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	<title>大谷大学 文学部 国際文化学科Blog</title>
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	<description>国際文化学科所属教員の日々の思いを綴っています。</description>
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		<title>大谷大学 文学部 国際文化学科Blog</title>
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		<item>
		<title>12月19日のカンゲキツアー（ロメオ・カステルッチ『神曲』他）</title>
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		<pubDate>Mon, 21 Dec 2009 21:53:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[展覧会]]></category>
		<category><![CDATA[身体表現]]></category>
		<category><![CDATA[雑感]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://otaniis.wordpress.com/?p=509</guid>
		<description><![CDATA[このとてつもない忙しい時期にもかかわらず、朝7時42分の新幹線に乗り、東京に行ったのは、雑誌で目にした『神曲』三部作の紹介の記事である。普通、日本に呼ぶことのできる劇やダンスの作品は、その評価がすでに高く、製作者がその力量の頂点に達している場合が殆どであるのに対し、この作者であるロメオ・カステルッチは評価の頂点のへの途上にあるという紹介であった。しかもこの『神曲』は2008年のアヴィニョン演劇祭で圧倒的な評価を受けたという。
　
是が非でも見にいかなくてはと思った。日程を調べると、「天国篇」と「煉獄篇」も同日に見ることができる。あわててネットで予約した。また同日の2時には下北沢の「スズナリ」で、寺山修司の『田園に死す』を天野天街が舞台化したものも当日券があるということで、それも見ることにする。
せっかく東京に行くのだから何か興味のある展覧会も見ようと思い、3本の劇・インスタレーションの前に森美術館（六本木）で「医学と芸術展」を見る。
　
時間を気にしながら一筆書きのように東京を駆け巡って展覧会と3本の劇・インスタレーションを観終えて、頭の中に混在している印象を整理すると、今残っているテーマは「老いと死」である。
　
森美術館で見たもので印象深かったのは、やなぎみわの「The three fates 2008年」である。3人の少女たちのすぐ横に並べられたのは、乳房が垂れ、皺がより、髪は白髪になった3人の老婆である。展示は右に少女たちの写真が置かれていたが、左から右に見れば若返るという解説が見事だった。同じ発想で別の作者により製作されたのは、白い若い女性の顔の彫刻なのだが、空気を抜かれることで一気に老婆に変身するものだ。
　
またきれいな模様のウエディングドレスが目についたがそれは「記念日」という作品であるが、近くで見ると貼り付けられていたのは6500個もの「経口避妊薬」であった。解説者も指摘しているが、この「結婚」と「避妊」という表面上の対立をどのように考えるべきだろうか？
　
この展覧会で一番衝撃的だったのは、年齢も性も異なる人物の顔の大きく引き伸ばされた何枚かの写真である。左側は目を開いており、右は眠ったように眼を閉じている。死後すぐに撮られた写真だという。それぞれの死に直面した人の経歴が添えられていたが、不思議なことに生きていたときの写真ではなく、死んだ直後の目を閉じた写真の方がより生々しくまるで生きているように感じられたことだ。その中でも生まれて数年もたっていない少女の顔である。天使も死ぬのだろうかと思わずにおれない写真であった。
前にこのブログで「セイの美しい「醜さ」から目をそらさないで」と書いたが、「生」のリアリティを感じにくい現代にあってそれを感じることのできるのは、「若さ」と「老い」、「誕生」と「死」を暴力的に接近させるときなのであろう。（次回へ続きます） （番場　寛）
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=509&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>このとてつもない忙しい時期にもかかわらず、朝7時42分の新幹線に乗り、東京に行ったのは、雑誌で目にした『神曲』三部作の紹介の記事である。普通、日本に呼ぶことのできる劇やダンスの作品は、その評価がすでに高く、製作者がその力量の頂点に達している場合が殆どであるのに対し、この作者であるロメオ・カステルッチは評価の頂点のへの途上にあるという紹介であった。しかもこの『神曲』は2008年のアヴィニョン演劇祭で圧倒的な評価を受けたという。<br />
　<br />
是が非でも見にいかなくてはと思った。日程を調べると、「天国篇」と「煉獄篇」も同日に見ることができる。あわててネットで予約した。また同日の2時には下北沢の「スズナリ」で、寺山修司の『田園に死す』を天野天街が舞台化したものも当日券があるということで、それも見ることにする。<br />
せっかく東京に行くのだから何か興味のある展覧会も見ようと思い、3本の劇・インスタレーションの前に森美術館（六本木）で「医学と芸術展」を見る。<br />
　<br />
時間を気にしながら一筆書きのように東京を駆け巡って展覧会と3本の劇・インスタレーションを観終えて、頭の中に混在している印象を整理すると、今残っているテーマは「老いと死」である。<br />
　<br />
森美術館で見たもので印象深かったのは、やなぎみわの「The three fates 2008年」である。3人の少女たちのすぐ横に並べられたのは、乳房が垂れ、皺がより、髪は白髪になった3人の老婆である。展示は右に少女たちの写真が置かれていたが、左から右に見れば若返るという解説が見事だった。同じ発想で別の作者により製作されたのは、白い若い女性の顔の彫刻なのだが、空気を抜かれることで一気に老婆に変身するものだ。<br />
　<br />
またきれいな模様のウエディングドレスが目についたがそれは「記念日」という作品であるが、近くで見ると貼り付けられていたのは6500個もの「経口避妊薬」であった。解説者も指摘しているが、この「結婚」と「避妊」という表面上の対立をどのように考えるべきだろうか？<br />
　<br />
この展覧会で一番衝撃的だったのは、年齢も性も異なる人物の顔の大きく引き伸ばされた何枚かの写真である。左側は目を開いており、右は眠ったように眼を閉じている。死後すぐに撮られた写真だという。それぞれの死に直面した人の経歴が添えられていたが、不思議なことに生きていたときの写真ではなく、死んだ直後の目を閉じた写真の方がより生々しくまるで生きているように感じられたことだ。その中でも生まれて数年もたっていない少女の顔である。天使も死ぬのだろうかと思わずにおれない写真であった。</p>
<p>前にこのブログで「セイの美しい「醜さ」から目をそらさないで」と書いたが、「生」のリアリティを感じにくい現代にあってそれを感じることのできるのは、「若さ」と「老い」、「誕生」と「死」を暴力的に接近させるときなのであろう。（次回へ続きます） （番場　寛）</p>
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		<item>
		<title>「恋重荷」を観る</title>
		<link>http://otaniis.wordpress.com/2009/12/09/%e3%80%8c%e6%81%8b%e9%87%8d%e8%8d%b7%e3%80%8d%e3%82%92%e8%a6%8b%e3%82%8b/</link>
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		<pubDate>Tue, 08 Dec 2009 22:49:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[身体表現]]></category>
		<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[  先週、金曜日にファスビンダー原作、田中章義演出の「塵、都会、死」という劇を観て、日曜日に三浦基演出の「追伸」と題された、Ａ．アルト－のテキストに基づく朗読劇を見たが、それに挟まるように土曜日に、河村能楽堂で能を観た。
　
  そこで観た能のひとつの「恋重荷（こいのおもに）」という作品にまず惹かれたのは、その題目である。シテは老人で、かれが恋するのは高貴な身分の若い女性だという設定だけでもうイメージが広がってしまった。
　
  手持ちのテキストの中では岩波古典文学大系版にしか載っていなかったが、そこで演じられたものとはかなり謡が異なっているようだった。能はときどきではあるが、何年も前から見ており、2年ほど前から直に先生につき習っているのだが、良く見る現代劇のようには、なかなか分からない。
　
  それでもこの「恋重荷」については十分楽しめた。その天皇の女御に恋した庭師である老人は苦しさのあまり、その恋を忘れようとする。しかしその恋を忘れることは、それがかなわないことよりもっと耐えがたいのだという。そこで出される試練が「恋重荷」という物体の箱である。それを持ち上げて何度が庭をめぐることができれば、もういちど老人の前にその女御は姿をあらわすと言う。老人は必死にそれを持ち上げようとするができず、絶望のあまり狂い死んでしまう。　
　
  老人は鬼のような面に変わった怨霊となって、その女御を責めさいなむが、最後には、自分を弔ってくれるなら、あなたの守り神となろうと言って消える。最後まで忘れられないのである。
　
  とても悲しく身につまされる話なのに、恋の苦しみを、「重荷を持ち上げる」という視覚的な行為に転換しているので、喜劇的なものへと変化している。こうした観念の視覚化という技法はひょっとして寺山修司が能から学んだ技法でもあるのだろうか？
  もう何年か前に現実に起きたことだが、ある老人が女子高生に恋をして、想いを打ち明けて訴えられたということがニュースになった。　身分の差ということは殆どなくなったとしても、越え難い年齢差という「重荷」はどうにもし難い。この作品のように死ねない老人は、現代だったらストーカーになってしまうのだろうか？　恋した若い女の心をつかむため、メフィストに魂を譲り渡してまで若返ろうとしたファウスト同様、「恋重荷」の老人を笑うことはできない。
　
  しかし、この能にはまだ救いがあるのでは、とふと思った。もしこの主人公が若くて、身分も高くて十分美しくて、それでもその恋した女の心をつかむことができなかったとしたら。それこそ、現代においてあり得る「恋重荷」ではないか。この能のリアリティは、その「恋重荷」を持ち上げることが不可能なのに、それよりも恋を捨てる方がより苦しいという告白である。
　
  ところで、あなたはあなたの「恋重荷」を持ち上げられますか？　（番場　寛）
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=505&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>  先週、金曜日にファスビンダー原作、田中章義演出の「塵、都会、死」という劇を観て、日曜日に三浦基演出の「追伸」と題された、Ａ．アルト－のテキストに基づく朗読劇を見たが、それに挟まるように土曜日に、河村能楽堂で能を観た。<br />
　<br />
  そこで観た能のひとつの「恋重荷（こいのおもに）」という作品にまず惹かれたのは、その題目である。シテは老人で、かれが恋するのは高貴な身分の若い女性だという設定だけでもうイメージが広がってしまった。<br />
　<br />
  手持ちのテキストの中では岩波古典文学大系版にしか載っていなかったが、そこで演じられたものとはかなり謡が異なっているようだった。能はときどきではあるが、何年も前から見ており、2年ほど前から直に先生につき習っているのだが、良く見る現代劇のようには、なかなか分からない。<br />
　<br />
  それでもこの「恋重荷」については十分楽しめた。その天皇の女御に恋した庭師である老人は苦しさのあまり、その恋を忘れようとする。しかしその恋を忘れることは、それがかなわないことよりもっと耐えがたいのだという。そこで出される試練が「恋重荷」という物体の箱である。それを持ち上げて何度が庭をめぐることができれば、もういちど老人の前にその女御は姿をあらわすと言う。老人は必死にそれを持ち上げようとするができず、絶望のあまり狂い死んでしまう。　<br />
　<br />
  老人は鬼のような面に変わった怨霊となって、その女御を責めさいなむが、最後には、自分を弔ってくれるなら、あなたの守り神となろうと言って消える。最後まで忘れられないのである。<br />
　<br />
  とても悲しく身につまされる話なのに、恋の苦しみを、「重荷を持ち上げる」という視覚的な行為に転換しているので、喜劇的なものへと変化している。こうした観念の視覚化という技法はひょっとして寺山修司が能から学んだ技法でもあるのだろうか？</p>
<p>  もう何年か前に現実に起きたことだが、ある老人が女子高生に恋をして、想いを打ち明けて訴えられたということがニュースになった。　身分の差ということは殆どなくなったとしても、越え難い年齢差という「重荷」はどうにもし難い。この作品のように死ねない老人は、現代だったらストーカーになってしまうのだろうか？　恋した若い女の心をつかむため、メフィストに魂を譲り渡してまで若返ろうとしたファウスト同様、「恋重荷」の老人を笑うことはできない。<br />
　<br />
  しかし、この能にはまだ救いがあるのでは、とふと思った。もしこの主人公が若くて、身分も高くて十分美しくて、それでもその恋した女の心をつかむことができなかったとしたら。それこそ、現代においてあり得る「恋重荷」ではないか。この能のリアリティは、その「恋重荷」を持ち上げることが不可能なのに、それよりも恋を捨てる方がより苦しいという告白である。<br />
　<br />
  ところで、あなたはあなたの「恋重荷」を持ち上げられますか？　（番場　寛）</p>
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		<title>花はどこへ行った</title>
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		<pubDate>Fri, 04 Dec 2009 01:33:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[一面レンガで覆われた大学の中庭の真ん中に大きな木がたっている。もう２週間以上も前のことなのに忘れられない。
　
その木の根元だけが土が剥き出しになっておりほとんどそこに注目することはなかった。
ところが、ある日そこの東側に２０センチくらいの草が伸びておりそこに青紫の花が一輪咲いていた。
　
春だったら珍しくもないかもしれないが、あちこちの木々が紅葉をしている頃だ、その草のかぼそいの茎と葉の緑とその花は鮮やかな対照をなしていた。それを見たとき、よくぞこんなところに咲いてくれたという思いと同時になにか危うい感じ、痛々しい感じがしたが、そのときはその理由が分からなかった。
　
それが分かったのは授業を終えて再びその場所を通ったときだ。その青紫の花が咲いていたところには跡形もなくなっており、ほとんど乾いた土が残っているばかりだった。
　
だれかが、採り去ったのだ。誰が、何のために？　先ほど感じた痛々しい感じが蘇った。綺麗と思った瞬間それを自分だけのものにしたいと思ったし、それはいけないとも思ったのだ。２０センチくらいにまで伸びていたのだ。おそらく花さえ咲かなければ、そこにいまでも摘まれることなく生きていることができたのだろう。
　
それにしても誰がどんな気持ちで摘んだのだろう？　思いを巡らしてみる。ある親しい男女の学生がいる。男子の方は彼女に魅かれているが、その気持ちを伝えてしまったらもう今のように親しい口が利けなくなるかもしれないと恐れている。ある日彼は偶然、木の根元にひっそりと花開いたその青紫の花を見つけると迷うことなくそれを摘み、その魅かれている彼女に、「これ、おれの愛のしるしだぜ」とできるだけおどけた調子で投げつける。
同い年なのに考え方が幼くて、まるで弟のようだと思っていたその男の子の口から、いきなり「愛」という言葉が出てきたことに彼女は驚き、断るのも忘れて受け取ってしまう。　一瞬捨てようかと思うが、あまりに可愛いのでためらう。どうしようかと思ったのち、持っていたペットボトルの水でティッシュを濡らし、その花の茎をつつみそっとカバンにしまう。
もしそうだったならあの花は、今も彼女の机の上の一輪ざしのなかで咲いている筈だが、本当はどうなのだろう？　もうゴミとして捨てられてしまったのだろうか？
