園 子温 監督『愛のむきだし』(「京都みなみ会館」にて)を見て

  博士号を取得されたお二人、本当におめでとうございます。

本日41日は大谷大学の入学式であり、新たな気持ちで新生活をスタートする新入生の皆さんを迎える日にこんなブログを披露しますが、4月馬鹿だと思って許してください。

 

インターネットや新聞を見ていると、教員を始めとする、驚かせるような仕事や地位についている人が盗撮で逮捕されたというニュースを目にする機会が多く、あきれてしまう。フロイトの「フェティシズム」という論文に書かれていることを受け入れるとしたなら、男性が女性の下着に魅惑を感じてしまうのは、幼い頃に見た「母親に不在の・・・」に起因する去勢不安によるからだ。

 

この映画の予告編でも紹介されているアクロバット的な盗撮シーンだけをもし女性が見たら、キモイとかヘンタイとか言って映画館から飛び出してしまうかもしれない。すぐ後ろに座っていた女性の二人連れが「面白かったね」と言っているのを聞いて安心した。

 

しかし、これは「盗撮」という男性の禁断の願望を描いた映画でありながら、エンターティンメントには治まりきれない、まるでルイス・ブニュエルの映画のように恐ろしいまでに重いテーマを追求した映画なのだ(映画の最後の方で映し出される家族が大きな傾いた十字架を背負っているシーンは、確かブニュエルの『銀河』か他の映画で見た記憶がある)。

 そのテーマとは、今なお追及し続けられているテーマ、「オウム真理教」の事件が世の中に提示した「宗教」と「性」と「家族」と「洗脳」の問題である。

 

主人公のユウは幼い頃母と死別し、カトリックの神父である父は妻の死後、人が変ったように恐ろしく厳格になり、息子に毎日告解室でその日犯した罪を告白するようにと迫る。純真な息子は父親に好かれたい一心から必死になって告白するための罪を犯しているうちに、ひょんなことから女子のスカートの中を盗撮することを思いつき、その技術に熟練してしまう。

 

盗撮をする主人公は自分をヘンタイと説明しているが、本人はその行為にまったく性的な欲望も興奮も感じず、ただ罪を告白し父親に心から罰してもらいたいという願いからのみまるで苦行僧のように盗撮を繰り返す点で、真の変態と呼べるかもしれない。

 

 死の前に母親から大きくなったらこのマリア様のような人と結婚するようにと渡された像を大切にして生活していた主人公の前に、現れたのが当時は母親の男の性的虐待に起因するすさんだ生活をしていたヨーコである。ユウが仲間たちとの罰ゲームで女装したまま暴漢から彼女を救ったときに、彼にはヨーコはまさしくそのマリア様と映り、一瞬のうちに恋に落ち、初めて性的な欲望を感じてしまう。同時に彼女も恋に落ちてしまうが、その相手はユウが女装したサソリという名の女性であった。

 

この関係を複雑にしていくのは、ユウの父親に恋をし、籠絡し彼と再婚しようと願い一緒に住むことになった女性の連れ子がそのヨーコだったという事実である。

 

その歪んでいるとはいえ敬虔なカトリックの家庭を自らの教団へ改宗させようと狙う新興宗教の「ゼロ教団」(メンバーは0という字を胸につけている。これはオーとも読め、「オウム真理教」への暗示が窺える)である。ヨーコが恋しているサソリになりすまし、その家庭に潜り込み、家族まるごと教団に引きずり込むことに成功するその教団の女の胸元からは何度も小鳥のオウムが出てきて、オウム真理教団の事件に触発された映画であることを語呂合わせ的に示している。

 

ここから先の筋は、映画を見ようとしている人から喜びを奪わないため書かないが、衝撃的なシーンを一つだけ書かせてもらいたい。それは洗脳された家族からヨーコを奪回すべく「ゼロ教団」の本部に忍び込んだユウの目に飛び込んできた光景である。映画の観客も、主体性を奪われて奴隷のようになって修行する家族を想像してしまうが、そこにいたのは、「家族だけはまっぴら」と言っていた筈のヨーコを含む、畳の部屋で鍋を囲んで幸せそうに笑い合っている洗脳者とユウの家族であった。

 

この映画が今もぼくの頭の中で終わらないのはこのシーンのせいだ。「経済」は勿論だが、何よりも「愛」と「性」でなりたっていることを疑わない「家族」が外部の誰かによって操作されて出来上がっている虚構だとしたら、その「愛」や「性」は何だろう? わたしたちが自ら主体的に選び取っているつもりの「家族」さえ、誰かによって知らないうちに設定されたものだとしたなら・・・

 

映画の最後の方で、最初ヨーコが、そして後にユウが愛の崇高さを讃えた「コリント人への手紙―13章」を朗読する。ともに相手のパラダイムから救い出そうとするユウとヨーコの姿こそが「むきだし」になった「愛」なのだろうか? 

J.ラカンは「愛するとはおのれの持ってないものを相手に与えることである。相手がそれを望まないのに」と美しく謎めいている定義を残している。自分にないものは相手に与えることはできない。しかし人は誰かを愛したとき、自分が本当は持っていないものさえ与えてしまいたいと思うということなのだろうか?

この『愛のむきだし』を見て思うのはその「愛の不可能性」、「愛の不条理」である。 

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