「国際ラカン協会」の夏のセミナーに参加して

   「もう勘弁して」耳と頭が悲鳴を上げている。出発前は、どの程度理解できるだろうか不安だった。3年前の同じ「国際ラカン協会」の「精神分析的行為」という講義録対象の夏のセミナーに参加した時は絶望的に分からなかったので、今回はできるかぎり準備したつもりだった。セミナーで扱うラカンの講義録のうちまだ読み終えてなかった2つを読んだし、ホームページで公開されている関係する過去のセミナーで発表された内容を飛行機の中でもまだ読んでいた。

 それなのにやはり分からない。発表者はゆっくりと明瞭に発声しているので単語が分節されないというより、知らない単語、言い回し、レトリックがあるのだろう。自分の体の不安もあったし、遠く離れて住んでいる母親も行かないでくれと言われたのに来たのだ。必死で耳を傾けた。

 それでも分からない。聞き取れる部分はぞくぞくするほど面白いところを語っているのに分からない部分が多いことが悔しい。しかし異なった発表者の言葉に耳を傾けていると同じ言葉と概念が何度も繰り返されていることが分かってくる。

lettreという言葉には「手紙」と「文字」という意味があるが、シニフィアンの中でも特殊なのは、それは「パロール(ことば)」と違い、書かれたとたんに「現実的なものle réel」になってしまう点である。また日常的には何の疑問も抱かず使われている「一」という概念が実は考えれば考えるほど理解の困難な概念であり、それをラカンはYad’lUn(日本人には「宿らん」と聞こえる)という概念で表したということ。これは普通の書き言葉で文法的に正しく表せば、Il y a de l’Un(いくらかの一がある)となるがこれだけでも意味的にはかなり変な文で、ラカンが参照しているプラトンの『パルメニデス』の訳を出発前に読んでいたが、分かり難い。

 セミナーの二日後に、そこで発表したステファヌ・チビエルジュという分析家と会ったとき、「主語を省いたとしてもなぜ Y a de l’Unではなくて、Y a d’lUnなのか?」と質問した。

 チビエルジュ氏によれば、もちろん書き言葉で書けばIl y a de l’Unとなるのだが、まず話し言葉では主語が省略されたり音がくっついたりするのでそうなったということである。では、普通だったらIl y a l’Un(一がある)ではないか?という質問には、「もしそうなってしまったら「一神教」になってしまう。そうではないということを強調したいがためにラカンはこんな変な言い方をしたのだ。つまりラカンは思想を表す「言説discours」を話し言葉であえて表したのであり、言い換えれば言表に言表行為を押し込んだのだ」とチビエルジュ氏は説明してくれた。

 セミナーの二日目のプログラムに、普通プログラムとは別に、夜場所を変えカクテルパーティーを行うと書いてあったので参加した。それは、サンジェルマン大通りにあるフロイトの師であるシャルコーが昔住んだことのある「ラテンアメリカの館」というまるで博物館のように豪華な建物の中庭で行われた。「これおいしいから食べてみなさい」話しかけてきた老婦人が教えてくれた普通に見えたそのマカロンを口に入れると、少し甘みも加えてあるフォアグラが口の中一杯に広がった。不思議な信じられない味だった。

 改めて参加者を見回してみると殆どが中年、熟年、高齢者で若い人は殆どいない。セミナーの時は徐々に参加者が増え、最終的には300人くらいはいたのだが、各発表の後には司会者の注釈があり、会場に問いかけると必ず質問か、コメントを述べる人がいる。みな相手を論破するというのではなく、相手の説を受け質問というより、それに共鳴して自説を述べるという風で、みなとても幸せそうだ。

 分かったのは、結局やはりラカンは分からないということだ。たとえば、有名な様相論理記号とラカン特有の矢印を用いた男女の「性別化」の表にしても、「みな思うように、なぜ女性の側に「主体S/(Sに斜めの線を重ねてください)」がないのか分からない」とある人が言ってくれたことで、別な意味で安心した。みなそう思うのだ。だから斎藤環氏のように「ラカンによれば、人間にとって欲望の対象は常に女性になるので、男性を欲望する女性は同性愛者となる」(『関係の化学としての文学』にあった文です。手元になくて正確な引用文ではありませんが趣旨は同じです)と言う人まで出てくる。この見方をパーティーにいたB.ヴェンデルメルシュに提示したら、それは間違っているとは言ったが、ではどう解釈すべきかについては教えてくれなかった。

 ラカンの理論は理解し難い内容に満ちているが、その謎にみな共鳴して何か語らずにおれない。 思った。ラカンよ、あなたはひょっとして絶対に解けない謎をばらまいたペテン師かもしれない。でもあなたの残した謎は毎年こんなにも多くの人をその謎で結びつけ、幸せにしている。ちょうど口の中に入れたあのマカロンの味のように。(番場 寛)

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