それ以来、あの木のそばを通るたびに根元を見てしまう。ある日思わず天を仰いで驚いた。この季節にもあおあおとした葉をつけているその木の上の方に真っ赤な花が咲いている。よく目を凝らしてみるとそれは花ではなく、しぼんだ風船がひっかかっているものらしいと分かる。おそらく学園祭かなにかのときに舞い上がって引っかかったままなのだろう。
もういちど根元に視線を落とす。やはりそこにはほんのかすかな小さな草の他には、砂漠のように土が広がっているばかりだ。
ぼくの心の中には、そこにはないあの青紫の花がいまもひっそりと咲いている。（番場　寛）　
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			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>一面レンガで覆われた大学の中庭の真ん中に大きな木がたっている。もう２週間以上も前のことなのに忘れられない。<br />
　<br />
その木の根元だけが土が剥き出しになっておりほとんどそこに注目することはなかった。<br />
ところが、ある日そこの東側に２０センチくらいの草が伸びておりそこに青紫の花が一輪咲いていた。<br />
　<br />
春だったら珍しくもないかもしれないが、あちこちの木々が紅葉をしている頃だ、その草のかぼそいの茎と葉の緑とその花は鮮やかな対照をなしていた。それを見たとき、よくぞこんなところに咲いてくれたという思いと同時になにか危うい感じ、痛々しい感じがしたが、そのときはその理由が分からなかった。<br />
　<br />
それが分かったのは授業を終えて再びその場所を通ったときだ。その青紫の花が咲いていたところには跡形もなくなっており、ほとんど乾いた土が残っているばかりだった。<br />
　<br />
だれかが、採り去ったのだ。誰が、何のために？　先ほど感じた痛々しい感じが蘇った。綺麗と思った瞬間それを自分だけのものにしたいと思ったし、それはいけないとも思ったのだ。２０センチくらいにまで伸びていたのだ。おそらく花さえ咲かなければ、そこにいまでも摘まれることなく生きていることができたのだろう。<br />
　<br />
それにしても誰がどんな気持ちで摘んだのだろう？　思いを巡らしてみる。ある親しい男女の学生がいる。男子の方は彼女に魅かれているが、その気持ちを伝えてしまったらもう今のように親しい口が利けなくなるかもしれないと恐れている。ある日彼は偶然、木の根元にひっそりと花開いたその青紫の花を見つけると迷うことなくそれを摘み、その魅かれている彼女に、「これ、おれの愛のしるしだぜ」とできるだけおどけた調子で投げつける。</p>
<p>同い年なのに考え方が幼くて、まるで弟のようだと思っていたその男の子の口から、いきなり「愛」という言葉が出てきたことに彼女は驚き、断るのも忘れて受け取ってしまう。　一瞬捨てようかと思うが、あまりに可愛いのでためらう。どうしようかと思ったのち、持っていたペットボトルの水でティッシュを濡らし、その花の茎をつつみそっとカバンにしまう。</p>
<p>もしそうだったならあの花は、今も彼女の机の上の一輪ざしのなかで咲いている筈だが、本当はどうなのだろう？　もうゴミとして捨てられてしまったのだろうか？</p>
<p>それ以来、あの木のそばを通るたびに根元を見てしまう。ある日思わず天を仰いで驚いた。この季節にもあおあおとした葉をつけているその木の上の方に真っ赤な花が咲いている。よく目を凝らしてみるとそれは花ではなく、しぼんだ風船がひっかかっているものらしいと分かる。おそらく学園祭かなにかのときに舞い上がって引っかかったままなのだろう。</p>
<p>もういちど根元に視線を落とす。やはりそこにはほんのかすかな小さな草の他には、砂漠のように土が広がっているばかりだ。<br />
ぼくの心の中には、そこにはないあの青紫の花がいまもひっそりと咲いている。（番場　寛）　</p>
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			<media:title type="html">bhiroshi</media:title>
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	</item>
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		<title>Ｊ.ユスターシュの「ママと娼婦」が分からない</title>
		<link>http://otaniis.wordpress.com/2009/12/01/%ef%bd%8a-%e3%83%a6%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%81%ae%e3%80%8c%e3%83%9e%e3%83%9e%e3%81%a8%e5%a8%bc%e5%a9%a6%e3%80%8d%e3%81%8c%e5%88%86%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%aa%e3%81%84/</link>
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		<pubDate>Tue, 01 Dec 2009 08:20:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[フランス]]></category>
		<category><![CDATA[映画]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://otaniis.wordpress.com/?p=501</guid>
		<description><![CDATA[   １９６６年に発表されたこの映画を関西日仏学館のシネクラブで見た。当日は別の会合に出ていて１時間程遅れてから見たのだが、それでも３時間弱見ることができた。
　
   見ても理解できず、ずっと心に引っ掛かっていた映画の一つだ。最後に見たのは確か十数年前だ。
　
   無職のアレクサンドルは年上のマリーに養われるように一緒に住む身でありながら、若い看護師の娘、ヴェロニカとも付き合う。彼の行動は次第にエスカレートし、ヴェロニカをマリーと自分が住むアパートにまで連れてくる。
　
   愛なのか欲望なのか分からない力で結ばれた三人は、アレクサンドルを中心に化学反応を起こすかのように、感情を起伏させ、もつれながら三人一緒に床に入るまでに至る。
　
   この映画を見るたびに考えるのは、この映画のタイトルである。「ママ」というのはマリーであり、「娼婦」というのは、他の女と暮らしていることをものともせず、その女のところにまで自分の欲する男に会いに行く看護師のヴェロニカのことなのだろうと、観客は最初はそう思う。
　
   しかし驚くのは、映画の最後の方でヴェロニカが三人一緒にいるところで、涙を流しながら、自分が本当に望むのは、好きな男と結婚し子供を産むことなのだと告白するところである。
　
   Ｆ．トリュフォーの映画にも、一人の女を中心とした二人の男を描いた「突然炎のごとく」や逆に一人の男が二人の女性に好かれる「恋のエチュード」のような作品があるが、このユスターシュの作品がそれらと違うのは、女性の持つ二つの特性（それもおそらく男性の視点から見た特性だろうが）を対照的に描いている点だろう。
　
   思い出すのは、寺山修司が「少女」を「娼婦」の性質を帯びた存在と定義していたことだ。寺山によれば「少女」の反対語は「少年」ではなく「母親」なのだ。「母親」とは子を産むという点で「生産性」を表しているのに対し、「少女」はそれを持たないという点で「娼婦」という性質を帯びているというのだ。
　
   この「ママと娼婦」においては二つの女性の特性を二人の対照的な登場人物で代表させているかに見せて、実は「娼婦」的に思われたヴェロニカにも実は「ママ」的な本質への憧れがあったことを見せることにより、どの女性にも二つの性質が普遍的に備わっていることを見せているのだろう。
　
   この映画を見ていて分からないのは、斎藤環が最近、ことあるごとに断言する、「所有」を求める男に対し、女は「関係」を求めるという主張がこの映画でもまさに問題にされているのに、それがすっきりと自分の中で整理できないからだ。
　
   三人は性的な関係を保つほど親密でありながら互いに相手をvous（あなた）で呼ぶ。目の前で相手が別の女と性行為していても嫉妬は感じていても耐える。確かにマリーもヴェロニカもアレクサンドルと「関係」を保っている今が大事で「所有」を目ざしてはいないように見える。しかしマリーも二人が関係しているとき自殺しようとして薬を多量に飲んでしまうし、ヴェロニカも最後には、上に述べたように告白する。
　
   人がそのとき好きになった人と、一切他人へ気兼ねすることなく関係することができ、「所有」という概念から自由になれたとしたならそれは愛のユートピアであろう。それについてはこのブログでかつて鹿島田真希の『ゼロの王国』を論じたときに触れた。この映画でも何よりも「関係」を求めながらも、「所有」を求めてしまうことで、三人の関係が瓦解する様を描いたようにも思えるのだが、どうなのだろう。やはり分からない。誰かこの映画を見た人、教えてほしい。（番場　寛）
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=501&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>   １９６６年に発表されたこの映画を関西日仏学館のシネクラブで見た。当日は別の会合に出ていて１時間程遅れてから見たのだが、それでも３時間弱見ることができた。<br />
　<br />
   見ても理解できず、ずっと心に引っ掛かっていた映画の一つだ。最後に見たのは確か十数年前だ。<br />
　<br />
   無職のアレクサンドルは年上のマリーに養われるように一緒に住む身でありながら、若い看護師の娘、ヴェロニカとも付き合う。彼の行動は次第にエスカレートし、ヴェロニカをマリーと自分が住むアパートにまで連れてくる。<br />
　<br />
   愛なのか欲望なのか分からない力で結ばれた三人は、アレクサンドルを中心に化学反応を起こすかのように、感情を起伏させ、もつれながら三人一緒に床に入るまでに至る。<br />
　<br />
   この映画を見るたびに考えるのは、この映画のタイトルである。「ママ」というのはマリーであり、「娼婦」というのは、他の女と暮らしていることをものともせず、その女のところにまで自分の欲する男に会いに行く看護師のヴェロニカのことなのだろうと、観客は最初はそう思う。<br />
　<br />
   しかし驚くのは、映画の最後の方でヴェロニカが三人一緒にいるところで、涙を流しながら、自分が本当に望むのは、好きな男と結婚し子供を産むことなのだと告白するところである。<br />
　<br />
   Ｆ．トリュフォーの映画にも、一人の女を中心とした二人の男を描いた「突然炎のごとく」や逆に一人の男が二人の女性に好かれる「恋のエチュード」のような作品があるが、このユスターシュの作品がそれらと違うのは、女性の持つ二つの特性（それもおそらく男性の視点から見た特性だろうが）を対照的に描いている点だろう。<br />
　<br />
   思い出すのは、寺山修司が「少女」を「娼婦」の性質を帯びた存在と定義していたことだ。寺山によれば「少女」の反対語は「少年」ではなく「母親」なのだ。「母親」とは子を産むという点で「生産性」を表しているのに対し、「少女」はそれを持たないという点で「娼婦」という性質を帯びているというのだ。<br />
　<br />
   この「ママと娼婦」においては二つの女性の特性を二人の対照的な登場人物で代表させているかに見せて、実は「娼婦」的に思われたヴェロニカにも実は「ママ」的な本質への憧れがあったことを見せることにより、どの女性にも二つの性質が普遍的に備わっていることを見せているのだろう。<br />
　<br />
   この映画を見ていて分からないのは、斎藤環が最近、ことあるごとに断言する、「所有」を求める男に対し、女は「関係」を求めるという主張がこの映画でもまさに問題にされているのに、それがすっきりと自分の中で整理できないからだ。<br />
　<br />
   三人は性的な関係を保つほど親密でありながら互いに相手をvous（あなた）で呼ぶ。目の前で相手が別の女と性行為していても嫉妬は感じていても耐える。確かにマリーもヴェロニカもアレクサンドルと「関係」を保っている今が大事で「所有」を目ざしてはいないように見える。しかしマリーも二人が関係しているとき自殺しようとして薬を多量に飲んでしまうし、ヴェロニカも最後には、上に述べたように告白する。<br />
　<br />
   人がそのとき好きになった人と、一切他人へ気兼ねすることなく関係することができ、「所有」という概念から自由になれたとしたならそれは愛のユートピアであろう。それについてはこのブログでかつて鹿島田真希の『ゼロの王国』を論じたときに触れた。この映画でも何よりも「関係」を求めながらも、「所有」を求めてしまうことで、三人の関係が瓦解する様を描いたようにも思えるのだが、どうなのだろう。やはり分からない。誰かこの映画を見た人、教えてほしい。（番場　寛）</p>
  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/otaniis.wordpress.com/501/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/otaniis.wordpress.com/501/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/otaniis.wordpress.com/501/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/otaniis.wordpress.com/501/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/otaniis.wordpress.com/501/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/otaniis.wordpress.com/501/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/otaniis.wordpress.com/501/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/otaniis.wordpress.com/501/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/otaniis.wordpress.com/501/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/otaniis.wordpress.com/501/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=501&subd=otaniis&ref=&feed=1" /></div>]]></content:encoded>
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			<media:title type="html">bhiroshi</media:title>
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		<item>
		<title>アルモドヴァル「オール・アバウト・マイ・マザー」に見る「父－の－名」</title>
		<link>http://otaniis.wordpress.com/2009/11/25/%e3%82%a2%e3%83%ab%e3%83%a2%e3%83%89%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%80%8c%e3%82%aa%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%90%e3%82%a6%e3%83%88%e3%83%bb%e3%83%9e%e3%82%a4%e3%83%bb%e3%83%9e%e3%82%b6/</link>
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		<pubDate>Tue, 24 Nov 2009 22:05:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[フランス]]></category>
		<category><![CDATA[授業]]></category>
		<category><![CDATA[映画]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://otaniis.wordpress.com/?p=497</guid>
		<description><![CDATA[   まえにこのブログで松田正隆作（マレビトの会）の「声紋都市―父への手紙」について紹介したとき、その作品に「父－の－名」というJ.ラカンの概念が表現されていると指摘した。最近、国際文化特殊講義という授業でアルモドヴァルの映画を扱ったとき、そこにもこれが現れていることに気づいた。　
