女性の下着に魅惑を感じてしまうのは、幼い頃に見た「母親に不在の・・・」に起因する去勢不安によるからだ。
 
この映画の予告編でも紹介されているアクロバット的な盗撮シーンだけをもし女性が見たら、キモイとかヘンタイとか言って映画館から飛び出してしまうかもしれない。すぐ後ろに座っていた女性の二人連れが「面白かったね」と言っているのを聞いて安心した。
 
しかし、これは「盗撮」という男性の禁断の願望を描いた映画でありながら、エンターティンメントには治まりきれない、まるでルイス・ブニュエルの映画のように恐ろしいまでに重いテーマを追求した映画なのだ(映画の最後の方で映し出される家族が大きな傾いた十字架を背負っているシーンは、確かブニュエルの『銀河』か他の映画で見た記憶がある)。
 そのテーマとは、今なお追及し続けられているテーマ、「オウム真理教」の事件が世の中に提示した「宗教」と「性」と「家族」と「洗脳」の問題である。
 
主人公のユウは幼い頃母と死別し、カトリックの神父である父は妻の死後、人が変ったように恐ろしく厳格になり、息子に毎日告解室でその日犯した罪を告白するようにと迫る。純真な息子は父親に好かれたい一心から必死になって告白するための罪を犯しているうちに、ひょんなことから女子のスカートの中を盗撮することを思いつき、その技術に熟練してしまう。
 
盗撮をする主人公は自分をヘンタイと説明しているが、本人はその行為にまったく性的な欲望も興奮も感じず、ただ罪を告白し父親に心から罰してもらいたいという願いからのみまるで苦行僧のように盗撮を繰り返す点で、真の変態と呼べるかもしれない。
 
 死の前に母親から大きくなったらこのマリア様のような人と結婚するようにと渡された像を大切にして生活していた主人公の前に、現れたのが当時は母親の男の性的虐待に起因するすさんだ生活をしていたヨーコである。ユウが仲間たちとの罰ゲームで女装したまま暴漢から彼女を救ったときに、彼にはヨーコはまさしくそのマリア様と映り、一瞬のうちに恋に落ち、初めて性的な欲望を感じてしまう。同時に彼女も恋に落ちてしまうが、その相手はユウが女装したサソリという名の女性であった。
 
この関係を複雑にしていくのは、ユウの父親に恋をし、籠絡し彼と再婚しようと願い一緒に住むことになった女性の連れ子がそのヨーコだったという事実である。
 
その歪んでいるとはいえ敬虔なカトリックの家庭を自らの教団へ改宗させようと狙う新興宗教の「ゼロ教団」(メンバーは0という字を胸につけている。これはオーとも読め、「オウム真理教」への暗示が窺える)である。ヨーコが恋しているサソリになりすまし、その家庭に潜り込み、家族まるごと教団に引きずり込むことに成功するその教団の女の胸元からは何度も小鳥のオウムが出てきて、オウム真理教団の事件に触発された映画であることを語呂合わせ的に示している。
 
ここから先の筋は、映画を見ようとしている人から喜びを奪わないため書かないが、衝撃的なシーンを一つだけ書かせてもらいたい。それは洗脳された家族からヨーコを奪回すべく「ゼロ教団」の本部に忍び込んだユウの目に飛び込んできた光景である。映画の観客も、主体性を奪われて奴隷のようになって修行する家族を想像してしまうが、そこにいたのは、「家族だけはまっぴら」と言っていた筈のヨーコを含む、畳の部屋で鍋を囲んで幸せそうに笑い合っている洗脳者とユウの家族であった。
 
この映画が今もぼくの頭の中で終わらないのはこのシーンのせいだ。「経済」は勿論だが、何よりも「愛」と「性」でなりたっていることを疑わない「家族」が外部の誰かによって操作されて出来上がっている虚構だとしたら、その「愛」や「性」は何だろう? わたしたちが自ら主体的に選び取っているつもりの「家族」さえ、誰かによって知らないうちに設定されたものだとしたなら・・・
 
