「所有欲」から自由になった恋愛は存在し得るか?-鹿島田真希『ゼロの王国』を読んで-

   何歳くらいのことだろう。人を好きになった喜びは、必ず痛みを伴うことを人は知る。喜びだけを保持することはできないのだろうか? そのためには「所有」という欲望さえあきらめることさえできれば、つまりその好きな人はだれのものでもないと心の底から思えたらどんなに幸せなことだろう? 

 鹿島田真希の小説は全部読んでいるわけではない。それでも気がつくと雑誌の目次に彼女の名前を見つけるとその号を買っている自分に気がつくようになった。そうなったのは何といっても『ナンバーワン・コンストラクション』とそれに続く『ピカルディーの三度』を読んでからだ。二つの小説では「愛」とか「犠牲」とか一昔前の劇の台詞のような会話が饒舌的に交わされるのだが、読んでいるとまるで難しい方程式を解いていくめくるめく手さばきをみせつけられているかのような気がしたものだ。

 最近単行本で発売された『ゼロの王国』を読みながら、最近何年かぶりで会った女性(30代、独身)が言っていた言葉を思い出した。彼女は自分の好きな人が他の女性と楽しく過ごしているとしてもそれを喜んであげたいと言う。なぜなら人を所有することも独占することもできないからだと言う。 

この小説の主人公、吉田青年も、「人は所有するところから、不幸が始まるのです。なにかを所有しているつもりの人は、そのなにかに心を奪われているのです。だから僕は、いつエリさんが自分のものでなくなってしまうのか、びくびくしてはいけないのです。それは、自由でない状態なのですから」と言う。

しかし問題は吉田青年のように、独占欲も嫉妬心もなく人を愛したときそれは恋愛と呼べるのだろうかという点である。現に吉田青年に惹かれる二人の女性は「あなたは女性を愛するということがわかってない」となじる。例のぼくが最近会った女性も、「ではあなたの好きな人が別の女性と親密な関係になっても平気でいられるのか?」という質問には黙ってしまった。 

  今まで読んだ性愛を描いた現代小説で、最も感動させられたのは、高樹のぶ子の『透光の樹』である。その小説の最後では恋人を亡くして気のふれた主人公の女性が、自分の右耳を撫でるようにしながら、かつての恋人が自分を愛撫しながら言った言葉「あなたのこの右耳は、僕の耳・・・・・右の乳房は僕の右胸・・・・・」を繰り返す。最高の享楽を「所有」ということで恋人に同一化して発せられた台詞なのだ。その気のふれた母親を見ながら、世間的には幸福な結婚をした娘は、羨望のような感情に襲われ、「自分とは無縁の、自分には一生味わえそうもない大きな幸福を、その毀れかけた体に閉じ込めているような気」がするのである。

人を愛することの中でも「恋愛」の喜びの究極の姿が「所有」だとしたならそれを取り除いた「恋愛」は存在し得るのだろうか? 

   611頁にもわたる「愛」と「恋愛」と「結婚」と「労働」を巡る『ゼロの王国』はその問題を追求する巨大な思考実験であり、読者をあり得ない世界へと導いてくれる。 (番場 寛)

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「所有欲」から自由になった恋愛は存在し得るか?-鹿島田真希『ゼロの王国』を読んで-」への1件のフィードバック

  1. htiger

    私は、所有欲や独占欲や嫉妬心の全くないものは恋愛ではないのではないかと思いました。なぜなら、ある特定の異性に対して、そういった感情が生まれるということが恋愛だと思うからです。特に両想いの場合、彼氏と彼女の関係とお互いに認めた時点で、相手に対する所有欲が発生していると言えるのではないでしょうか。また、その相手を他の人にそういう風に紹介し認めさせることによって、好きな異性を束縛し、行動を制限しようとすることが独占欲にもつながり、そうすることで相手は自分のものだと再確認し、一種の安心感を得ようとすることが恋愛なのではないかと私は思いました。
    あくまでこれは、所有欲とかのない恋愛とはなにかを自分なりに考えて出た答えです。

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