　主人公マヌエラは、シングルマザーとして一人で育ててきた大切な息子をその１７歳の誕生日に目の前で起きた事故で亡くす。　それをきっかけにマヌエラは１７年ぶりにバルセロナに戻るがその目的はその息子の父親にこのことを告げるためだったことがやがて分かる。衝撃的なのはその逃げるように別れた夫とは、男性の性器をとらないまま乳房をつけ性転換したロラであり、彼（彼女？）はマヌエラと別れたあとロサという若い女性を妊娠させエイズに感染させやがて死なせてしまうことである。
  この映画で重要なのは、ロサが死ぬ前に生まれたばかりの自分の息子にマヌエラの息子と同じエステバンという名をつけることである。やがて分かるのであるが、その名は二人の女性の夫の名、つまりその息子の父親の名でもあった。
　ここで困ってしまった。授業ではエディプス期における主体の母親との関係をラカンの「父性隠喩」と呼ばれるつぎのような定式を紹介して説明したのである。
　
父－の－名（Nom-du-père）　母の欲望　　　　　　　　　→父－の－名（ A　　　）
  母の欲望　　　　　　　　主体にとってのシニフィエ　　　　　　　　　　        ファルス
　
  つまり子にとって自分は母親の欲望の対象だという思いは「父－の－名」の出現により挫折させられる（言い換えれば、自分は母親の想像的ファルスでもなければ、それを持ってもいないということを思い知らされる）。しかしそれにより自らもやがて象徴的ファルスを持つことができるようになるのである。
　授業ではこの定式で示される「父－の－名」は、決して「現実の父親の名前」ではなく象徴的に父の機能を果たす存在というように説明していた。しかしこの映画では、偶然だが、「エステバン」という二人の息子につけられた父親の名が「父－の－名」を表しているのである。
　１７歳の誕生日を迎えたエステバンは「写真とおなじように僕の人生も半分が欠けている」と言うが、その半分とは父親のことである。映画のタイトルに「オール・アバウト・マイ・マザー」と「マイ」とついているのは息子、エステバンを主体の位置においてタイトルがつけられていることが分かる。エステバンは目に見えない「父－の－名」に支配されているのだ。
　こうしたことは映画だけではなく、現実でも起きている。「父－の－名」が明確に機能していると思われるのが彫刻家のルイーズ・ブルジョワである。詳細は２００８年度の日本病跡学会で発表したが、彼女の父親は男の子を切望していたのに女の子が生まれたことで大変失望し、自らの名Louisを女性形にしたLouiseを娘につける。父に対する複雑な思いを抱いて成長したブルジョワは「父の破壊」という攻撃的なタイトルのもとに奇妙なインスタレーションを作成する。
　驚いたことにそうしたブルジョワが、自分の息子の一人にその父親と同じLouisという名をつけたのである。
　また、分数式をまねた疑似数学的な、ラカンの式は無味乾燥的に思えるかもしれないが、この概念がラカンに生まれた頃の彼の実生活のことを知ると驚かずにおれない。ルディネスコによれば、ラカンは当時まだジョルジュ・バタイユと離婚していないシルヴィア・バタイユ（ジャン・ルノワールの「ピクニック」に出ている彼女はなんと眩いのだろう）とつきあっており、彼女のお腹にはすでに、娘がやどっていたのだ（その娘はのちに結婚し、ジュディット・ミレールとなる）。　象徴的で現実の父親ではないと強調するのだが、その概念が生まれた状況を考えるととたんに生々しいものに思えてくる。
  現実においても確かに「父－の－名」はわたしたちに影響を及ぼしているのだ。（番場　寛）
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=497&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>   まえにこのブログで松田正隆作（マレビトの会）の「声紋都市―父への手紙」について紹介したとき、その作品に「父－の－名」というJ.ラカンの概念が表現されていると指摘した。最近、国際文化特殊講義という授業でアルモドヴァルの映画を扱ったとき、そこにもこれが現れていることに気づいた。　<br />
　主人公マヌエラは、シングルマザーとして一人で育ててきた大切な息子をその１７歳の誕生日に目の前で起きた事故で亡くす。　それをきっかけにマヌエラは１７年ぶりにバルセロナに戻るがその目的はその息子の父親にこのことを告げるためだったことがやがて分かる。衝撃的なのはその逃げるように別れた夫とは、男性の性器をとらないまま乳房をつけ性転換したロラであり、彼（彼女？）はマヌエラと別れたあとロサという若い女性を妊娠させエイズに感染させやがて死なせてしまうことである。<br />
  この映画で重要なのは、ロサが死ぬ前に生まれたばかりの自分の息子にマヌエラの息子と同じエステバンという名をつけることである。やがて分かるのであるが、その名は二人の女性の夫の名、つまりその息子の父親の名でもあった。<br />
　ここで困ってしまった。授業ではエディプス期における主体の母親との関係をラカンの「父性隠喩」と呼ばれるつぎのような定式を紹介して説明したのである。<br />
　<br />
父－の－名（Nom-du-père）　母の欲望　　　　　　　　　→父－の－名（ A　　　）<br />
  母の欲望　　　　　　　　主体にとってのシニフィエ　　　　　　　　　　        ファルス<br />
　<br />
  つまり子にとって自分は母親の欲望の対象だという思いは「父－の－名」の出現により挫折させられる（言い換えれば、自分は母親の想像的ファルスでもなければ、それを持ってもいないということを思い知らされる）。しかしそれにより自らもやがて象徴的ファルスを持つことができるようになるのである。<br />
　授業ではこの定式で示される「父－の－名」は、決して「現実の父親の名前」ではなく象徴的に父の機能を果たす存在というように説明していた。しかしこの映画では、偶然だが、「エステバン」という二人の息子につけられた父親の名が「父－の－名」を表しているのである。<br />
　１７歳の誕生日を迎えたエステバンは「写真とおなじように僕の人生も半分が欠けている」と言うが、その半分とは父親のことである。映画のタイトルに「オール・アバウト・マイ・マザー」と「マイ」とついているのは息子、エステバンを主体の位置においてタイトルがつけられていることが分かる。エステバンは目に見えない「父－の－名」に支配されているのだ。<br />
　こうしたことは映画だけではなく、現実でも起きている。「父－の－名」が明確に機能していると思われるのが彫刻家のルイーズ・ブルジョワである。詳細は２００８年度の日本病跡学会で発表したが、彼女の父親は男の子を切望していたのに女の子が生まれたことで大変失望し、自らの名Louisを女性形にしたLouiseを娘につける。父に対する複雑な思いを抱いて成長したブルジョワは「父の破壊」という攻撃的なタイトルのもとに奇妙なインスタレーションを作成する。<br />
　驚いたことにそうしたブルジョワが、自分の息子の一人にその父親と同じLouisという名をつけたのである。<br />
　また、分数式をまねた疑似数学的な、ラカンの式は無味乾燥的に思えるかもしれないが、この概念がラカンに生まれた頃の彼の実生活のことを知ると驚かずにおれない。ルディネスコによれば、ラカンは当時まだジョルジュ・バタイユと離婚していないシルヴィア・バタイユ（ジャン・ルノワールの「ピクニック」に出ている彼女はなんと眩いのだろう）とつきあっており、彼女のお腹にはすでに、娘がやどっていたのだ（その娘はのちに結婚し、ジュディット・ミレールとなる）。　象徴的で現実の父親ではないと強調するのだが、その概念が生まれた状況を考えるととたんに生々しいものに思えてくる。<br />
  現実においても確かに「父－の－名」はわたしたちに影響を及ぼしているのだ。（番場　寛）</p>
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	</item>
		<item>
		<title>ダンス、ダンス、ダンスな一日（土方巽、dumb type、インド舞踊、そしてＧＡＧＡ）</title>
		<link>http://otaniis.wordpress.com/2009/11/17/%e3%83%80%e3%83%b3%e3%82%b9%e3%80%81%e3%83%80%e3%83%b3%e3%82%b9%e3%80%81%e3%83%80%e3%83%b3%e3%82%b9%e3%81%aa%e4%b8%80%e6%97%a5%ef%bc%88%e5%9c%9f%e6%96%b9%e5%b7%bd%e3%80%81dum-type%e3%80%81%e3%82%a4/</link>
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		<pubDate>Tue, 17 Nov 2009 06:48:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[イベント]]></category>
		<category><![CDATA[身体表現]]></category>

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		<description><![CDATA[  １１月１４日は大学のホームカミングディーで卒業生を大学に迎える日だった。短期大学部のときに教えたＩ君が奥さんを連れてきて挨拶してくれた。会えないときは毎年研究室のドアのところに伝言を置いていてくれるので、いつか会いたいと思っていたのだが、ようやく望がかなった訳だ。
  その後ホテルで行われた懇親会で、大谷大学の行事にたびたび参加され、このブログでも紹介されていた、ダシュ　ジョバ　ラニさんと大谷の有志学生のインド舞踊を見た（解説をされた三宅先生、ありがとうございました）。
　学生たちが男女の組で踊るダンスは、うまいかどうかより見ていて楽しく、化粧のせいもあるがそれらしく見えることに驚いた。
   映像でしか見たことのなかったインド舞踊を、ショバさんのおかげで初めて生でみることができた。原則的に体か顔を正面に向け、絶えず視線を観客に向ける。体をよじることで生まれる曲線の動きと静止した型の組み合わせ。体の大部分を静止しているがゆえに、際立つ指の動き。極めて様式化された美しさと計算されたエロティシスム、初めて見るのになぜか既視感があり、なぜだろうと考えてたら、日本舞踊の身のこなし方、よじり方、静止の仕方に似ているように見えたからだと気づいた。
   しかしぼくがダンス（踊り）ということを考えさせられたのはこの催しに挟まる２つのシンポジウムとトーク・セッションである。
   京都造形芸術大学で「土方巽～言葉と身体をめぐって」という公開研究会が行われた。そこで、森下隆先生の「土方舞踏のマトリクス、あるいはクリエイション」という発表で初めて土方の考案して残した「舞踏譜」を映像で見た。土方の「舞踏譜」というのは踊りのある瞬間の型を、そのまま直接に絵で表したものではなく、主に言葉で表した指示のようなものであり、それをもとに実際にダンサーで再現したものが、映像で示された。森下先生によれば、土方の残した何百、何千とあるこの「舞踏譜」を組み合わせれば、原理上は無数の舞踏ができるという説明であった。
   これを聞いて、音符の組み合わせは無数の可能性があるとしてもそれをある意図のもとに組み合わせることができるのは特殊な才能であり、その組み合わせこそが謎で知りたいと思った。
   そうした疑問の答えに思われるものが、渡辺守章先生の「土着性とジェンダー」という発表のなかにあった。先生は、森下先生によって紹介された土方の「舞踏譜」の映像について、ひとつひとつのその静止した「舞踏譜」が彼の舞踏の本質ではなく、その動きの連続性のうちに彼の舞踏の美しさがあるのだと説明された。
   それを聞きながら思ったのは、僕自身が以前参加したダンスの二つのワークショップで感じたことである。その一つは、前にこのブログでも書いた岩下徹さんのワークショップにおいて、それを見ていた学生がスケッチした絵の中から各自が自分で選んで、今度はそれをイメージしながら踊った経験である。「即興」をいうことを目指すダンスでも予め念頭におくイメージは必要であり、それを意識するときには言語に置き換えないと肉体に動きとして伝えられないということが分かった。
   また「イメージを通して身体に呼びかける」という触れ込みのＧＡＧAと呼ばれるイスラエルで生まれたダンスメソッドに基づくワークショップに参加したときのことも思い出した。そのときはイスラエルのダンサーが、身体をそれに合わせるべく目指すイメージを絶えず英語で指示し、各自それに合わせて身体を動かした。
   いずれも身体を解放し、動きの可能性を拡張することを目指すのだが、そのもととなるのは「言葉」だった。　　　　
　ホテルでの同窓会の後、京都芸術センターに行き、砂連尾理さんとブブ・ト・ラ・マドレーヌさんのトーク・セッションを聞いた。二人は、ダンスという創作活動を通じて獲得した、価値観の違う他者と出会い、コミュニケーションする難しさと喜びについて話された。
　二人は多くの非常に豊かな内容を話されたが、ぼくが特に聞きたかったのはブブさんが参加していたdumb type という集団が十数年前に演じた「Ｓ／Ｎ」という作品についてであった。なぜあのような作品が奇跡のように生まれたのか、それ以後dumb typeはなぜ似た水準の作品を作れないのか、伺いたいことは多かった。
　驚いたのはそこにおられたブブさんは、その「Ｓ／Ｎ」で娼婦の役を演じ、ぼくが涙がこぼしそうになった台詞を言ったその人だったことだ。電話での「ぼくはエイズなのですがいいですか？」という患者からの問い合わせに、彼女は「どうぞいらしてください。私はプロですから大丈夫です」と答えたのだった。
　彼女の説明で分かったのは、当時dumb typeは集団で自由に話し合って作品を作り上げていたのだが、そのときだけは古橋悌二さんが指導力を発揮して作り上げということ、引用されていたM.フーコーの「権力が同性愛者を恐れるのは、人が人を本当に愛するのを恐れるからだ（記憶で書いています）」という言葉もみな分かっていたわけではないということなどである。
　言葉から逃れるかのように人が求めるダンスが、実は、それでも言葉に基づいていることにはやはり驚いた。（番場　寛）
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=492&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>  １１月１４日は大学のホームカミングディーで卒業生を大学に迎える日だった。短期大学部のときに教えたＩ君が奥さんを連れてきて挨拶してくれた。会えないときは毎年研究室のドアのところに伝言を置いていてくれるので、いつか会いたいと思っていたのだが、ようやく望がかなった訳だ。</p>
<p>  その後ホテルで行われた懇親会で、大谷大学の行事にたびたび参加され、このブログでも紹介されていた、ダシュ　ジョバ　ラニさんと大谷の有志学生のインド舞踊を見た（解説をされた三宅先生、ありがとうございました）。</p>
<p>　学生たちが男女の組で踊るダンスは、うまいかどうかより見ていて楽しく、化粧のせいもあるがそれらしく見えることに驚いた。</p>
<p>   映像でしか見たことのなかったインド舞踊を、ショバさんのおかげで初めて生でみることができた。原則的に体か顔を正面に向け、絶えず視線を観客に向ける。体をよじることで生まれる曲線の動きと静止した型の組み合わせ。体の大部分を静止しているがゆえに、際立つ指の動き。極めて様式化された美しさと計算されたエロティシスム、初めて見るのになぜか既視感があり、なぜだろうと考えてたら、日本舞踊の身のこなし方、よじり方、静止の仕方に似ているように見えたからだと気づいた。</p>
<p>   しかしぼくがダンス（踊り）ということを考えさせられたのはこの催しに挟まる２つのシンポジウムとトーク・セッションである。</p>
<p>   京都造形芸術大学で「土方巽～言葉と身体をめぐって」という公開研究会が行われた。そこで、森下隆先生の「土方舞踏のマトリクス、あるいはクリエイション」という発表で初めて土方の考案して残した「舞踏譜」を映像で見た。土方の「舞踏譜」というのは踊りのある瞬間の型を、そのまま直接に絵で表したものではなく、主に言葉で表した指示のようなものであり、それをもとに実際にダンサーで再現したものが、映像で示された。森下先生によれば、土方の残した何百、何千とあるこの「舞踏譜」を組み合わせれば、原理上は無数の舞踏ができるという説明であった。</p>
<p>   これを聞いて、音符の組み合わせは無数の可能性があるとしてもそれをある意図のもとに組み合わせることができるのは特殊な才能であり、その組み合わせこそが謎で知りたいと思った。</p>
<p>   そうした疑問の答えに思われるものが、渡辺守章先生の「土着性とジェンダー」という発表のなかにあった。先生は、森下先生によって紹介された土方の「舞踏譜」の映像について、ひとつひとつのその静止した「舞踏譜」が彼の舞踏の本質ではなく、その動きの連続性のうちに彼の舞踏の美しさがあるのだと説明された。</p>
<p>   それを聞きながら思ったのは、僕自身が以前参加したダンスの二つのワークショップで感じたことである。その一つは、前にこのブログでも書いた岩下徹さんのワークショップにおいて、それを見ていた学生がスケッチした絵の中から各自が自分で選んで、今度はそれをイメージしながら踊った経験である。「即興」をいうことを目指すダンスでも予め念頭におくイメージは必要であり、それを意識するときには言語に置き換えないと肉体に動きとして伝えられないということが分かった。</p>