映画の最後の方で、最初ヨーコが、そして後にユウが愛の崇高さを讃えた「コリント人への手紙―13章」を朗読する。ともに相手のパラダイムから救い出そうとするユウとヨーコの姿こそが「むきだし」になった「愛」なのだろうか? 
J.ラカンは「愛するとはおのれの持ってないものを相手に与えることである。相手がそれを望まないのに」と美しく謎めいている定義を残している。自分にないものは相手に与えることはできない。しかし人は誰かを愛したとき、自分が本当は持っていないものさえ与えてしまいたいと思うということなのだろうか?
この『愛のむきだし』を見て思うのはその「愛の不可能性」、「愛の不条理」である。 

松田正隆(マレビトの会)『声紋都市― 父への手紙』(2009年3月8日、AIホールにて)を見て

2009年03月18日

 従来の松田の作品からすでにそうであったのだが、この劇『声紋都市』においても彼が生まれ育った「長崎」はキーワードとなっている。それは「ナガサキ」つまり「名が先」と読むことでよりその重要性が明らかになる。劇を成り立たせ、導き動かしている「先にあるべき名」とは、一つは原爆が投下された都市であり、同時に作者である松田が生まれ育った個人史的な都市「長崎」である。この劇におけるもう一つの先にあるべき「名」とは、ジャック・ラカンの言う「父-の-名Le Nom du Père」である。
 
ラカンの「父-の-名」という概念は「父性隠喩」と呼ばれる公式で出てくる。自分が母親に欠けていて、母親が欲している対象が自分自身であるか、その対象を自分が持っていると思っているエディプス期における子に、そうではなくて、その母親が真に欲望しているのは自分(子)ではない存在として現れてくるもの、それが「父-の-名」であった。子にとってそれは挫折の体験ではあるが、それによって母親との一体化という欲望と切り離され、やがて自らも文化・社会の中で成長していくことのできるようになるのである。
 
この「父-の-名」は現実の父親の名というわけではなく、近い概念としては「象徴的な父」という概念に近いものだが、それとまったく重なるわけではない。ラカンの理論的展開とともにこの概念も少しずつ変化していき、後期のボロメオの輪(輪の一つを切り離すと3つがばらばらになってしまうような一体化した輪)を使った説明では、「象徴界」「想像界」「現実界」というばらばらになっている3つの輪をバナナの皮の形のような輪になって、結び付けているのが「父-の-名」であった。その時期においては「父-の-名」とは名前であるだけでなく、「名づける機能」を帯びた存在として定義されていた。
 
では、この『声紋都市』において「父-の-名」はどのように劇を動かしているのであろうか? まず映像の中で長崎を訪れるのは、実際の父親にインタヴューするためであると同時に、幼いころ父親に連れられて原爆資料館で見た記憶がある、えぐりとられたように脳のない状態で生まれてきた子(松田自身は「無脳児」と呼んでいる)を確認するためであった。天皇に仕える兵士として侵略戦争に従軍し、天皇から勲章をもらった父親に、なぜと問いかける松田が映像として映し出され、舞台上ではハムレットの父親の亡霊が兵士の姿で現れる。現存している父親が映像で映し出され、亡霊が舞台上に現前しているという反転が起こっている。
 
舞台は斜めになった板の上を倒れた登場人物たちが滑り落ちるところから始まり、かれらが再び立ち上がり、各自が自分のことを語ることで進行する。ロープウエイのガイド嬢は言葉にならない発声から始め、原爆資料館の受付嬢は、ずっと前から受付でしたと、その都市に沈殿している「声紋」として発話する。「父への手紙」を叫び続けるカフカ役の青年と松田の分身にあたる青年もすべてモノローグが多く、人物同士の対話は殆どない。亡霊にたいする働きかけだけが劇中の行為としては際立つくらいである。
 
