セイの美しい「醜さ」から目をそらさないで(「空気人形」を見て)

  ようやく「空気人形」本編を見ることができ、圧倒され、今は言葉を失ったような気分だ。

 「生」を描くには「死」を対比させなくてはならず(「ワンダフルライフ」)、「人間」の本質は「人間以外のもの」たとえばロボットか人形を対比させることで浮かび上がってくるのだろう。 

 前にこのブログで、セドリック・クラピッシュの「Paris」を、「末期の目」を設定してパリを見たらどう見えるかという撮り方だと指摘した。 そういう言葉があるのかどうか知らないが、これは「生まれて初めて世を見る眼差し」でこの世を見たらどう見えるかという映画だと思う。

 その眼差しは「誰も知らない」の幼い妹のあどけなさからくる可愛らしさを引き継いでいる。「心を持ってしまった」人形(ペ・ドゥナ)が、初めて外へ出て、人の歩き方をまねて歩く動作、初めて一つ一つ言葉をたどたどしく覚えていくシーン、レンタル・ショップで純一(ARATA)のまねをしてソフトを吹くしぐさ、これらは、大人のまねをしてひとつひとつ覚えていく幼児のしぐさに似ている。

 メイドの服を初めとする衣装はすべて手脚の長いペ・ドゥナに似合っており、演出家、カメラマン、衣装、メイクとペ・ドゥナの作り上げる人形は完ぺきで、それを前にすると「可愛い」という言葉はありきたりで、恥じ入り顔を赤らめうつむいてしまうだろう。

 「わたしの体をあなたの息で満たして」と人形は頼む。空気を吹き込む行為はセックスの隠喩だと監督が説明する通り、人形と彼女が好きになった純一が裸で抱き合い、空気を抜かれた人形が、息で膨らませられて次第に顎から胸にかけてのび、せりあがっていく場面は悦びと美しさに満ちており、映画史に残ることであろう。

 しかし驚かせるのは、相手に今度は自分の息を吹き込もうとする人形が、息を吹き込む栓を相手の体に探す果てに、相手を傷つけ血まみれになり殺してしまう場面である。これは大島渚の「愛のコリーダ」(フランス語の原題L’empire des sens(感覚の王国)の方が映画の主題に忠実だと思う)の定が性交の際、吉蔵の首を絞めることで快感が増すということで、それが過ぎて吉蔵を殺してしまった後、性器を切り取ってしまうシーンを思い出させずにおれない。性愛の極限の姿は美しさを突き抜けたエゴイズムという醜さにまで行きついてしまう。

 「わしも同じだ。からっぽだ」とつぶやく老人を初め、他の登場人物もみな孤独だ。「ワタシは誰かの代用品」と繰り返す人形は、「普通の人形に戻ってくれ」と叫ぶ持ち主に対し、「なぜわたしなの?ノゾミというのは昔の彼女の名前なのでしょう?」と詰め寄る。しかし、その持ち主も職場の上司に「いやならやめてもらってもいいんだよ。お前の代わりなんていくらでもいるんだから」と言われる。人形が恋をしたレンタル・ショップの店員の純一でさえ、人形が彼にバイクに乗せてもらう時にかぶらせてもらったヘルメットは彼の昔の恋人のものだった。

 何よりも、純一と人形が働くのがレンタル・ショップであり、店長の「本当は映画はこんなんでなく映画館で見る方がいいんだけどね」と言う台詞にもあるとおり「代用品」というテーマはこの映画を貫いている。 オンリーワンである筈のわたしたちはみな、自分がこの世で代わりのいないかけがいのない存在として誰かに認められることに飢えている。

 人形が自分を作った人形師の所を訪ねていくシーンにおいて、オダギリ・ジョーが演じる人形師は、再び返却され、廃棄を待つばかりになっている人形の山を見ながら、これらを見ているとどれだけ人に愛されたか分かると言う。そして人形に言う「君が見た世界は美しくないものばかりじゃなかった筈だ」と。是枝自身は否定するがどう考えてもこの人形師は神の隠喩にしか見えない。

 殺してしまった純一を人形はごみ捨て場に置いてしまい、自身も空気を入れないまま、ごみ捨て場に横たわり、その生を終える。しかしその前に、捨てられていた空きビンをバースディケーキのロウソクのように自分の周りに並べておく。すでにいらなくなった筈の空きビンを光にかざしその美しさにみとれる人形。醜いはずのゴミも先に述べた眼差しによれば輝いて見えることに驚かされる。

 常に「誰かの代用品」として生きるわたしたちは、生きることでゴミを出し続け、やがて自身もいつか処分されてしまう。しかしそれは悲しいだけではない。「空気人形」というタイトルが風に吹かれて散っていくかのようなオープニングで始まり、その散った文字が、人形がその生を終えたとき、まるで人形の空気がタンポポの種のように世に散っていき人々の所にとどくかのようなエンディングの意図は明らかだ。

 そのタンポポの種のひとつが部屋に舞い降りたとき、そこに引き籠ってゴミの山の中で生活していた過食症の少女は初めて窓を開け、人形が生を終え、空きビンに囲まれて横たわっているごみ捨て場を見て「まあ、きれい」と声をもらす。ここを見たとき観客は改めて、人形がただの人形でなく「空気」人形であったことの意味と、吉野弘の「生命は」という詩が引用されていたわけを知る。

「誰かの代用品」としてのセイを生きる「互いに欠如を満たすなどとは/知りもせず/知らされもせずばらまかれている者同士」の私たちは、おなじような誰かに働きかけることができたとき初めてその存在の呪いから解放されるのかもしれない。

 セイ(性、生)は美しいが、とてつもなく醜くもある。その美しい「醜さ」から目をそらしてはいけない。(番場 寛)

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