<p>   また「イメージを通して身体に呼びかける」という触れ込みのＧＡＧAと呼ばれるイスラエルで生まれたダンスメソッドに基づくワークショップに参加したときのことも思い出した。そのときはイスラエルのダンサーが、身体をそれに合わせるべく目指すイメージを絶えず英語で指示し、各自それに合わせて身体を動かした。</p>
<p>   いずれも身体を解放し、動きの可能性を拡張することを目指すのだが、そのもととなるのは「言葉」だった。　　　　</p>
<p>　ホテルでの同窓会の後、京都芸術センターに行き、砂連尾理さんとブブ・ト・ラ・マドレーヌさんのトーク・セッションを聞いた。二人は、ダンスという創作活動を通じて獲得した、価値観の違う他者と出会い、コミュニケーションする難しさと喜びについて話された。</p>
<p>　二人は多くの非常に豊かな内容を話されたが、ぼくが特に聞きたかったのはブブさんが参加していたdumb type という集団が十数年前に演じた「Ｓ／Ｎ」という作品についてであった。なぜあのような作品が奇跡のように生まれたのか、それ以後dumb typeはなぜ似た水準の作品を作れないのか、伺いたいことは多かった。</p>
<p>　驚いたのはそこにおられたブブさんは、その「Ｓ／Ｎ」で娼婦の役を演じ、ぼくが涙がこぼしそうになった台詞を言ったその人だったことだ。電話での「ぼくはエイズなのですがいいですか？」という患者からの問い合わせに、彼女は「どうぞいらしてください。私はプロですから大丈夫です」と答えたのだった。</p>
<p>　彼女の説明で分かったのは、当時dumb typeは集団で自由に話し合って作品を作り上げていたのだが、そのときだけは古橋悌二さんが指導力を発揮して作り上げということ、引用されていたM.フーコーの「権力が同性愛者を恐れるのは、人が人を本当に愛するのを恐れるからだ（記憶で書いています）」という言葉もみな分かっていたわけではないということなどである。</p>
<p>　言葉から逃れるかのように人が求めるダンスが、実は、それでも言葉に基づいていることにはやはり驚いた。（番場　寛）</p>
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		<title>ジョン・ケージの曲の生演奏を聴く（京都芸術センターにて）</title>
		<link>http://otaniis.wordpress.com/2009/11/10/%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%b3%e3%83%bb%e3%82%b1%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%81%ae%e6%9b%b2%e3%81%ae%e7%94%9f%e6%bc%94%e5%a5%8f%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f%ef%bc%88%e4%ba%ac%e9%83%bd%e8%8a%b8%e8%a1%93%e3%82%bb/</link>
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		<pubDate>Mon, 09 Nov 2009 21:22:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[フランス]]></category>
		<category><![CDATA[音楽]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://otaniis.wordpress.com/?p=490</guid>
		<description><![CDATA[   John Cage 100th Anniversary Countdown Eventというチラシを見つけたら、急にそのコンサートを聴きたくなった。
　ジョン・ケージの名は前から気になっていた。たまたま「国際文化特殊講義」という授業でマルセル・デュシャンの作品に見られる「レディメイド」という概念を説明した直後だった。「レディメイド」とは、たとえば男性用便器に「R.MUTT 1917」と署名し、「泉Fountain」と題して美術展に出品した作品にみるように、すでに出来合いの品物や絵を使い、ほんの少し手を加えるだけでまったく違った文脈にその対象を置くことである意味を生み出す技法である。
  そのデユシャンが晩年交流していたのがジョン・ケージだと知って、より興味を持っていた。現実にはなかなか生演奏で聞く機会のないせいか、会場には200人ほどの聴衆が来ていた。
　会場には5か所にそれぞれ違った種類の「音楽」を演奏する楽器や装置が設置され、それらが交互にあるいは同時に演奏される。
  最初の「演奏者は何らかの習熟した行為を選び、音楽的な身振りを一切排除して行う。そこで発する付随的な音が、スピーカーから最大限の音量で会場に流される」と説明されている「0’00’’(1962)」という曲は、一人の女性（演奏家）が爪を切り、さらにやすりで磨く音をマイクで拾いスピーカーで増幅したものであった。極めて日常的に聞いている筈の音をこのように聴くのは初めてであった。
  会場で配布された、チラシの説明によれば、ケージは「”沈黙”とは意図されない音の集まりである」と言っているそうだ。別の「Branches(1976)」という曲の演奏で、よりこの概念は明確になった。この曲はサボテンや豆の莢など10種類の植物を机の上に置き、それらの棘を弾く音や振って鳴らす音をマイクで拾いスピーカーで増幅するものだ。
  音符であらわされるような音は他の音とくっついたとき旋律を形成してしまう。それを意図的に排除し、しかもそれらを組み合わせたとき生まれる純粋な音そのものに満ちた時空間、それがケージの言う「沈黙」の音楽なのではないかと思った。
  これはデュシャンの言う「レディメイド」という概念と非常に近いと思った。「こする」「ひっかく」「たたく」といった日常的な行為から発せられる音をまったく違った文脈に配置しなおすことで、思いもかけなかった世界が生まれる。
  中でも特に不思議な作品はRyoanji(1983)という作品であった。これは龍安寺の石庭の一五の石の配置を音で表したものだという。空間を音の連なりという時間に変換するという思考に驚かされた。この曲の説明を聞いてデュシャンの最大の謎とされ、今なお解釈が続けられている「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」（大ガラス）（1915-23）という作品を思い出した。
  デュシャンのこの作品には作者の精緻なメモが残されており、極めて綿密な思考を練りあげて制作されていることがわかるが、出来上がった作品だけを見る鑑賞者のみならず、そのメモを読んだ者にも、そのメモの意味とそれがそのように形象化されているかについては理解し難い。デュシャンもケージも、かれらの作品を生み出す思考が理解し難いとしても、その現実を突き抜けた思考に基づいているからこそ出来上がった作品は今もわたしたちを惹きつけてやまないのであろう。(番場　寛)
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=490&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>   John Cage 100<sup>th</sup> Anniversary Countdown Eventというチラシを見つけたら、急にそのコンサートを聴きたくなった。</p>
<p>　ジョン・ケージの名は前から気になっていた。たまたま「国際文化特殊講義」という授業でマルセル・デュシャンの作品に見られる「レディメイド」という概念を説明した直後だった。「レディメイド」とは、たとえば男性用便器に「R.MUTT 1917」と署名し、「泉Fountain」と題して美術展に出品した作品にみるように、すでに出来合いの品物や絵を使い、ほんの少し手を加えるだけでまったく違った文脈にその対象を置くことである意味を生み出す技法である。</p>
<p>  そのデユシャンが晩年交流していたのがジョン・ケージだと知って、より興味を持っていた。現実にはなかなか生演奏で聞く機会のないせいか、会場には200人ほどの聴衆が来ていた。</p>
<p>　会場には5か所にそれぞれ違った種類の「音楽」を演奏する楽器や装置が設置され、それらが交互にあるいは同時に演奏される。</p>
<p>  最初の「演奏者は何らかの習熟した行為を選び、音楽的な身振りを一切排除して行う。そこで発する付随的な音が、スピーカーから最大限の音量で会場に流される」と説明されている「0’00’’(1962)」という曲は、一人の女性（演奏家）が爪を切り、さらにやすりで磨く音をマイクで拾いスピーカーで増幅したものであった。極めて日常的に聞いている筈の音をこのように聴くのは初めてであった。</p>
<p>  会場で配布された、チラシの説明によれば、ケージは「”沈黙”とは意図されない音の集まりである」と言っているそうだ。別の「Branches(1976)」という曲の演奏で、よりこの概念は明確になった。この曲はサボテンや豆の莢など10種類の植物を机の上に置き、それらの棘を弾く音や振って鳴らす音をマイクで拾いスピーカーで増幅するものだ。</p>
<p>  音符であらわされるような音は他の音とくっついたとき旋律を形成してしまう。それを意図的に排除し、しかもそれらを組み合わせたとき生まれる純粋な音そのものに満ちた時空間、それがケージの言う「沈黙」の音楽なのではないかと思った。</p>
<p>  これはデュシャンの言う「レディメイド」という概念と非常に近いと思った。「こする」「ひっかく」「たたく」といった日常的な行為から発せられる音をまったく違った文脈に配置しなおすことで、思いもかけなかった世界が生まれる。</p>
<p>  中でも特に不思議な作品はRyoanji(1983)という作品であった。これは龍安寺の石庭の一五の石の配置を音で表したものだという。空間を音の連なりという時間に変換するという思考に驚かされた。この曲の説明を聞いてデュシャンの最大の謎とされ、今なお解釈が続けられている「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」（大ガラス）（1915-23）という作品を思い出した。</p>
<p>  デュシャンのこの作品には作者の精緻なメモが残されており、極めて綿密な思考を練りあげて制作されていることがわかるが、出来上がった作品だけを見る鑑賞者のみならず、そのメモを読んだ者にも、そのメモの意味とそれがそのように形象化されているかについては理解し難い。デュシャンもケージも、かれらの作品を生み出す思考が理解し難いとしても、その現実を突き抜けた思考に基づいているからこそ出来上がった作品は今もわたしたちを惹きつけてやまないのであろう。(番場　寛)</p>
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	</item>
		<item>
		<title>PARK CITY（作・演出　松田正隆、写真　笹岡啓子）を見て</title>
		<link>http://otaniis.wordpress.com/2009/11/04/park-city%ef%bc%88%e4%bd%9c%e3%83%bb%e6%bc%94%e5%87%ba%e3%80%80%e6%9d%be%e7%94%b0%e6%ad%a3%e9%9a%86%e3%80%81%e5%86%99%e7%9c%9f%e3%80%80%e7%ac%b9%e5%b2%a1%e5%95%93%e5%ad%90%ef%bc%89%e3%82%92%e8%a6%8b/</link>
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		<pubDate>Tue, 03 Nov 2009 22:46:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[フランス]]></category>
		<category><![CDATA[身体表現]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://otaniis.wordpress.com/?p=488</guid>
		<description><![CDATA[  松田正隆が主宰する「マレビトの会」の新作と聞いて見に行った。時間があったので「びわこホール」へと大津駅から歩いた。琵琶湖が近づくにつれて気のせいか、何かどぶ川のような臭いがする。それはまるでおもちゃのように動かず浮かんでいる数えきれないほど多くの鴨が浮かんでいる湖面が何か草かゴミのようなもので覆われているのを見たとき、気のせいではなかったことが分かった。もうすぐ冬を迎えようとしているこのころは同時に腐敗の季節でもあったのだ。
  劇は見る前はあまり気が乗らなかった。近年、舞台上で安易に説明的に映像を映し出している劇を見るたびに、映画を見るのは映画館で十分で、こんなものを見にわざわざ劇場に来たんじゃないとどなりたくなる経験を何度かしていたからだ。観客はある時間、その場でのみ発せられる舞台上のアウラ（ベンヤミン）を感じたいがために見に行くのだ。
  PARK CITYという今回の新作は、広島を題材にし、そこを作品として写真に撮った笹岡啓子の作品を劇中でスライド上映したものと、その前で看護師やさまざまな人物が自分の体験をモノローグで語ってゆくことで進行する。
  劇の中で唯一演劇らしい対話と行為が行われるのは島と呼ばれる青年である。彼は、正確には再現できないのだが、「広島は僕だ」「僕は島だ」と執拗に繰り返し、「Hiroshimaはフランス語ではＨを発音しないのでiroshimaイロシマだ」と、自分の名が広島を表していることを強調する。彼は倒され水をかけられボートのオールでたたかれる。これは、戦争でアメリカ軍に空襲を受け、原爆を投下された広島を擬人的に描いていると同時に、どんなに広島に同一化しようとしても傍観者としてしかありえず、そこで歴史を経験した者からはたたかれるにも等しい受け止められ方をする人物をも表していた。裸にされた彼を台の上に横たえさせ、その体を広島の地図に見たて説明する場面には感嘆した。
  思い出すのは「二十四時間の情事」という題で上映されたマルグリット・デュラス原作、アラン・レネ監督の「ヒロシマ、私の恋人Hiroshima, mon amour」という作品である。映画の冒頭から交わされ、何度か繰り返される日本人の男とフランス人の女の会話、「きみはヒロシマで何も見なかった。何も」「わたしはすべてを見たの。すべてを」を思い出させる。
  このPARK CITYという作品も、広島を見極めたいという欲望と、どんなに努力して探索したつもりでも、「何も見なかった」に等しいと感じてしまう焦燥感によって成立しているように思えた。
　しかし、スクリーンに映し出される笹岡の写真を見て、同時に演じられている役者の演技と台詞に集中し、時々は手元のモニターに映し出されている広島の映像を見るという鑑賞はかなり忙しく、意識の集中の対象を移動させながら緊張を保つのは難しかった。
　広島を空間的（地理的）と時間的（歴史的）に把握しようという試みと、いまそこに現前している役者たちの身体の演技で成り立っている舞台は危ういところで成立していた。「マレビトの会」の最近の他の作品に多く見られた、台詞を音楽や音で意図的にかき消し、観客にストレスを与えるような演出も今回はなされず、マイクを使ったためもあり台詞はすみずみまでよく聞こえた（個人的にはワークショップで演技指導をしていただいた山口春美さんの台詞も明確に聞こえて嬉しかった）。
　上演後、劇中でなぜ「月光の囁き」という映画の題名が引用されていたのかと松田に訊ねた。高校生の純愛をフェティシズムとマゾヒズムで描いた、ぼくの好きな映画がなぜこの劇で引用されていたのかと疑問に思ったからだ。松田は、あまり話したくない個人的な思い出にまつわることだが、その映画の最後には、好きなスピッツの曲「運命の人」が使われていたせいだと答えた。
　さらに松田から、だんだん自分だけで書いた台詞で上演するのが少なくなっている。今回も練習をする過程で役者の意見で書き換えたところが何か所かあるとうかがった。数多くの引用、何人もの役者やスタッフ、ドラマトゥルクの田辺剛に加えてついに共作者までも加えた創作を松田は行うようになった。まさに「詩は一人でなく、万人によって作られねばならない」と書いたイジドール・デュカス（ロートレアモン）の詩学を実践している。
　再び大津駅へ向って歩いて帰るとき琵琶湖のほとりを歩いた。どぶ臭さは変わらなかったが頬をなぶる風は心地よかった。（番場　寛）
　
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=488&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>  松田正隆が主宰する「マレビトの会」の新作と聞いて見に行った。時間があったので「びわこホール」へと大津駅から歩いた。琵琶湖が近づくにつれて気のせいか、何かどぶ川のような臭いがする。それはまるでおもちゃのように動かず浮かんでいる数えきれないほど多くの鴨が浮かんでいる湖面が何か草かゴミのようなもので覆われているのを見たとき、気のせいではなかったことが分かった。もうすぐ冬を迎えようとしているこのころは同時に腐敗の季節でもあったのだ。</p>
