シャネルと本谷有希子

     先に見た友人が、自分にとってはつまらなかったと言っていたが、授業でモードも扱っているのでクリチャン・デュゲイ監督「ココ・シャネル」を見てきた。映画はココ・シャネルについての新しい見方、視点を提示するものではなく、すでに知られている数多くのエピソードから父親に孤児院に置き去り同然に預けられてから愛に飢えていたシャネルが経験した二つの恋愛に焦点を絞り、展開していく。

  一度目のカムバックのショーの大失敗で、二度目のショーを禁じられたのを振り切り奇跡的な大成功を収める流れを現在と設定し、随所に回想する過去が流れるという作りがされており、オーソドックスな映画だと思った。本物のシャネルの作品を何点も見られた以外は何かを発見したという映画ではなかった。  

  映画館は年配の女性で溢れていたが、映画が始まると私語は消え、部屋全体が感動しているのが伝わってきた。これはありふれたサクセスストーリーなのになぜこれほど人を惹きつけるのだろうか?

  2度目のショーを阻止しようとするビジネス相手の助言を「私はシャネルよ」とはねつけ果敢にショーを成功させてしまう姿は傲慢なのに見ていて気持ちいい。

  映画を見た翌日大阪で本谷有希子作・演出の「来来来来来」(ライ…と読む)を見た。小説は何作読んだし、彼女の作品原作の映画(「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」)も見たが、演劇だけを見てなかった。

  ストーリー自体はとても分かりやすい。ある家庭の長男と結婚した女性が、長男の失踪後まるで人質のようにこきつかわれるという設定である。なぜ逃げないのかという問いかけにも「逃げるのではなく、乗り越えたい」と答え、イジメにも似た扱いにも耐える。

  劇場は満員で、今話題の本谷とはいえ、改めて彼女の魅力とは何かと考えた。何よりもデビュー当時世間を驚かせたのは「劇団本谷有紀子」という名で旗揚げしたことだ。強烈な自己顕示欲は「わたしはシャネルよ」と言い、自己ブランドのマークにココの頭文字を使ったシャネルと同じだ。

  過剰に感情をむき出しにした登場人物の本谷の演出に注意し、台詞に耳を傾けていると多くの人を惹きつける秘密の一部が分かるような気がしてくる。

  確かに舞台で演じられる行為は常軌を逸しているが、それらはわたしたちが日常誰でもが感じているが、敢えて言葉にしなかったり、行動に表さなかったりすることだ。本谷は普通の人の感情を分析し、それをまるで電子顕微鏡で拡大するかのように見せてくれる。

  たとえば、あれほどいじめられていた姑(昔、劇団「青い鳥」で活躍していた木野花さんが演じていて嬉しい)が認知症になったとき、頭を撫でられたことで自分をよくやったと初めて認められたと思い、彼女を連れてそこから脱出する決心をするところは、誰でもが持っている自分を認めてもらいたいという感情とは、それほど強いのかと感動させる。(小劇場の先輩、木野に頭をなでてもらうという演出は無意識的なものなのか?)

  唯一主人公の味方の女子高生が言う。「努力してないと生きている実感がないなんて言わないでよ(…)わたし蓉子ちゃんのことが好きなのか嫌いなのか分からなくなった。好きと嫌いは似ている」(覚えているまま)

  彼女の人気の秘密はだれでもが感じるがそれを認めたくない、強く惹かれる他者への愛と憎しみの感情が強く絡み合っている様をむき出しに見せてくれるからだ。 それは誰でもが美しいと感じるが、自分では気づかない「色」「形」「手触り」を「わたしはシャネルよ」と言って、組み合わせて見せてくれるシャネルと共通している。

  終演後、俳優たちと一緒に舞台に立った本谷は細く、どこからこんな過激な世界を生みだすのかと思わせるような美少女(?)だった。(番場 寛)

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