アルモドヴァル「オール・アバウト・マイ・マザー」に見る「父-の-名」

まえにこのブログで松田正隆作(マレビトの会)の「声紋都市―父への手紙」について紹介したとき、その作品に「父-の-名」というJ.ラカンの概念が表現されていると指摘した。最近、国際文化特殊講義という授業でアルモドヴァルの映画を扱ったとき、そこにもこれが現れていることに気づいた。 
 主人公マヌエラは、シングルマザーとして一人で育ててきた大切な息子をその17歳の誕生日に目の前で起きた事故で亡くす。 それをきっかけにマヌエラは17年ぶりにバルセロナに戻るがその目的はその息子の父親にこのことを告げるためだったことがやがて分かる。衝撃的なのはその逃げるように別れた夫とは、男性の性器をとらないまま乳房をつけ性転換したロラであり、彼(彼女?)はマヌエラと別れたあとロサという若い女性を妊娠させエイズに感染させやがて死なせてしまうことである。
この映画で重要なのは、ロサが死ぬ前に生まれたばかりの自分の息子にマヌエラの息子と同じエステバンという名をつけることである。やがて分かるのであるが、その名は二人の女性の夫の名、つまりその息子の父親の名でもあった。
 ここで困ってしまった。授業ではエディプス期における主体の母親との関係をラカンの「父性隠喩」と呼ばれるつぎのような定式を紹介して説明したのである。
 
父-の-名(Nom-du-père) 母の欲望         →父-の-名( A   )
母の欲望        主体にとってのシニフィエ           ファルス
 
つまり子にとって自分は母親の欲望の対象だという思いは「父-の-名」の出現により挫折させられる(言い換えれば、自分は母親の想像的ファルスでもなければ、それを持ってもいないということを思い知らされる)。しかしそれにより自らもやがて象徴的ファルスを持つことができるようになるのである。
 授業ではこの定式で示される「父-の-名」は、決して「現実の父親の名前」ではなく象徴的に父の機能を果たす存在というように説明していた。しかしこの映画では、偶然だが、「エステバン」という二人の息子につけられた父親の名が「父-の-名」を表しているのである。
 17歳の誕生日を迎えたエステバンは「写真とおなじように僕の人生も半分が欠けている」と言うが、その半分とは父親のことである。映画のタイトルに「オール・アバウト・マイ・マザー」と「マイ」とついているのは息子、エステバンを主体の位置においてタイトルがつけられていることが分かる。エステバンは目に見えない「父-の-名」に支配されているのだ。
 こうしたことは映画だけではなく、現実でも起きている。「父-の-名」が明確に機能していると思われるのが彫刻家のルイーズ・ブルジョワである。詳細は2008年度の日本病跡学会で発表したが、彼女の父親は男の子を切望していたのに女の子が生まれたことで大変失望し、自らの名Louisを女性形にしたLouiseを娘につける。父に対する複雑な思いを抱いて成長したブルジョワは「父の破壊」という攻撃的なタイトルのもとに奇妙なインスタレーションを作成する。
 驚いたことにそうしたブルジョワが、自分の息子の一人にその父親と同じLouisという名をつけたのである。
 また、分数式をまねた疑似数学的な、ラカンの式は無味乾燥的に思えるかもしれないが、この概念がラカンに生まれた頃の彼の実生活のことを知ると驚かずにおれない。ルディネスコによれば、ラカンは当時まだジョルジュ・バタイユと離婚していないシルヴィア・バタイユ(ジャン・ルノワールの「ピクニック」に出ている彼女はなんと眩いのだろう)とつきあっており、彼女のお腹にはすでに、娘がやどっていたのだ(その娘はのちに結婚し、ジュディット・ミレールとなる)。 象徴的で現実の父親ではないと強調するのだが、その概念が生まれた状況を考えるととたんに生々しいものに思えてくる。
現実においても確かに「父-の-名」はわたしたちに影響を及ぼしているのだ。(番場 寛)

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