<p>  劇は見る前はあまり気が乗らなかった。近年、舞台上で安易に説明的に映像を映し出している劇を見るたびに、映画を見るのは映画館で十分で、こんなものを見にわざわざ劇場に来たんじゃないとどなりたくなる経験を何度かしていたからだ。観客はある時間、その場でのみ発せられる舞台上のアウラ（ベンヤミン）を感じたいがために見に行くのだ。</p>
<p>  PARK CITYという今回の新作は、広島を題材にし、そこを作品として写真に撮った笹岡啓子の作品を劇中でスライド上映したものと、その前で看護師やさまざまな人物が自分の体験をモノローグで語ってゆくことで進行する。</p>
<p>  劇の中で唯一演劇らしい対話と行為が行われるのは島と呼ばれる青年である。彼は、正確には再現できないのだが、「広島は僕だ」「僕は島だ」と執拗に繰り返し、「Hiroshimaはフランス語ではＨを発音しないのでiroshimaイロシマだ」と、自分の名が広島を表していることを強調する。彼は倒され水をかけられボートのオールでたたかれる。これは、戦争でアメリカ軍に空襲を受け、原爆を投下された広島を擬人的に描いていると同時に、どんなに広島に同一化しようとしても傍観者としてしかありえず、そこで歴史を経験した者からはたたかれるにも等しい受け止められ方をする人物をも表していた。裸にされた彼を台の上に横たえさせ、その体を広島の地図に見たて説明する場面には感嘆した。</p>
<p>  思い出すのは「二十四時間の情事」という題で上映されたマルグリット・デュラス原作、アラン・レネ監督の「ヒロシマ、私の恋人Hiroshima, mon amour」という作品である。映画の冒頭から交わされ、何度か繰り返される日本人の男とフランス人の女の会話、「きみはヒロシマで何も見なかった。何も」「わたしはすべてを見たの。すべてを」を思い出させる。</p>
<p>  このPARK CITYという作品も、広島を見極めたいという欲望と、どんなに努力して探索したつもりでも、「何も見なかった」に等しいと感じてしまう焦燥感によって成立しているように思えた。</p>
<p>　しかし、スクリーンに映し出される笹岡の写真を見て、同時に演じられている役者の演技と台詞に集中し、時々は手元のモニターに映し出されている広島の映像を見るという鑑賞はかなり忙しく、意識の集中の対象を移動させながら緊張を保つのは難しかった。</p>
<p>　広島を空間的（地理的）と時間的（歴史的）に把握しようという試みと、いまそこに現前している役者たちの身体の演技で成り立っている舞台は危ういところで成立していた。「マレビトの会」の最近の他の作品に多く見られた、台詞を音楽や音で意図的にかき消し、観客にストレスを与えるような演出も今回はなされず、マイクを使ったためもあり台詞はすみずみまでよく聞こえた（個人的にはワークショップで演技指導をしていただいた山口春美さんの台詞も明確に聞こえて嬉しかった）。</p>
<p>　上演後、劇中でなぜ「月光の囁き」という映画の題名が引用されていたのかと松田に訊ねた。高校生の純愛をフェティシズムとマゾヒズムで描いた、ぼくの好きな映画がなぜこの劇で引用されていたのかと疑問に思ったからだ。松田は、あまり話したくない個人的な思い出にまつわることだが、その映画の最後には、好きなスピッツの曲「運命の人」が使われていたせいだと答えた。</p>
<p>　さらに松田から、だんだん自分だけで書いた台詞で上演するのが少なくなっている。今回も練習をする過程で役者の意見で書き換えたところが何か所かあるとうかがった。数多くの引用、何人もの役者やスタッフ、ドラマトゥルクの田辺剛に加えてついに共作者までも加えた創作を松田は行うようになった。まさに「詩は一人でなく、万人によって作られねばならない」と書いたイジドール・デュカス（ロートレアモン）の詩学を実践している。</p>
<p>　再び大津駅へ向って歩いて帰るとき琵琶湖のほとりを歩いた。どぶ臭さは変わらなかったが頬をなぶる風は心地よかった。（番場　寛）</p>
<p>　</p>
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			<media:title type="html">bhiroshi</media:title>
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	</item>
		<item>
		<title>ルイーズ・ブルジョワについての講演を聞いて</title>
		<link>http://otaniis.wordpress.com/2009/10/27/%e3%83%ab%e3%82%a4%e3%83%bc%e3%82%ba%e3%83%bb%e3%83%96%e3%83%ab%e3%82%b8%e3%83%a7%e3%83%af%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e3%81%ae%e8%ac%9b%e6%bc%94%e3%82%92%e8%81%9e%e3%81%84%e3%81%a6/</link>
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		<pubDate>Mon, 26 Oct 2009 21:48:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[フランス]]></category>
		<category><![CDATA[展覧会]]></category>

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		<description><![CDATA[  １０月２２日に大谷学会研究発表会があり、国際文化学科では、芦津かおり先生が「大岡昇平と太宰治―それぞれの『ハムレット』、それぞれのシェイクスピア―」というタイトルで発表された。日本における対照的な二人の作家（奇しくも１９０６年という同じ年に生まれていることを初めて知った）の『ハムレット』受容の違いを分析し、そこに二人の作家の表現技法の特徴と『ハムレット』の日本における影響の強さがみられるという発表であった。
　同日、京都工芸繊維大学でニューヨーク大学から招かれたリンダ・ノックリンLinda Nochlin教授のルイーズ・ブルジョワについての講演を聞いた。
 写実主義の画家と思われるギュスターヴ・クールベの専門家と伝えられている女史が、それとまったく違って、前衛的で攻撃的な作品を生み出しているブルジョワについてどんなことを語るのだろうと興味を持った。
　「ルイーズ・ブルジョワ－OLD Age style: Late Louise Bourgeois」という講演の題目通り、９８歳の現在なお創作を続けている彼女の後期の作品を解説してくれた。ノックリン教授の作品解読の方法は美術史家の方法で、たとえば美術史上に見られる似たモチーフの作品を併置し、ブルジョワの作品の独自性を説明しようとするものだった。
　中でもノックリン教授が注目したのは、初期において大理石や金属や石膏など堅い素材を用いていたブルジョワが、後記に同じモチーフを、詰め物を布で縫い合わせて覆う方法で作成していることである。そこには製作者としての肉体的に扱いやすい素材を選んだという理由も考えられるかもしれないが、幼いころ見た彼女の母親が仕事としていた刺繍の技法の影響が見られるということで、わざと縫い目を粗く見せ糸さえも見えるのは老いによる技術的な欠如によるものではなく、彼女も母親に倣って試みたであろう少女期への回帰とも考えられるという説明であった。
　確かに２年前にポンピドゥーセンターでみたブルジョワの特別展にも近年の作品には縫い閉じた布で作成された作品が殆どだったように覚えている。しかし疑問は消えない。
　講演後、なぜ、ブルジョワの作品では重要だと思われる「少女Fillette」という作品（題名とは裏腹に男性の性器の彫刻）と「父の破壊The Destruction of The Father」という作品（洞窟のような空間の上下に球状や突起物の物体が置かれ赤い光を当てられている）について触れないのかと質問した。その際、会場に多くの女性がおられることに躊躇ったが、ブルジョワには明らかにフロイトの言う「ペニス羨望」と父親に対する特別な感情が明らでありそれを抜きにしては彼女の作品は語れないのではないかと主張した。
　会場におられた女性の方で不愉快な思いをされた方がいたら許してほしいが、今もその主張は変わらない。美術作品は作家が受けた他の作品からの影響関係、作家が生きた時代、作家の伝記的事実といろいろな角度から解読されるべきだろう。しかしブルジョワに関しては精神分析的方法が極めて有効だと思う。どんなに老いても彼女の作品に見られるセクシュアリティをむき出しにした「攻撃性」と、そしてそれと同じくらい溢れている「優しさ」「温かさ」が好きだ。
　とここまで書いて、芦津先生の発表に対してなされた門脇先生の質問を思い出した。大岡と太宰が書き換えの対象として『ハムレット』を選んだのは、芦津先生が援用したハロルド・ブルームが指摘した、「影響の不安」から逃れるための、いわば比喩的にとらえたオイディプス的な「父殺し」のようなものなのか（その場合はシェイクスピアが父親の位置に来る）、作品としての『ハムレット』自体に隠れている「父殺し」のテーマを選んだのかという質問は興味深かった。自分でも考えてみたい。（番場　寛）
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=487&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>  １０月２２日に大谷学会研究発表会があり、国際文化学科では、芦津かおり先生が「大岡昇平と太宰治―それぞれの『ハムレット』、それぞれのシェイクスピア―」というタイトルで発表された。日本における対照的な二人の作家（奇しくも１９０６年という同じ年に生まれていることを初めて知った）の『ハムレット』受容の違いを分析し、そこに二人の作家の表現技法の特徴と『ハムレット』の日本における影響の強さがみられるという発表であった。</p>
<p>　同日、京都工芸繊維大学でニューヨーク大学から招かれたリンダ・ノックリンLinda Nochlin教授のルイーズ・ブルジョワについての講演を聞いた。</p>
<p> 写実主義の画家と思われるギュスターヴ・クールベの専門家と伝えられている女史が、それとまったく違って、前衛的で攻撃的な作品を生み出しているブルジョワについてどんなことを語るのだろうと興味を持った。</p>
<p>　「ルイーズ・ブルジョワ－OLD Age style: Late Louise Bourgeois」という講演の題目通り、９８歳の現在なお創作を続けている彼女の後期の作品を解説してくれた。ノックリン教授の作品解読の方法は美術史家の方法で、たとえば美術史上に見られる似たモチーフの作品を併置し、ブルジョワの作品の独自性を説明しようとするものだった。</p>
<p>　中でもノックリン教授が注目したのは、初期において大理石や金属や石膏など堅い素材を用いていたブルジョワが、後記に同じモチーフを、詰め物を布で縫い合わせて覆う方法で作成していることである。そこには製作者としての肉体的に扱いやすい素材を選んだという理由も考えられるかもしれないが、幼いころ見た彼女の母親が仕事としていた刺繍の技法の影響が見られるということで、わざと縫い目を粗く見せ糸さえも見えるのは老いによる技術的な欠如によるものではなく、彼女も母親に倣って試みたであろう少女期への回帰とも考えられるという説明であった。</p>
<p>　確かに２年前にポンピドゥーセンターでみたブルジョワの特別展にも近年の作品には縫い閉じた布で作成された作品が殆どだったように覚えている。しかし疑問は消えない。</p>
<p>　講演後、なぜ、ブルジョワの作品では重要だと思われる「少女Fillette」という作品（題名とは裏腹に男性の性器の彫刻）と「父の破壊The Destruction of The Father」という作品（洞窟のような空間の上下に球状や突起物の物体が置かれ赤い光を当てられている）について触れないのかと質問した。その際、会場に多くの女性がおられることに躊躇ったが、ブルジョワには明らかにフロイトの言う「ペニス羨望」と父親に対する特別な感情が明らでありそれを抜きにしては彼女の作品は語れないのではないかと主張した。</p>
<p>　会場におられた女性の方で不愉快な思いをされた方がいたら許してほしいが、今もその主張は変わらない。美術作品は作家が受けた他の作品からの影響関係、作家が生きた時代、作家の伝記的事実といろいろな角度から解読されるべきだろう。しかしブルジョワに関しては精神分析的方法が極めて有効だと思う。どんなに老いても彼女の作品に見られるセクシュアリティをむき出しにした「攻撃性」と、そしてそれと同じくらい溢れている「優しさ」「温かさ」が好きだ。</p>
<p>　とここまで書いて、芦津先生の発表に対してなされた門脇先生の質問を思い出した。大岡と太宰が書き換えの対象として『ハムレット』を選んだのは、芦津先生が援用したハロルド・ブルームが指摘した、「影響の不安」から逃れるための、いわば比喩的にとらえたオイディプス的な「父殺し」のようなものなのか（その場合はシェイクスピアが父親の位置に来る）、作品としての『ハムレット』自体に隠れている「父殺し」のテーマを選んだのかという質問は興味深かった。自分でも考えてみたい。（番場　寛）</p>
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			<media:title type="html">bhiroshi</media:title>
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	</item>
		<item>
		<title>ナイロン１００℃「世田谷カフカ」（本多劇場）を見て</title>
		<link>http://otaniis.wordpress.com/2009/10/23/%e3%83%8a%e3%82%a4%e3%83%ad%e3%83%b3%ef%bc%91%ef%bc%90%ef%bc%90%e2%84%83%e3%80%8c%e4%b8%96%e7%94%b0%e8%b0%b7%e3%82%ab%e3%83%95%e3%82%ab%e3%80%8d%ef%bc%88%e6%9c%ac%e5%a4%9a%e5%8a%87%e5%a0%b4%ef%bc%89/</link>
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		<pubDate>Fri, 23 Oct 2009 12:58:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[身体表現]]></category>

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		<description><![CDATA[  東京へ行く機会があったのでというより、用を作ってついでにケラリーノ・サンドロヴィッチ演出の「世田谷カフカ」という劇を見てきた。休憩時間を挟んで３時間余りの舞台はあっという間に終わった。
　しかし何が今思い出せるかと振り返ると少ないことに気づく。同じ劇団の舞台では前に「カフカズ・ディック」を見た。それはカフカの生涯をなぞっているのにちゃんと誰でもが楽しめるエンターテインメントになっていることに驚いた。
　今回はカフカの「審判」と「失踪者」（「アメリカ」）と「城」との長編三部作を換骨奪胎して創り上げた脚本に基づいている。　最初はこの劇を演じる舞台俳優が、劇ではなく日常生活において経験した不条理な経験（例えば、先日初めて自分が父親の娘でないことを知り、自分の部屋で泣いていたのに、逆に姉に自分が悪いかのように言われてしまった女性の話）を客に向かって告白するのだが、それもこの全体の劇の一部だったということをやがて客は知る。次に日常で経験するカフカ的状況がコントのように演じられる。病院の待合室で待っているのになかなか呼ばれない。そのうち後から来た人の名が呼ばれ、診察室に入っていく。どうしてかと看護師を問いつめると、あなた方は名前が呼ばれてないからだめだという。それはなぜかと聞いても答えない。しまいには他人の名前を呼ばれても、入っていこうとして止められる。これはおそらく「律法（掟）の門前」をまったく違った日本の日常にあてはめたものに思えた。
　このように、日常で経験されるカフカ的世界の不条理と、カフカの三部作のいずれもＫという頭文字を持つ３人の主人公が経験する不条理が交差する。さらには、カフカが自分が死んだらすべての原稿を焼くようにと指示した友人マックス・ブロートも登場する。
　しかし前の「カフカズ・ディック」と同様、これで、カフカに対する新たな視点が提示されるというのではなく、カフカ的世界が日常的に経験されることの再認である。
　劇の休憩時間に、ぼくのすぐ後ろに座っていた３人の連れの中の、この劇が難しいという女性に対し、一人が、「俺も『いつ虫になるのかとずっと見ていた』と語る劇の登場人物と同じレベルだ」と自嘲して笑わせていた。
　俳優たちがそろって白い服と白だけの仮面を身につけ、そこに映像を映し出し、顔と服の模様を映し出す技法や、登場人物が、一人でちゃぶ台の上で人形劇をやりそれをビデオカメラで実況中継して大きくスクリーンに映し出していたかと思うと、それが実況でなくあらかじめ製作していた人形の劇映画にすり替わっている技法など随所に工夫と楽しさで溢れていた。
