ケン・ローチ監督「この自由な世界で」を見て

 先入観なしにこの映画を見たのだが、派遣切りや大企業の人員削減のニュースが新聞の一面を飾る日常にあまりに重なる映画だと思った。

息子を両親に預けて働く33歳のシングル・マザーであるアンジーは、ロンドンの移民に労働を斡旋する事務所で働いていたが、上司にたてついたことで首になってしまう。考えた末、友人と一緒に自分たちで、移民に日雇いの仕事を斡旋する事務所を開く。最初は無許可で始める。仕事が軌道に乗りかけたかに思われたとき、手形が不渡りになり、労働者たちに賃金を払えなくなり、それを機に彼女たちは移民労働者たちの暴力と威嚇にさらされることになる。見ていない人のためにこれ以上の粗筋は控えるが、タイトルの「この自由な世界で」が問題なのだ。「仕事をくれ」と求める者に対し、与えることのできる立場の者は圧倒的に優位な立場におり、そこに「搾取」が生まれる。搾取される立場だったアンジーが仕事を進める中で搾取する立場に変化していく姿を冷酷ともいえるカメラでとらえている。息子を守るために、威嚇、要求された賃金を払うためにウクライナに飛び、不法労働の手助けをしてお金を得ようとするシーンでは思わず涙がこぼれてしまった。

 ケン・ローチは加害者や悪人が明確な世界ではなく、悪いこと、卑劣なことを分かっていながらもやらざるを得ない状況に追い込まれていく人間を描く。

 最初は労働許可証を持っていないという理由で追い払ったイラン人の男を偶然見かけ、子供を抱えて隠れ住む現状を知ったときアンジーは自分の家に彼らを呼び食べ物を与える。友人が彼女に忠告するように、それは何千人といる人の中のほんの一部をきまぐれに救おうとすることでしかない。現に自分に舞い込んだ仕事に必要な労働者を確保するために、移民たちが隠れ住んでいる住まいから追い払おうと電話で当局に密告までしてしまう。優しい心を持った人でもこれほどまでに残酷になれるのだ。

 

大企業の15千人削減という数に驚くべきではない。もしたった一人削減だとしても、その人には食べ物や住まいが必要だし、家族だっているのだ。もし次の仕事が見つからなければ映画の登場人物たちのようにさ迷わなくてはならない。数にではなく、一人への想像力を禁じるのがこの「自由な世界」なのだろうか? 

 

就職活動を始めたぼくのクラスの学生たちも厳しい現実に向かっていることだろう。映画のなかの「仕事をくれ」をいう悲痛な叫びを聞くといたたまれなくなる。世の中にある仕事とは「椅子取りゲーム」の椅子のように数が限られているのだろうか。そうではなく、「介護」のように必要とされている仕事の賃金が十分補償されていないことが問題なのだ。

 

心につきささるようなこの映画を見ていると「希望」なんてないかに思えるかもしれない。でも違う、映画では「お金」の関係を離れた移民の青年とアンジーの関係をも描かれているし、何よりもこの映画がイギリスで造られ、世界で多くの賞を受賞していることが「希望」の証だろう。

 

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