劇を見ていていろいろな疑問が浮かんだ。
 まず、松田は「マレビトの会」をつくって劇作とともに演出を始めたとき、それまで積み重ね、一つの頂点を極めた人物同士の会話を中心としたリアリズム的手法をかなぐり捨て、前衛的な手法の作品を生み出し続けてきた松田の作品にあって、自分の実の父親を巡る探究で、しかも父親だけでなく自らも、父親に天皇の兵士として従軍したときの気持ちを問いつめる息子として映像に登場する演出は驚きである。
 
その映像の部分でも最も観客を驚かせるのは、映画『少女ムシェット』のムシェットが坂を転げるシーンを引用した後、突然松田自身がムシェットの服装で映し出され、自分は少女ムシェットであり、もう一度やり直すのだと言った後、自分も同じように坂を転げ落ち最後は池に落ちるシーンである。              
 
その前まで映し出される映像の中の松田は自分の部屋でライトに照らし出されて原稿を手で埋めていく劇作家というナルシシズムの発露とも思われる映像から一転した女装の姿には誰でもが驚かされるが、自己の姿をあくまで素材として対象化している作者としての松田に、そこまでやるのかと感動を覚える。
 
劇のアフタートークの時に、松田は「ソフトバンクのお父さんをよほど出そうかとも思ったが止めた。映像の中の机にはその姿が乗っていたのだが誰か気がついただろうか」と言って会場を笑わせた。それを聞いて思った。そう言えば、なぜソフトバンクのCMの犬はお母さんでなくて、お父さんでなくてはいけないのだろう? 結局は誰でもが「父-の-名」に支配されているのであろうか?
 
少しずつ分かってきたが、この劇は、それがどういうものかは、松田自身も分からない状態での「父-の-名」の探究の話なのだということである。何回か出てくる「無脳児」は松田自身の姿で、最初から失われている脳を自身に取り戻させることであり、その「脳」とは「記憶」なのであろう。松田は、グロテスクな姿である「少女ムシェット」に変身してまで素材である映像の中の自分に「やり直したい」とつぶやかせている。かれは自身の別の劇(確か「『王女A』)で登場人物に、寺山修司の劇中人物のセリフ「お母さん、ぼくをもう一度妊娠してください」(『身毒丸』)と言わせているが、この『声紋都市』の最後では、映像から舞台上に抜け出し、ずぶ濡れになった「少女ムシェット」の姿で、こう叫ぶべきだった。「お父さん、ぼくをもう一度妊娠させてください」と。(文責、番場 寛) 

「ミニスカートが好き!」を考える

2009年03月02日

「ミニスカートが好き!」という言葉はこれを誰が言うかによってまったく違った意味を帯びる。10代、20代の若い女の子だったら、「ミニスカートを穿くのが好き」という意味だろうし、その主語が男性だったら「ミニスカートを穿いた女の子を見るのが好き」ということだろう(女の子と同じ意味で言ったとしたら危ない)。
 少し前の新聞に、新潟県の女子高生の制服のミニスカートが日本で一番短いことが知られ、それに対し高校の教師たちが印刷物や言葉により、もっと長くするようにと指導しているという記事が載っていた。
教師の言い分は、寒さに対する健康上の理由と性犯罪を防ぐためというものらしい。それに対し少女たちは抵抗し、工夫し短いスカートを穿き続けているという。
新聞の記事を読んでから気になって、母親に会うために故郷の新潟県に帰ったとき、思わず探してしまった。いた!ずいぶん暖かくなったとはいえ、まだ雪が残るそこの寒さをものともせず、ホームを闊歩する女子高生のスカートは危ないくらい短い(写真はないので想像してください)。
教師たちの警告や検査をも潜りぬけようと工夫をこらす彼女たちの記事を読んで、イスラム教徒の女性たちが身につけているスカーフを思った。隠さなければいけない顔に化粧を施し、外出するときにも、あえてスカーフを身につけないようにしようとする女性さえ現れ始めたとも聞く(フランスに生きるイスラム教徒の女性たちのフェミニスム運動については、ルーブナ・メイアンヌ著、掘田一陽訳『自由に生きる― フランスを揺るがすムスリムの女たち―』社会評論社を参照のこと)。「見せること」を禁じるのは宗教や文化なのだろうが、それに反発する気持ちはどこから来るのだろう。
「スカートを穿かない女に未来はない」とインタヴューに答えているココ・シャネルは同じインタヴューの中で「ミニスカートのように醜いものを穿く女性の気持ちが分からない」というようなことも言っている。女性の脚を美しく見せるのは膝丈のスカートだと信念を彼女自身は生涯変えなかったが、どうしてだろう。カール・ラガーフェルドがそのシャネルブランドのデザインを引き継ぎ、ミニスカートで成功したのは単なる時代の変化なのだろうか? 
ぼくのゼミのある学生は「化粧の文化」をテーマに卒論の研究を進めている。彼女の説明を聞いていると、「化粧」とは「見せる」という働きと「隠す」という働きの弁証法によって成り立っているのだということが分かってくる。また別の学生は、1960年代にロンドンの若者たちに発生したミニスカートをブランドにしたマリー・クワントというデザイナーが活躍したスウィンギング・ロンドンと呼ばれる時代を中心に研究している。彼女には「スカート丈」を題材にしてマリー・クワントとシャネルの美意識の本質、それを成立させた時代背景に迫ってもらいたいと勝手に願っている。
「見せる」のか「隠す」のか、あるいは「より隠すために見せる」のか、もっと深く考えれば、「隠すべきものの価値を高めるために、見せる」のか? 考えていると止まらない。
今日は3月2日、だれか「ミニの日」なんて特別な日を作らないだろうか? 