　宮沢賢治の「雨にもマケズ・・・」の言い回しのパロディも演じられていたが、実はこれよりもずっと昔にすでに、これをパロディにした寺山修司の傑作『奴婢訓』がある。また、客席に俳優が入り込んで演じる演出も寺山の劇ではありふれていた。
　つまりこの「世田谷カフカ」は、小劇場で演じられてきた劇の総決算のような劇で、人間存在の不安をのぞかせるカフカが、エンターテインメントにもなることを鮮やかに見せてくれた。しかし見終わって今振り返っても強烈に残る印象はとぼしい。それは、以前に何度かカフカの作品を演劇化したものを見ており、今もそれはぼくの記憶の中で生き続けているからだ。それについて語るのは次回に譲りたい。（番場　寛）
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=485&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
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<p>　しかし何が今思い出せるかと振り返ると少ないことに気づく。同じ劇団の舞台では前に「カフカズ・ディック」を見た。それはカフカの生涯をなぞっているのにちゃんと誰でもが楽しめるエンターテインメントになっていることに驚いた。</p>
<p>　今回はカフカの「審判」と「失踪者」（「アメリカ」）と「城」との長編三部作を換骨奪胎して創り上げた脚本に基づいている。　最初はこの劇を演じる舞台俳優が、劇ではなく日常生活において経験した不条理な経験（例えば、先日初めて自分が父親の娘でないことを知り、自分の部屋で泣いていたのに、逆に姉に自分が悪いかのように言われてしまった女性の話）を客に向かって告白するのだが、それもこの全体の劇の一部だったということをやがて客は知る。次に日常で経験するカフカ的状況がコントのように演じられる。病院の待合室で待っているのになかなか呼ばれない。そのうち後から来た人の名が呼ばれ、診察室に入っていく。どうしてかと看護師を問いつめると、あなた方は名前が呼ばれてないからだめだという。それはなぜかと聞いても答えない。しまいには他人の名前を呼ばれても、入っていこうとして止められる。これはおそらく「律法（掟）の門前」をまったく違った日本の日常にあてはめたものに思えた。</p>
<p>　このように、日常で経験されるカフカ的世界の不条理と、カフカの三部作のいずれもＫという頭文字を持つ３人の主人公が経験する不条理が交差する。さらには、カフカが自分が死んだらすべての原稿を焼くようにと指示した友人マックス・ブロートも登場する。</p>
<p>　しかし前の「カフカズ・ディック」と同様、これで、カフカに対する新たな視点が提示されるというのではなく、カフカ的世界が日常的に経験されることの再認である。</p>
<p>　劇の休憩時間に、ぼくのすぐ後ろに座っていた３人の連れの中の、この劇が難しいという女性に対し、一人が、「俺も『いつ虫になるのかとずっと見ていた』と語る劇の登場人物と同じレベルだ」と自嘲して笑わせていた。</p>
<p>　俳優たちがそろって白い服と白だけの仮面を身につけ、そこに映像を映し出し、顔と服の模様を映し出す技法や、登場人物が、一人でちゃぶ台の上で人形劇をやりそれをビデオカメラで実況中継して大きくスクリーンに映し出していたかと思うと、それが実況でなくあらかじめ製作していた人形の劇映画にすり替わっている技法など随所に工夫と楽しさで溢れていた。</p>
<p>　宮沢賢治の「雨にもマケズ・・・」の言い回しのパロディも演じられていたが、実はこれよりもずっと昔にすでに、これをパロディにした寺山修司の傑作『奴婢訓』がある。また、客席に俳優が入り込んで演じる演出も寺山の劇ではありふれていた。</p>
<p>　つまりこの「世田谷カフカ」は、小劇場で演じられてきた劇の総決算のような劇で、人間存在の不安をのぞかせるカフカが、エンターテインメントにもなることを鮮やかに見せてくれた。しかし見終わって今振り返っても強烈に残る印象はとぼしい。それは、以前に何度かカフカの作品を演劇化したものを見ており、今もそれはぼくの記憶の中で生き続けているからだ。それについて語るのは次回に譲りたい。（番場　寛）</p>
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			<media:title type="html">bhiroshi</media:title>
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		<item>
		<title>セイの美しい「醜さ」から目をそらさないで（「空気人形」を見て）</title>
		<link>http://otaniis.wordpress.com/2009/10/14/%e3%82%bb%e3%82%a4%e3%81%ae%e7%be%8e%e3%81%97%e3%81%84%e3%80%8c%e9%86%9c%e3%81%95%e3%80%8d%e3%81%8b%e3%82%89%e7%9b%ae%e3%82%92%e3%81%9d%e3%82%89%e3%81%95%e3%81%aa%e3%81%84%e3%81%a7%ef%bc%88%e3%80%8c/</link>
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		<pubDate>Wed, 14 Oct 2009 00:40:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画]]></category>

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		<description><![CDATA[  ようやく「空気人形」本編を見ることができ、圧倒され、今は言葉を失ったような気分だ。
　「生」を描くには「死」を対比させなくてはならず（「ワンダフルライフ」）、「人間」の本質は「人間以外のもの」たとえばロボットか人形を対比させることで浮かび上がってくるのだろう。　
　前にこのブログで、セドリック・クラピッシュの「Paris」を、「末期の目」を設定してパリを見たらどう見えるかという撮り方だと指摘した。　そういう言葉があるのかどうか知らないが、これは「生まれて初めて世を見る眼差し」でこの世を見たらどう見えるかという映画だと思う。
　その眼差しは「誰も知らない」の幼い妹のあどけなさからくる可愛らしさを引き継いでいる。「心を持ってしまった」人形（ペ・ドゥナ）が、初めて外へ出て、人の歩き方をまねて歩く動作、初めて一つ一つ言葉をたどたどしく覚えていくシーン、レンタル・ショップで純一（ARATA）のまねをしてソフトを吹くしぐさ、これらは、大人のまねをしてひとつひとつ覚えていく幼児のしぐさに似ている。
　メイドの服を初めとする衣装はすべて手脚の長いペ・ドゥナに似合っており、演出家、カメラマン、衣装、メイクとペ・ドゥナの作り上げる人形は完ぺきで、それを前にすると「可愛い」という言葉はありきたりで、恥じ入り顔を赤らめうつむいてしまうだろう。
　「わたしの体をあなたの息で満たして」と人形は頼む。空気を吹き込む行為はセックスの隠喩だと監督が説明する通り、人形と彼女が好きになった純一が裸で抱き合い、空気を抜かれた人形が、息で膨らませられて次第に顎から胸にかけてのび、せりあがっていく場面は悦びと美しさに満ちており、映画史に残ることであろう。
　しかし驚かせるのは、相手に今度は自分の息を吹き込もうとする人形が、息を吹き込む栓を相手の体に探す果てに、相手を傷つけ血まみれになり殺してしまう場面である。これは大島渚の「愛のコリーダ」（フランス語の原題L’empire des sens(感覚の王国)の方が映画の主題に忠実だと思う）の定が性交の際、吉蔵の首を絞めることで快感が増すということで、それが過ぎて吉蔵を殺してしまった後、性器を切り取ってしまうシーンを思い出させずにおれない。性愛の極限の姿は美しさを突き抜けたエゴイズムという醜さにまで行きついてしまう。
　「わしも同じだ。からっぽだ」とつぶやく老人を初め、他の登場人物もみな孤独だ。「ワタシは誰かの代用品」と繰り返す人形は、「普通の人形に戻ってくれ」と叫ぶ持ち主に対し、「なぜわたしなの？ノゾミというのは昔の彼女の名前なのでしょう？」と詰め寄る。しかし、その持ち主も職場の上司に「いやならやめてもらってもいいんだよ。お前の代わりなんていくらでもいるんだから」と言われる。人形が恋をしたレンタル・ショップの店員の純一でさえ、人形が彼にバイクに乗せてもらう時にかぶらせてもらったヘルメットは彼の昔の恋人のものだった。
　何よりも、純一と人形が働くのがレンタル・ショップであり、店長の「本当は映画はこんなんでなく映画館で見る方がいいんだけどね」と言う台詞にもあるとおり「代用品」というテーマはこの映画を貫いている。　オンリーワンである筈のわたしたちはみな、自分がこの世で代わりのいないかけがいのない存在として誰かに認められることに飢えている。
　人形が自分を作った人形師の所を訪ねていくシーンにおいて、オダギリ・ジョーが演じる人形師は、再び返却され、廃棄を待つばかりになっている人形の山を見ながら、これらを見ているとどれだけ人に愛されたか分かると言う。そして人形に言う「君が見た世界は美しくないものばかりじゃなかった筈だ」と。是枝自身は否定するがどう考えてもこの人形師は神の隠喩にしか見えない。
　殺してしまった純一を人形はごみ捨て場に置いてしまい、自身も空気を入れないまま、ごみ捨て場に横たわり、その生を終える。しかしその前に、捨てられていた空きビンをバースディケーキのロウソクのように自分の周りに並べておく。すでにいらなくなった筈の空きビンを光にかざしその美しさにみとれる人形。醜いはずのゴミも先に述べた眼差しによれば輝いて見えることに驚かされる。
　常に「誰かの代用品」として生きるわたしたちは、生きることでゴミを出し続け、やがて自身もいつか処分されてしまう。しかしそれは悲しいだけではない。「空気人形」というタイトルが風に吹かれて散っていくかのようなオープニングで始まり、その散った文字が、人形がその生を終えたとき、まるで人形の空気がタンポポの種のように世に散っていき人々の所にとどくかのようなエンディングの意図は明らかだ。
　そのタンポポの種のひとつが部屋に舞い降りたとき、そこに引き籠ってゴミの山の中で生活していた過食症の少女は初めて窓を開け、人形が生を終え、空きビンに囲まれて横たわっているごみ捨て場を見て「まあ、きれい」と声をもらす。ここを見たとき観客は改めて、人形がただの人形でなく「空気」人形であったことの意味と、吉野弘の「生命は」という詩が引用されていたわけを知る。
「誰かの代用品」としてのセイを生きる「互いに欠如を満たすなどとは/知りもせず/知らされもせずばらまかれている者同士」の私たちは、おなじような誰かに働きかけることができたとき初めてその存在の呪いから解放されるのかもしれない。
　セイ（性、生）は美しいが、とてつもなく醜くもある。その美しい「醜さ」から目をそらしてはいけない。（番場　寛）
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=480&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>  ようやく「空気人形」本編を見ることができ、圧倒され、今は言葉を失ったような気分だ。</p>
<p>　「生」を描くには「死」を対比させなくてはならず（「ワンダフルライフ」）、「人間」の本質は「人間以外のもの」たとえばロボットか人形を対比させることで浮かび上がってくるのだろう。　</p>
<p>　前にこのブログで、セドリック・クラピッシュの「Paris」を、「末期の目」を設定してパリを見たらどう見えるかという撮り方だと指摘した。　そういう言葉があるのかどうか知らないが、これは「生まれて初めて世を見る眼差し」でこの世を見たらどう見えるかという映画だと思う。</p>
<p>　その眼差しは「誰も知らない」の幼い妹のあどけなさからくる可愛らしさを引き継いでいる。「心を持ってしまった」人形（ペ・ドゥナ）が、初めて外へ出て、人の歩き方をまねて歩く動作、初めて一つ一つ言葉をたどたどしく覚えていくシーン、レンタル・ショップで純一（ARATA）のまねをしてソフトを吹くしぐさ、これらは、大人のまねをしてひとつひとつ覚えていく幼児のしぐさに似ている。</p>
<p>　メイドの服を初めとする衣装はすべて手脚の長いペ・ドゥナに似合っており、演出家、カメラマン、衣装、メイクとペ・ドゥナの作り上げる人形は完ぺきで、それを前にすると「可愛い」という言葉はありきたりで、恥じ入り顔を赤らめうつむいてしまうだろう。</p>
<p>　「わたしの体をあなたの息で満たして」と人形は頼む。空気を吹き込む行為はセックスの隠喩だと監督が説明する通り、人形と彼女が好きになった純一が裸で抱き合い、空気を抜かれた人形が、息で膨らませられて次第に顎から胸にかけてのび、せりあがっていく場面は悦びと美しさに満ちており、映画史に残ることであろう。</p>
<p>　しかし驚かせるのは、相手に今度は自分の息を吹き込もうとする人形が、息を吹き込む栓を相手の体に探す果てに、相手を傷つけ血まみれになり殺してしまう場面である。これは大島渚の「愛のコリーダ」（フランス語の原題L’empire des sens(感覚の王国)の方が映画の主題に忠実だと思う）の定が性交の際、吉蔵の首を絞めることで快感が増すということで、それが過ぎて吉蔵を殺してしまった後、性器を切り取ってしまうシーンを思い出させずにおれない。性愛の極限の姿は美しさを突き抜けたエゴイズムという醜さにまで行きついてしまう。</p>
<p>　「わしも同じだ。からっぽだ」とつぶやく老人を初め、他の登場人物もみな孤独だ。「ワタシは誰かの代用品」と繰り返す人形は、「普通の人形に戻ってくれ」と叫ぶ持ち主に対し、「なぜわたしなの？ノゾミというのは昔の彼女の名前なのでしょう？」と詰め寄る。しかし、その持ち主も職場の上司に「いやならやめてもらってもいいんだよ。お前の代わりなんていくらでもいるんだから」と言われる。人形が恋をしたレンタル・ショップの店員の純一でさえ、人形が彼にバイクに乗せてもらう時にかぶらせてもらったヘルメットは彼の昔の恋人のものだった。</p>
<p>　何よりも、純一と人形が働くのがレンタル・ショップであり、店長の「本当は映画はこんなんでなく映画館で見る方がいいんだけどね」と言う台詞にもあるとおり「代用品」というテーマはこの映画を貫いている。　オンリーワンである筈のわたしたちはみな、自分がこの世で代わりのいないかけがいのない存在として誰かに認められることに飢えている。</p>
<p>　人形が自分を作った人形師の所を訪ねていくシーンにおいて、オダギリ・ジョーが演じる人形師は、再び返却され、廃棄を待つばかりになっている人形の山を見ながら、これらを見ているとどれだけ人に愛されたか分かると言う。そして人形に言う「君が見た世界は美しくないものばかりじゃなかった筈だ」と。是枝自身は否定するがどう考えてもこの人形師は神の隠喩にしか見えない。</p>
<p>　殺してしまった純一を人形はごみ捨て場に置いてしまい、自身も空気を入れないまま、ごみ捨て場に横たわり、その生を終える。しかしその前に、捨てられていた空きビンをバースディケーキのロウソクのように自分の周りに並べておく。すでにいらなくなった筈の空きビンを光にかざしその美しさにみとれる人形。醜いはずのゴミも先に述べた眼差しによれば輝いて見えることに驚かされる。</p>
<p>　常に「誰かの代用品」として生きるわたしたちは、生きることでゴミを出し続け、やがて自身もいつか処分されてしまう。しかしそれは悲しいだけではない。「空気人形」というタイトルが風に吹かれて散っていくかのようなオープニングで始まり、その散った文字が、人形がその生を終えたとき、まるで人形の空気がタンポポの種のように世に散っていき人々の所にとどくかのようなエンディングの意図は明らかだ。</p>
<p>　そのタンポポの種のひとつが部屋に舞い降りたとき、そこに引き籠ってゴミの山の中で生活していた過食症の少女は初めて窓を開け、人形が生を終え、空きビンに囲まれて横たわっているごみ捨て場を見て「まあ、きれい」と声をもらす。ここを見たとき観客は改めて、人形がただの人形でなく「空気」人形であったことの意味と、吉野弘の「生命は」という詩が引用されていたわけを知る。</p>
<p>「誰かの代用品」としてのセイを生きる「互いに欠如を満たすなどとは/知りもせず/知らされもせずばらまかれている者同士」の私たちは、おなじような誰かに働きかけることができたとき初めてその存在の呪いから解放されるのかもしれない。</p>
<p>　セイ（性、生）は美しいが、とてつもなく醜くもある。その美しい「醜さ」から目をそらしてはいけない。（番場　寛）</p>
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		<title>能舞台とミニスカート</title>
		<link>http://otaniis.wordpress.com/2009/10/07/%e8%83%bd%e8%88%9e%e5%8f%b0%e3%81%a8%e3%83%9f%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%83%88/</link>
