「悲しけりゃ、ここでお泣ーきよ…」著作権のことがよく分からないのでこれ以上書けないが、ふと「失恋レストラン」という歌を口ずさむことがある。落ち込んだときにそこにいくだけで慰められるレストランがあればいいのにと思う。
パリでは(も)一人で食べることが多く適当なレストランを探すのに苦労する。うっかり一人でまともなフランス料理のレストランに入ってしまい出てくる料理と料理の間に耐えきれない思いをすることもある。6・7年前に一年間住んだとき以来、とにかく料理を待つ時間が惜しいことと、それほど食事にお金をかけたくないという理由でもっぱらあるレストランに通う。
大学では、フランスの社会や文化を紹介し、それについて考える授業をする機会が多い。学生には、フランス料理に関する関心を抱いて、そこからフランスという国とその文化に興味を持つ者が多い。
それで授業で使う映画でも、大勢で食べているシーンにフランスの社会情勢や国民性が現れる『パリのレストラン』や、「舌の快楽」を追求するカトリック教徒と「舌は神を賛美するためだけにある」ともっぱらその食の快楽を禁じる敬虔なプロテスタント教徒との葛藤を描いた『バベットの晩餐会』という映画を教材として使うことがある。前者では和気あいあいとおしゃべりしながら、後者では沈黙のうちに食べ続けるという点で対照的だが、どちらも映画を観た学生のコメントにはよだれが出そうだというものが目立つ。
しかし、ぼくがパリに行くと実際によく通うレストランは、パリの3区、Arts et Métiers(技術と職業という意味。近くにある工芸学校の名からつけられた)という地下鉄の駅を出て、ポンピドゥーセンターの方向に10メートルほど歩いたところの路地を入ってすぐのところにある中国料理のレストランである。
その地域はパリに何カ所かある中華街の一つで、その路地には中国人の経営する小さなスーパーや理髪店を始め、レストランも数件あるが、そのレストランだけがなぜかいつも人で溢れている。そのため一人で入っても大抵、細長いテーブルに会い席で座ることになる。
驚くのはどの料理もおいしくてしかも待つ時間が短いことである。殆どが炒めるか、蒸すかで調味料がよいのか分からないが注文してから10分程度でできてくるのには驚かされる。夜遅くまで開いているのでポンピドゥーセンターの横の映画館で観た帰りには助かる。住まいのある人はショーケースに並べられたものから選び、ご飯と一緒に発砲スチロールの容器に入れてもらって買っていく人も多い。
しかしなぜそこに通ってしまうのかというと、味や安さや待ち時間の少なさのせいばかりではない。店内は明るく、客の活気が満ちている。2人以上で食べている者は会い席でいる一人の客のことなど気にせず、大声で話す。フランス人の中国人が多く、ぼくはいつも中国語で話しかけられる。3人連れで親が幼い子の口に箸で料理を運んでやっている光景にも出会う。 一人で食べているのに大勢で一緒に食べているような気になってくる。
店内は多くの人種、様々な年齢層の客で溢れ、一人者を含むあらゆる組み合わせの連れがいる。あるとき中年のフランス人らしき男が、匂い立つように官能的な若い娘と食べていた。こんなところで一緒に食べるのだから親子だろうと思い、会話に耳を傾けるとどうも恋人同士なのだ。うらやましくてならなかった。
日本でも一人でレストランで食べる機会が多いのだが、なぜか一人で黙っている他人が悲しそうに見える。二人で食べているカップルもひそひそ話していてそんなに楽しそうに見えない。
確かにフランスで食べる、フォアグラもエスカルゴもカモのオレンジソース煮もとても美味しい。授業でフランス料理について説明するぼくが、あの例のレストランで食べる、ただチンゲンサイを油で炒めたものをご飯に添えただけのものlégume vert sauté avec du rizやナスaubergineの油炒めを恋しがっているのを知ったら学生は失望するだろうか?
レストランrestaurantの語源は「元気を回復させる」という意味のrestaurerという動詞から来ていると聞いている。ぼくにとってはあの明るく、活気で満ちているレストランが今でも理想のレストランなのだ。(番場 寛)
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