岩下徹ダンスワークショップ(「少しずつ自由になるために~自己とむきあう、他者とかかわる」)に参加して

2009年02月06日

岩下徹さんは、山海塾のメンバーであるが、同時にソロ活動として即興ダンスを踊り、その活動の一つとして精神科病棟でダンスセラピーを試行しておられる。ぼくは、ずいぶん前から(1980年代から)パリや日本で何回か、舞踏と呼ばれる山海塾のダンスを見ており、そのメンバーの一人に踊りを教えてもらえるなんて、という簡単な動機だったが、実際に参加して驚いた。
ワークショップの参加者はまず床に寝そべり、アメーバのような動きから始める。次第に動きを大きくしたり小さくしたり、止まったりを繰り返すうちに、今度は高低の動きが加わる。立ち上がり、自分の体の動かしたいように動くよう指示される。倒れる動きも加わり、動きの可能性が徐々に広げられていく。不思議なのは岩下さんの非常に単純な指示が繰り返されるだけで、あとはまったく個人が自由に踊ることだ。他の人の踊っている姿も目に入るので最初は恥ずかしいのだが、それも気にならなくなる。外から入ってきた人が見たらその異様な光景にたじろぐかもしれない。
 最初は過去に見たいろいろなダンサーの動きを思い出し、しかもそれには似ないように意識的に踊っているのだが、ふと気づくと跳ねたり、強く回転したり、自分でも予期できない動きをしている。また、それぞれの参加者の動きはまぎれもなくその人の踊りになっていることだ。
 
踊りの前と終わった後のトークで岩下さんの説明を聞いて疑問に思ったのは、ダンスにおける「振り付け」と「即興」の違いについてであった。「即興」は一瞬一瞬に自分で自分を振り付けるようなものでしょうかと質問するぼくに、岩下さんは同意されない。あくまで自己の内面から自然に出てくる力で踊るというような意味のことを言われた。山海塾の踊りでは即興はいっさい認められないということも聞いた。「振り付け」と「即興」に関する問題は、結局人間にとって「自由」とは何かという問題に行き着く。「即興」には帰着点や目的などはなく、「過程」だけがあるのだという岩下さんに対し、「目的」や「帰着点」があってこそ「過程」が価値を帯びるのではないかと主張したが自分でも分からなくなった。
 耳で聞いただけなので正確かどうかは自信がないが、そのとき岩下さんが引用した鈴木大拙の言葉は「自由とは自ら不自由を引き受けることである」であった。岩下さんは山海塾での振り付けをいう拘束に従いながら踊るときの経験、また「即興ダンス」というこれはまた独特な拘束の経験を踏まえて言ったのだ。鈴木大拙の言葉を確認したくてネットで探したが、そっくりの言葉は見当たらないと思っていたら、本学の井上尚美先生がそれに近い言葉を見つけてくれた。
「人間には自分の自由と不自由を自覚し煩悩する自由がある。」岩波 『鈴木大拙全集』20巻 p.234 というものでした。
長くなってしまったので明日以降のブログに続きます。