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		<pubDate>Wed, 07 Oct 2009 00:28:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[フランス]]></category>
		<category><![CDATA[身体表現]]></category>

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		<description><![CDATA[   菊池　晃さん、博士号授与おめでとうございます。指導された教員のみなさんや後につづく学生たちにも励みとなることでしょう。　それに比べれば少し恥ずかしくなるような考察を書かせてもらいます。
　先日の4年生のゼミの授業で、「ミニスカートの文化」というテーマで研究を続けている女子学生が、60年代に若者に社会秩序や当時の価値観に対する反抗が芽生え、それがパンクに見られるような新しい音楽やファッションを生み出していったのだと説明した。ミニスカートも、当時の「脚を露出するのは、はしたない」という価値観への反抗心の表れだったのではないかというのが、彼女の現時点での仮説であった。
　他の学生からは、既成の価値観を覆そうという動きは他の時代にも見られるので、その説明では不十分だという意見が出された。
　ぼくが説明を聞きながら思ったのは、3月2日にこのブログ（「ミニスカートが好き」を考える）で書いた疑問だった。それは「スカートを穿かない女に未来はない」と言い放っていたココ・シャネルが、当時流行り始めたミニスカートについて「あんな醜いものを穿く気持ちがわからない」という内容のことを言っていたことである。女性の脚を最も美しく見せるスカートの丈は膝が隠れるくらいだという考えを彼女は変えなかった。
　シャネルブランドのデザインを引き継いで成功したカール・ラガーフェルドはミニスカートをデザインし成功しているのだが、その二人の差は男女差によるものなのか、時代的な制約によるものなのかを知りたいと思っている。
　しかし今日このブログのタイトルをこう書いたのは、しばらく前になるのだがミニスカートについてある先生と話したときの疑問がまた浮かんだからだ。
　ショートパンツスタイルが流行っていたときのことだ。どうしてミニスカートの方に心が動いてしまうのだろう？とぼくが話したときのことだ。その先生が「そうなんだよね。でもショートパンツを穿いた上に一枚の布を巻きつけただけで心が動くんだから不思議だね」というようなことを言った（学生のみなさん！先生はいつもこんなアホなことを議論している訳ではありません）。
　単なる脚の露出という点だけではミニスカートの謎は解けない。その謎が解けたと自分で思えたのは、ひょんなことからである。
　もう前になるが、ぼくが能を教えていただいている河村晴久先生が、5月6日に、大学の授業で教えている学生やお弟子さんたちを引き連れて奈良の能の舞台となっているところを案内してくださる催しに参加した。
　奈良県新公会堂にある能楽ホールの能舞台を案内してくださったときのことである。そこは能の上演だけでなく会議にも使われる場所のため能舞台の柱が外れるように造られている。その日はたまたま左正面の柱が外されていた。「よかった。ここを皆さんに見せることができて。ほら柱がないといかに間の抜けた感じになるかおわかりでしょう」と先生が解説された。
　舞台の柱は、面をつけているため、視界が限られている能を演ずる役者たちにとって空間を把握するための目安となるのだということは知っていた。しかし能をみるたびに、その柱が観るときの邪魔になって、なければいいのにといつも思うのだった。
　しかしその柱がない舞台を見たことで河村先生の説明が納得できた。つまり柱があることで舞台に奥行のある空間が生まれるのだ。視界の一部を遮られることはその奥行きを生むために必要なのだ。
　そのことを聞いて、ずっと抱いていたミニスカートへの疑問が氷解したように思えた。ミニスカートは能舞台の柱の役割を果たしているのではないか？　見えてしまえばそれだけの部分を視線からさえぎることで、空間に奥行を与えているのだ。
　でも新たな疑問が生まれる。それはあくまで能の観客にあたる見る人への効果からの推測にすぎない。能でいえば役者にあたるミニスカートを穿く女性にとっては、それはどのような働きをしているのだろう？　
　ふわふわとひらひらとその持ち主の身体の動きに合わせ、呼吸しているかのように動く、名もなきデザイナーたちによって生み出されている素敵なその姿をみるたびに、こんなとりとめのないことを考えてしまう。（番場　寛）
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=477&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>   菊池　晃さん、博士号授与おめでとうございます。指導された教員のみなさんや後につづく学生たちにも励みとなることでしょう。　それに比べれば少し恥ずかしくなるような考察を書かせてもらいます。</p>
<p>　先日の4年生のゼミの授業で、「ミニスカートの文化」というテーマで研究を続けている女子学生が、60年代に若者に社会秩序や当時の価値観に対する反抗が芽生え、それがパンクに見られるような新しい音楽やファッションを生み出していったのだと説明した。ミニスカートも、当時の「脚を露出するのは、はしたない」という価値観への反抗心の表れだったのではないかというのが、彼女の現時点での仮説であった。</p>
<p>　他の学生からは、既成の価値観を覆そうという動きは他の時代にも見られるので、その説明では不十分だという意見が出された。</p>
<p>　ぼくが説明を聞きながら思ったのは、3月2日にこのブログ（「ミニスカートが好き」を考える）で書いた疑問だった。それは「スカートを穿かない女に未来はない」と言い放っていたココ・シャネルが、当時流行り始めたミニスカートについて「あんな醜いものを穿く気持ちがわからない」という内容のことを言っていたことである。女性の脚を最も美しく見せるスカートの丈は膝が隠れるくらいだという考えを彼女は変えなかった。</p>
<p>　シャネルブランドのデザインを引き継いで成功したカール・ラガーフェルドはミニスカートをデザインし成功しているのだが、その二人の差は男女差によるものなのか、時代的な制約によるものなのかを知りたいと思っている。</p>
<p>　しかし今日このブログのタイトルをこう書いたのは、しばらく前になるのだがミニスカートについてある先生と話したときの疑問がまた浮かんだからだ。</p>
<p>　ショートパンツスタイルが流行っていたときのことだ。どうしてミニスカートの方に心が動いてしまうのだろう？とぼくが話したときのことだ。その先生が「そうなんだよね。でもショートパンツを穿いた上に一枚の布を巻きつけただけで心が動くんだから不思議だね」というようなことを言った（学生のみなさん！先生はいつもこんなアホなことを議論している訳ではありません）。</p>
<p>　単なる脚の露出という点だけではミニスカートの謎は解けない。その謎が解けたと自分で思えたのは、ひょんなことからである。</p>
<p>　もう前になるが、ぼくが能を教えていただいている河村晴久先生が、5月6日に、大学の授業で教えている学生やお弟子さんたちを引き連れて奈良の能の舞台となっているところを案内してくださる催しに参加した。</p>
<p>　奈良県新公会堂にある能楽ホールの能舞台を案内してくださったときのことである。そこは能の上演だけでなく会議にも使われる場所のため能舞台の柱が外れるように造られている。その日はたまたま左正面の柱が外されていた。「よかった。ここを皆さんに見せることができて。ほら柱がないといかに間の抜けた感じになるかおわかりでしょう」と先生が解説された。</p>
<p>　舞台の柱は、面をつけているため、視界が限られている能を演ずる役者たちにとって空間を把握するための目安となるのだということは知っていた。しかし能をみるたびに、その柱が観るときの邪魔になって、なければいいのにといつも思うのだった。</p>
<p>　しかしその柱がない舞台を見たことで河村先生の説明が納得できた。つまり柱があることで舞台に奥行のある空間が生まれるのだ。視界の一部を遮られることはその奥行きを生むために必要なのだ。</p>
<p>　そのことを聞いて、ずっと抱いていたミニスカートへの疑問が氷解したように思えた。ミニスカートは能舞台の柱の役割を果たしているのではないか？　見えてしまえばそれだけの部分を視線からさえぎることで、空間に奥行を与えているのだ。</p>
<p>　でも新たな疑問が生まれる。それはあくまで能の観客にあたる見る人への効果からの推測にすぎない。能でいえば役者にあたるミニスカートを穿く女性にとっては、それはどのような働きをしているのだろう？　</p>
<p>　ふわふわとひらひらとその持ち主の身体の動きに合わせ、呼吸しているかのように動く、名もなきデザイナーたちによって生み出されている素敵なその姿をみるたびに、こんなとりとめのないことを考えてしまう。（番場　寛）</p>
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		<title>学位授与式が行われました！</title>
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		<pubDate>Tue, 06 Oct 2009 08:25:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>tingmo</dc:creator>
				<category><![CDATA[イベント]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://otaniis.wordpress.com/?p=469</guid>
		<description><![CDATA[9月30日、学位授与式が行われました。国際文化学科では菊池晃さんに博士（文学）の学位が授与されました。
論文のタイトルと要旨は以下の通りです。
「古代インドにおける放捨のヨーガとナーラーヤナ信仰」


本論文は、これまであまり注目されてこなかった『マハーナーラーヤナ・ウパニシャッド』という中期ウパニシャッド文献の解読を中心に考察を行ったものである。この解読を通して、世俗を捨て出家し苦行を行う苦行主義と、後のヒンドゥイズムの要素とされる人格神崇拝の思想とが独立したものではなく、結合した思想であったことを明らかにした。




       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=469&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>9月30日、学位授与式が行われました。国際文化学科では菊池晃さんに博士（文学）の学位が授与されました。</p>
<p>論文のタイトルと要旨は以下の通りです。</p>
<p>「古代インドにおける放捨のヨーガとナーラーヤナ信仰」</p>
<p style="font:10px 'Hiragino Kaku Gothic Pro';margin:0;">
<blockquote>
<p style="font:10px 'Hiragino Kaku Gothic Pro';margin:0;">本論文は、これまであまり注目されてこなかった『マハーナーラーヤナ・ウパニシャッド』という中期ウパニシャッド文献の解読を中心に考察を行ったものである。この解読を通して、世俗を捨て出家し苦行を行う苦行主義と、後のヒンドゥイズムの要素とされる人格神崇拝の思想とが独立したものではなく、結合した思想であったことを明らかにした。</p>
</blockquote>
<p style="font:10px 'Hiragino Kaku Gothic Pro';margin:0;">
<div><span style="font-family:'Hiragino Kaku Gothic Pro', 'Times New Roman', 'Bitstream Charter', Times, serif;"><span style="line-height:normal;font-size:x-small;"><br />
</span></span></div>
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			<media:title type="html">tingmo</media:title>
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	</item>
		<item>
		<title>劇「日本国憲法」（小嶋一郎演出、京都芸術センターにて）を観て</title>
		<link>http://otaniis.wordpress.com/2009/10/02/%e5%8a%87%e3%80%8c%e6%97%a5%e6%9c%ac%e5%9b%bd%e6%86%b2%e6%b3%95%e3%80%8d%ef%bc%88%e5%b0%8f%e5%b6%8b%e4%b8%80%e9%83%8e%e6%bc%94%e5%87%ba%e3%80%81%e4%ba%ac%e9%83%bd%e8%8a%b8%e8%a1%93%e3%82%bb%e3%83%b3/</link>
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		<pubDate>Thu, 01 Oct 2009 22:21:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[身体表現]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://otaniis.wordpress.com/?p=467</guid>
		<description><![CDATA[　限りある時間の中でこれを読んでくれるあなたのためにできるだけリアルタイムで書きたいのだが、執筆が現実に追いつかない。
　９月２５，２６日の二日間しか上演されなかった劇だが、書いておきたい。驚いた。チラシを読むと、日本国憲法をそのまま台詞にし、しかも小学生にもわかる劇を目指したのだという。現実ではなく理想の日本を描いたのだと演出家である小嶋一郎は説明している。　日本国憲法の精神を演劇にするという試みだけでも斬新なのに、台詞にそのまま憲法の文章を使うとは、一体どうなるのだろうという好奇心を抱いた。
　舞台は京都芸術センターのフリースペースと呼ばれる、入口横にある広い板張りの部屋に設置されたが、普通の演劇のようにそこに板を敷いて舞台を作ることはせず、床に一つのソファを置いただけの簡素なものだった。
　最初は一人の若い男が床に横たわり小さな動きで体をよじる。おそらく赤ん坊か、人間の誕生を象徴的に意味しているのだと思う。立ち上がってもなかなか言葉を発しない。ようやく言葉にならない発声をするまでの１０分にも満たない時間が苦痛を伴う緊張感を与える。若い女が出てきて男と向かい合っても最初は言葉にならない発声で呼応し、ようやく日本国憲法をそのまま会話のように発声する。　「（…）戦争と、武力により威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。
　それを聞くのはおそらく高校生以来だと思うが、なんて美しい言葉の連なりなのかと驚いた。まるで現実離れしていて、ちょうどあのジョン・レノンの「イマジン」を聞いたときと同じ気持ちになる。
　しかし劇はなかなか展開しない。女が出てきても、向き合い、微笑み、距離を変えても、何らかの二人の関係に大きな変化は起こらない。それが狙いだとしても退屈だ。これで分かったと思ったか、３０分もたたないのに観客の中のひと組のカップルが立ち上がり、観客席から外へ出て行った。登場人物が増え、最後にはすべての人物が手拍子を打ちながら微笑み、日本国憲法の朗読が音楽なしで、いつしか歌に変わっている。
　これが小嶋が説明する、「現実ではなく、理想を描いた」ということなのだろうが、演劇作品としてはもっと何かできなかっただろうかと思わずにおれない。たとえば他人の戯曲をそのまま使い、発声と動きを極限にまで制御し、別の現実を作る三浦基だったら全く別の舞台を作るだろう。
　劇自体の物足りなさとは別の次元で、演出家の意図した以上の効果を上げていたことがある。それは劇が行われた部屋の外に面した戸を開け払っていたことだ。これ自体は演劇の終わり方の手法として頻繁ではないが見られる手法だ。いわゆる日本庭園の「借景」と呼ばれるものと同じで、外の眺めを庭の眺めと連続させる手法である。
　例えば、太田省吾も昔、劇の最後で舞台背後の戸が開けっ放しになり東京の住宅街が広がる演出をしたことがあるし、今も毎年続けられている唐十郎の劇の最後は必ず背後の戸が払われ外に主人公が出て行く。劇場内の虚構の時間が現実の時間へと接続されていることを示す瞬間である。
　この劇の演出家がどこまでこの効果を考えて演出したのかは分からない。近所の犬の吠える声が劇の間中聞こえ、劇の妨げになると同時に外には劇と違った「現実」の時間が流れていることを常に観客に意識させる。もう暗くなっており、中に開いているのはカフェだけで他も催し物もない筈なのに、芸術センターに入るために通り過ぎていく人が絶えない。彼らは最初、部屋の中の方を見るが、まるで無関心であるかのように通り過ぎていく。
