まだ見ていない映画、是枝裕和監督「空気人形」についての映画評

  最近困るのは、見たい映画の前に流される別の映画の予告篇である。本篇を見ていないのにかなりの部分が分かったような気がしてしまう。「空気人形」はまだ見ていないが、予告篇を一回見てしまった。そしてすっかり惹きつけられイメージが膨らんで抑えることができない。

 画面にペ・ドゥナがメイドの服装ですっくと立ち、「わたしは心を持たない空気人形」と言う。それから別の場面に変わり「それなのに恋を知ってしまったのです」と言い、その人形を性の道具として愛玩していたと思われる男が「帰ってくれ」と叫ぶ(実際の台詞は映画館で確認してください)。

  これを見て「ラースと、その彼女」という映画を思い出した。まじめな好青年で彼に関心を寄せる女性もいるのに彼自身は女性に興味を抱かず、兄夫婦が心配していた。そんなラースが突然彼らの前に「彼女だ」と連れてきたのは通販で取り寄せたダッチワイフだった。

  兄夫婦は当惑しながらも弟の気持ちを尊重し受け入れていく。次第にその輪は広がりラースの周りの人たちもその幻想を受け入れていく。人形は無表情なのにラースによって服をさまざまに着せかえられ話しかけられることにより生きている娘のようにラースと周りの人たちの生活を豊かにしていく。それを見ているとまるでラース自身が周りの人たちの愛情を具現している人形のようにも見えてくる。

  「人形」が主題の作品を見るたびに思い出す別の映画がある。もう20年近く前にフランスで見たもので確かタイトルは「I love you」だったと思う。若い男が偶然、舞踏会のマスクのような顔だけのキーホルダーを拾う。持ち帰り、ボタンを操作すると、I love youと言う。不思議なことに他の人が操作しても黙ったままで、彼にだけそう言うのだ。彼はすっかり気に入りそのキーホルダーを愛でる。

 ところがある日、彼以外にキーホルダーにI love youと言わせることのできる男がいることを彼は発見してしまう。彼は狂ったように怒り、そのキーホルダーを叩き潰してしまう。

  そう、能面が見る人の気持ちで表情を変えるように、すべては見る者の想像力の産物なのだ。これらの作品を見ていて怖くなるのは、人形ではない生身の人間に対しても恋や愛情を捧げるとき、人はこれと同じことをしているのではないかとさえ思えてくるからだ。

  「ラカンが言うように『性関係はない』のです。だからこそ文学作品が書かれるのです」パリ第8大学のマリ=エレーヌ・ブルス先生の言った言葉が思い出される。

  もし人形が心を持ち、主人の思いを無視して別の人に恋をしてしまったなら… 秋葉原で「お帰りなさいませ」と笑顔を振りまくメイド喫茶の少女たちとは違い、予告篇で見た、無表情であるがゆえに見る者の愛をかき立てるメイドの服装をしたペ・ドゥナが美しい。9月の公開が待ち遠しい。(番場 寛)

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