ナイロン100℃「世田谷カフカ」(本多劇場)を見て

  東京へ行く機会があったのでというより、用を作ってついでにケラリーノ・サンドロヴィッチ演出の「世田谷カフカ」という劇を見てきた。休憩時間を挟んで3時間余りの舞台はあっという間に終わった。

 しかし何が今思い出せるかと振り返ると少ないことに気づく。同じ劇団の舞台では前に「カフカズ・ディック」を見た。それはカフカの生涯をなぞっているのにちゃんと誰でもが楽しめるエンターテインメントになっていることに驚いた。

 今回はカフカの「審判」と「失踪者」(「アメリカ」)と「城」との長編三部作を換骨奪胎して創り上げた脚本に基づいている。 最初はこの劇を演じる舞台俳優が、劇ではなく日常生活において経験した不条理な経験(例えば、先日初めて自分が父親の娘でないことを知り、自分の部屋で泣いていたのに、逆に姉に自分が悪いかのように言われてしまった女性の話)を客に向かって告白するのだが、それもこの全体の劇の一部だったということをやがて客は知る。次に日常で経験するカフカ的状況がコントのように演じられる。病院の待合室で待っているのになかなか呼ばれない。そのうち後から来た人の名が呼ばれ、診察室に入っていく。どうしてかと看護師を問いつめると、あなた方は名前が呼ばれてないからだめだという。それはなぜかと聞いても答えない。しまいには他人の名前を呼ばれても、入っていこうとして止められる。これはおそらく「律法(掟)の門前」をまったく違った日本の日常にあてはめたものに思えた。

 このように、日常で経験されるカフカ的世界の不条理と、カフカの三部作のいずれもKという頭文字を持つ3人の主人公が経験する不条理が交差する。さらには、カフカが自分が死んだらすべての原稿を焼くようにと指示した友人マックス・ブロートも登場する。

 しかし前の「カフカズ・ディック」と同様、これで、カフカに対する新たな視点が提示されるというのではなく、カフカ的世界が日常的に経験されることの再認である。

 劇の休憩時間に、ぼくのすぐ後ろに座っていた3人の連れの中の、この劇が難しいという女性に対し、一人が、「俺も『いつ虫になるのかとずっと見ていた』と語る劇の登場人物と同じレベルだ」と自嘲して笑わせていた。

 俳優たちがそろって白い服と白だけの仮面を身につけ、そこに映像を映し出し、顔と服の模様を映し出す技法や、登場人物が、一人でちゃぶ台の上で人形劇をやりそれをビデオカメラで実況中継して大きくスクリーンに映し出していたかと思うと、それが実況でなくあらかじめ製作していた人形の劇映画にすり替わっている技法など随所に工夫と楽しさで溢れていた。

 宮沢賢治の「雨にもマケズ・・・」の言い回しのパロディも演じられていたが、実はこれよりもずっと昔にすでに、これをパロディにした寺山修司の傑作『奴婢訓』がある。また、客席に俳優が入り込んで演じる演出も寺山の劇ではありふれていた。

 つまりこの「世田谷カフカ」は、小劇場で演じられてきた劇の総決算のような劇で、人間存在の不安をのぞかせるカフカが、エンターテインメントにもなることを鮮やかに見せてくれた。しかし見終わって今振り返っても強烈に残る印象はとぼしい。それは、以前に何度かカフカの作品を演劇化したものを見ており、今もそれはぼくの記憶の中で生き続けているからだ。それについて語るのは次回に譲りたい。(番場 寛)

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