　演劇も、日本国憲法も、慌ただしく過ぎていく日常の中では意識されず忘れられている。自分の意志でチケットを買うか、手に取り文章を読む人にしか作用を及ぼさない。しかし目には見えなくても、演劇も憲法もその日常のど真ん中にある。それをこの「日本国憲法」という劇は伝えることに成功している。　（番場　寛）
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=467&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>　限りある時間の中でこれを読んでくれるあなたのためにできるだけリアルタイムで書きたいのだが、執筆が現実に追いつかない。<em></em></p>
<p>　９月２５，２６日の二日間しか上演されなかった劇だが、書いておきたい。驚いた。チラシを読むと、日本国憲法をそのまま台詞にし、しかも小学生にもわかる劇を目指したのだという。現実ではなく理想の日本を描いたのだと演出家である小嶋一郎は説明している。　日本国憲法の精神を演劇にするという試みだけでも斬新なのに、台詞にそのまま憲法の文章を使うとは、一体どうなるのだろうという好奇心を抱いた。</p>
<p>　舞台は京都芸術センターのフリースペースと呼ばれる、入口横にある広い板張りの部屋に設置されたが、普通の演劇のようにそこに板を敷いて舞台を作ることはせず、床に一つのソファを置いただけの簡素なものだった。</p>
<p>　最初は一人の若い男が床に横たわり小さな動きで体をよじる。おそらく赤ん坊か、人間の誕生を象徴的に意味しているのだと思う。立ち上がってもなかなか言葉を発しない。ようやく言葉にならない発声をするまでの１０分にも満たない時間が苦痛を伴う緊張感を与える。若い女が出てきて男と向かい合っても最初は言葉にならない発声で呼応し、ようやく日本国憲法をそのまま会話のように発声する。　「（…）戦争と、武力により威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。</p>
<p>　それを聞くのはおそらく高校生以来だと思うが、なんて美しい言葉の連なりなのかと驚いた。まるで現実離れしていて、ちょうどあのジョン・レノンの「イマジン」を聞いたときと同じ気持ちになる。</p>
<p>　しかし劇はなかなか展開しない。女が出てきても、向き合い、微笑み、距離を変えても、何らかの二人の関係に大きな変化は起こらない。それが狙いだとしても退屈だ。これで分かったと思ったか、３０分もたたないのに観客の中のひと組のカップルが立ち上がり、観客席から外へ出て行った。登場人物が増え、最後にはすべての人物が手拍子を打ちながら微笑み、日本国憲法の朗読が音楽なしで、いつしか歌に変わっている。</p>
<p>　これが小嶋が説明する、「現実ではなく、理想を描いた」ということなのだろうが、演劇作品としてはもっと何かできなかっただろうかと思わずにおれない。たとえば他人の戯曲をそのまま使い、発声と動きを極限にまで制御し、別の現実を作る三浦基だったら全く別の舞台を作るだろう。</p>
<p>　劇自体の物足りなさとは別の次元で、演出家の意図した以上の効果を上げていたことがある。それは劇が行われた部屋の外に面した戸を開け払っていたことだ。これ自体は演劇の終わり方の手法として頻繁ではないが見られる手法だ。いわゆる日本庭園の「借景」と呼ばれるものと同じで、外の眺めを庭の眺めと連続させる手法である。</p>
<p>　例えば、太田省吾も昔、劇の最後で舞台背後の戸が開けっ放しになり東京の住宅街が広がる演出をしたことがあるし、今も毎年続けられている唐十郎の劇の最後は必ず背後の戸が払われ外に主人公が出て行く。劇場内の虚構の時間が現実の時間へと接続されていることを示す瞬間である。</p>
<p>　この劇の演出家がどこまでこの効果を考えて演出したのかは分からない。近所の犬の吠える声が劇の間中聞こえ、劇の妨げになると同時に外には劇と違った「現実」の時間が流れていることを常に観客に意識させる。もう暗くなっており、中に開いているのはカフェだけで他も催し物もない筈なのに、芸術センターに入るために通り過ぎていく人が絶えない。彼らは最初、部屋の中の方を見るが、まるで無関心であるかのように通り過ぎていく。</p>
<p>　演劇も、日本国憲法も、慌ただしく過ぎていく日常の中では意識されず忘れられている。自分の意志でチケットを買うか、手に取り文章を読む人にしか作用を及ぼさない。しかし目には見えなくても、演劇も憲法もその日常のど真ん中にある。それをこの「日本国憲法」という劇は伝えることに成功している。　（番場　寛）</p>
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			<media:title type="html">bhiroshi</media:title>
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	</item>
		<item>
		<title>「コールセンターの恋人」（朝日放送）の最終回</title>
		<link>http://otaniis.wordpress.com/2009/09/30/%e3%80%8c%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%82%bb%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%81%ae%e6%81%8b%e4%ba%ba%e3%80%8d%ef%bc%88%e6%9c%9d%e6%97%a5%e6%94%be%e9%80%81%ef%bc%89%e3%81%ae%e6%9c%80%e7%b5%82%e5%9b%9e/</link>
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		<pubDate>Wed, 30 Sep 2009 00:47:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>bhiroshi</dc:creator>
				<category><![CDATA[Uncategorized]]></category>
		<category><![CDATA[雑感]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://otaniis.wordpress.com/?p=465</guid>
		<description><![CDATA[  今回フランスにいるとき日本に帰ってそれを見ることを楽しみにしていた「コールセンターの恋人」という連続ドラマ（現在はYou Tubeで見ることができます）が終わった。
　それはテレビショッピングの客の苦情を処理する目的で設置されたコールセンターが舞台だ。小泉孝太郎演ずる都倉渉は、仕事のミスからそのコールセンターに飛ばされる。くさりながらもそこで成果を上げて本社に戻れることを夢見て働くわけだが、毎回、その回ごとに紹介される新商品を買った客からそのコールセンターに届くクレームに対応するのはその彼だ。
　ただひたすら謝るだけで逆に客を怒らせてしまうこともある彼を、冷静な分析と適切な対応で救うのが、ミムラ演ずる青山響子（アオキョウと呼ばれている）だ。他の登場人物と同様、彼女も極端なまでに個性化された人物として演出されている。いつも黒い服装をしていて横に爆発したようなパーマをかけた髪をしている。なによりも不思議なのは、いつも水道の水を入れた大きな黄色い水筒を持参し、契約社員なのに夜、そのセンターに寝泊まりして２４時間、客からかかってくるクレームの電話に対応することだ。
　極端なまでに誇張され類型化された殆どすべての登場人物像は放映を重ねても殆ど変化しない。テレビショッピングで商品を派手に紹介する名取裕子演ずる南極アイスという名は、それを必要としない客にも欲望をかきたて買わせようという、テレビショッピングの本質をおかしいまでに表している。
　最終回でそのアオキョウの全ての謎が明らかになる。幼い頃父親に連れられて旅を続ける時、父親は飲食店に詐欺をしてクレームをつけることで糧を得ていた。いつか父親が電話でクレームを言ってくるのではないかという可能性に期待して彼女はコールセンターで働いていたのでは？という推測がなされる。そんなときある町の福引で当たった３等の景品が黄色い水筒であり、父親はそれに水道の水を入れ彼女の方にかけ、よかったと頭を撫でてくれた思い出の品である（彼女にとってそれは父親のファルスとも言える）。
　感動的なのは、犯罪者の娘であることが皆に知られ、迷惑をかけることを恐れ置手紙を置いて失踪したアオキョウが、やがて父親の死を知らされ、ぼろぼろになったときふと自分が働いていたコールセンターに真夜中に電話するシーンである。電話に出るのはアオキョウに代わってそこに寝泊まりしていた都倉である。この連続ドラマのすべてはこのシーンのためにあると言っても言い過ぎではない。
　都倉がアオキョウをモデルにして書いて出版した『クレームの女王』が成功したことでテレビに出演した都倉は番組中に彼女に戻るよう呼び掛けたことに対し、「苦情です。テレビで人の名を呼ばないでください」と青山は鼻をつまんで電話口で言う。それに対して都倉の言った言葉はそれだけを取り上げたらいかにも説教じみた、いわゆるくさい台詞なのだが、それまで連続してこのドラマを見た人、とくに数回前のシーン、都倉が自分の客への対応のミスで仕事がらみで再会した昔の友人を救うことができず、本社にいる恋人にもふられてしまってぼろぼろになって絶望した彼が、ふと例のコールセンターに真夜中に電話したときにアオキョウが答えた台詞を、今度は職場を去らねばならないまでに追い詰められ、しかも長年探し求めていた父親が死んだことを告げられ、打ちひしがれて電話をかけたアオキョウに、同じ内容を返す。
　これはまるでラカン言っている「主体は自分のメッセージを＜他者Autre＞から逆向きに受け取る」をそのまま映像化したものにも思える。
   「そこに水筒があるでしょう、その水を飲んでみてください」と言う都倉の指示に従ったアオキョウは「しょっぱいです」と答える。それに対し「ある人が教えてくれたんです。人生はペットボトルの水ではありません。思い通りにならない人生を生き続けてください」と、都倉は自分が前にそのアオキョウから言われた同じ言葉を繰り返す。それに胸を打たれたアオキョウはゆっくりと自分で自分の頭を撫で、泣きじゃくる。つまりかつて自分が電話で都倉を慰めた言葉が今度は、幼い頃頭を撫でてくれた父親と同じくらい自分を慰めたのだ。
   驚かされたのは会話だけではない。アオキョウが真夜中に電話しているとき、公園のジャングルジムか何かの遊具が背景に映し出されるが、その遊具がはっきりと分かるように黄色に塗られているのが強調されている映像である。それはアオキョウの大切にしている水筒の色であるばかりでなく、コールセンターの職員が着ている作業服の色でもあったことに気づかされる。
   つまり都倉が悟ったように、コールセンターに苦情を言う人は、もっとよりよく生きたいという願望をクレームという形で表しているのだとしたなら、その黄色はその苦情という形で求めている電話口にいる人へのコールセンターで答える人の思いやりの隠喩でもあったのだ。
   エンディングは、アオキョウが都倉のおかげで職場に戻ったときにかかってきたシュウマイが一個たりないというクレームに、アオキョウが的確に対応するシーンである。彼女の対応で、結局足りなかったシュウマイは蓋の裏にくっついていたことが分かる。
   なんて粋な終わり方だろう。教えているのだ。つまり、欠けているものは目に見えないが、つねにそこにあるのだと。（番場　寛）
       <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=otaniis.wordpress.com&blog=5650236&post=465&subd=otaniis&ref=&feed=1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class='snap_preview'><br /><p>  今回フランスにいるとき日本に帰ってそれを見ることを楽しみにしていた「コールセンターの恋人」という連続ドラマ（現在はYou Tubeで見ることができます）が終わった。</p>
<p>　それはテレビショッピングの客の苦情を処理する目的で設置されたコールセンターが舞台だ。小泉孝太郎演ずる都倉渉は、仕事のミスからそのコールセンターに飛ばされる。くさりながらもそこで成果を上げて本社に戻れることを夢見て働くわけだが、毎回、その回ごとに紹介される新商品を買った客からそのコールセンターに届くクレームに対応するのはその彼だ。</p>
<p>　ただひたすら謝るだけで逆に客を怒らせてしまうこともある彼を、冷静な分析と適切な対応で救うのが、ミムラ演ずる青山響子（アオキョウと呼ばれている）だ。他の登場人物と同様、彼女も極端なまでに個性化された人物として演出されている。いつも黒い服装をしていて横に爆発したようなパーマをかけた髪をしている。なによりも不思議なのは、いつも水道の水を入れた大きな黄色い水筒を持参し、契約社員なのに夜、そのセンターに寝泊まりして２４時間、客からかかってくるクレームの電話に対応することだ。</p>
<p>　極端なまでに誇張され類型化された殆どすべての登場人物像は放映を重ねても殆ど変化しない。テレビショッピングで商品を派手に紹介する名取裕子演ずる南極アイスという名は、それを必要としない客にも欲望をかきたて買わせようという、テレビショッピングの本質をおかしいまでに表している。</p>
<p>　最終回でそのアオキョウの全ての謎が明らかになる。幼い頃父親に連れられて旅を続ける時、父親は飲食店に詐欺をしてクレームをつけることで糧を得ていた。いつか父親が電話でクレームを言ってくるのではないかという可能性に期待して彼女はコールセンターで働いていたのでは？という推測がなされる。そんなときある町の福引で当たった３等の景品が黄色い水筒であり、父親はそれに水道の水を入れ彼女の方にかけ、よかったと頭を撫でてくれた思い出の品である（彼女にとってそれは父親のファルスとも言える）。</p>
<p>　感動的なのは、犯罪者の娘であることが皆に知られ、迷惑をかけることを恐れ置手紙を置いて失踪したアオキョウが、やがて父親の死を知らされ、ぼろぼろになったときふと自分が働いていたコールセンターに真夜中に電話するシーンである。電話に出るのはアオキョウに代わってそこに寝泊まりしていた都倉である。この連続ドラマのすべてはこのシーンのためにあると言っても言い過ぎではない。</p>
<p>　都倉がアオキョウをモデルにして書いて出版した『クレームの女王』が成功したことでテレビに出演した都倉は番組中に彼女に戻るよう呼び掛けたことに対し、「苦情です。テレビで人の名を呼ばないでください」と青山は鼻をつまんで電話口で言う。それに対して都倉の言った言葉はそれだけを取り上げたらいかにも説教じみた、いわゆるくさい台詞なのだが、それまで連続してこのドラマを見た人、とくに数回前のシーン、都倉が自分の客への対応のミスで仕事がらみで再会した昔の友人を救うことができず、本社にいる恋人にもふられてしまってぼろぼろになって絶望した彼が、ふと例のコールセンターに真夜中に電話したときにアオキョウが答えた台詞を、今度は職場を去らねばならないまでに追い詰められ、しかも長年探し求めていた父親が死んだことを告げられ、打ちひしがれて電話をかけたアオキョウに、同じ内容を返す。</p>
<p>　これはまるでラカン言っている「主体は自分のメッセージを＜他者Autre＞から逆向きに受け取る」をそのまま映像化したものにも思える。</p>
<p>   「そこに水筒があるでしょう、その水を飲んでみてください」と言う都倉の指示に従ったアオキョウは「しょっぱいです」と答える。それに対し「ある人が教えてくれたんです。人生はペットボトルの水ではありません。思い通りにならない人生を生き続けてください」と、都倉は自分が前にそのアオキョウから言われた同じ言葉を繰り返す。それに胸を打たれたアオキョウはゆっくりと自分で自分の頭を撫で、泣きじゃくる。つまりかつて自分が電話で都倉を慰めた言葉が今度は、幼い頃頭を撫でてくれた父親と同じくらい自分を慰めたのだ。</p>
<p>   驚かされたのは会話だけではない。アオキョウが真夜中に電話しているとき、公園のジャングルジムか何かの遊具が背景に映し出されるが、その遊具がはっきりと分かるように黄色に塗られているのが強調されている映像である。それはアオキョウの大切にしている水筒の色であるばかりでなく、コールセンターの職員が着ている作業服の色でもあったことに気づかされる。</p>
<p>   つまり都倉が悟ったように、コールセンターに苦情を言う人は、もっとよりよく生きたいという願望をクレームという形で表しているのだとしたなら、その黄色はその苦情という形で求めている電話口にいる人へのコールセンターで答える人の思いやりの隠喩でもあったのだ。</p>
<p>   エンディングは、アオキョウが都倉のおかげで職場に戻ったときにかかってきたシュウマイが一個たりないというクレームに、アオキョウが的確に対応するシーンである。彼女の対応で、結局足りなかったシュウマイは蓋の裏にくっついていたことが分かる。</p>
<p>   なんて粋な終わり方だろう。教えているのだ。つまり、欠けているものは目に見えないが、つねにそこにあるのだと。（番場　寛）</p>
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