セドリック・クラピッシュ監督Parisを見る

2009年02月05日

 今巷ではパソコンで地球全体を疑似旅行できるグーグルアースの新機能が話題になっている。従来からある空から見た地図に加えて、海底深くまでグラフィックで探検できるだけでなく、過去の地図までもさかのぼれるということである。実際には今ここでしか生きられない身体から可能な限り自由になって世界を飛び回りたいという欲望、これをグーグルアース的欲望と名づけるなら。この映画はこの欲望を満たしてくれる。空からのパリの風景はもちろんのこと、カタコンブ(地下の人骨で埋められた墓地)までも映し出しているし、建築家の弟に兄は弟の家から眺めた古きパリの地図をプレゼントする代わりにかれらの幼年時代の写真を欲しいと言う。つまりパリという都市と家族をともに時間をさかのぼろうとする欲望が一つになっている。
 しかし問題はそのパリで今生きている多様な人たちそれ自身をいかに描くかだ。クラピッシュがとったのは「末期の眼」でこのパリを眺めたらどのように見えるかという視点だ。主人公の青年は医者に心臓の移植手術を受けなければ、確実に命を失うと宣告されてしまう。しかも手術が成功したとして生き延びられる確率は50パーセントだという。華やかで美しい建造物や界隈とともに、住まいと仕事を求め苦労する移民の人たちや浮浪者など負の側面も映し出している。突然の事故で亡くなった元妻の遺灰を建物の屋上から撒く男の姿がその主人公の「末期の眼」を暗示している。華やかなパリとそこに生きる人々の姿は「死」の意識を背景にした時、よりその輝きを増すのだ。映画の最後で主人公は、手術を受けに行くために乗ったタクシーの中で、もう生きて戻れないかもしれないと思いながら、通りのデモの人たち(極めてフランス的な光景)を眺めながらつぶやく。「これがパリ。誰もが不満だらけで、文句を言うのが好き」「皆、幸運に気づいていない。歩いて、息して、走って、口論して、遅刻して…なんという幸せ。気楽にパリで生きられるなんて」と。
 
 と少しかしこまって書いてしまいましたが、旅行ガイドブック的な欲望もちゃんと満たしてくれるので皆さん必見です。ぼくの授業でもいつか必ず扱いたいと思います。
エリック・ロメールの映画でおなじみのファブリス・ルッキーニが演じる大学教授が、女子学生に一目ぼれして少年のように翻弄される姿は滑稽でみじめで、それでいて、もうかっこいいと思ってしまいました。

もうすぐ卒業論文の提出

2009年01月08日

冬休みが終わり、昨日7日、授業が再開されました。
昨年の12月10日は、修士論文の提出日でした。それからちょうど1ヶ月の明後日1月10日は、卒業論文の提出日です。
卒論は学部生にとって、4年の学業の集大成です。まだ時間はあります。がんばってください。

院生による論文等々

2008年12月11日

昨日は修士論文の提出日でした。
国際文化学科の二人も無事に提出することができました。試問まで気が抜けませんが、少しの間、開放感を味わってください。
 
さて、今年も『大谷大学大学院研究紀要』が出版されました。国際文化学科からは、博士課程3回生の菊池君が以下の論文を寄せています↓↓
菊池晃「ヴェーダ祭式からウパニシャッド哲学への「ヒラニヤガルバ讃歌」思想の展開について」『大谷大学大学院研究紀要』25号, 2008, pp.93-121.

Blogはじめました。

2008年11月30日

管理人のotaniisです。
大谷大学文学部国際文化学科のBlogをはじめました。文字コードはUTF-8なので、どのような文字もあつかうことができます。