J.ユスターシュの「ママと娼婦」が分からない

1966年に発表されたこの映画を関西日仏学館のシネクラブで見た。当日は別の会合に出ていて1時間程遅れてから見たのだが、それでも3時間弱見ることができた。
 
見ても理解できず、ずっと心に引っ掛かっていた映画の一つだ。最後に見たのは確か十数年前だ。
 
無職のアレクサンドルは年上のマリーに養われるように一緒に住む身でありながら、若い看護師の娘、ヴェロニカとも付き合う。彼の行動は次第にエスカレートし、ヴェロニカをマリーと自分が住むアパートにまで連れてくる。
 
愛なのか欲望なのか分からない力で結ばれた三人は、アレクサンドルを中心に化学反応を起こすかのように、感情を起伏させ、もつれながら三人一緒に床に入るまでに至る。
 
この映画を見るたびに考えるのは、この映画のタイトルである。「ママ」というのはマリーであり、「娼婦」というのは、他の女と暮らしていることをものともせず、その女のところにまで自分の欲する男に会いに行く看護師のヴェロニカのことなのだろうと、観客は最初はそう思う。
 
しかし驚くのは、映画の最後の方でヴェロニカが三人一緒にいるところで、涙を流しながら、自分が本当に望むのは、好きな男と結婚し子供を産むことなのだと告白するところである。
 
F.トリュフォーの映画にも、一人の女を中心とした二人の男を描いた「突然炎のごとく」や逆に一人の男が二人の女性に好かれる「恋のエチュード」のような作品があるが、このユスターシュの作品がそれらと違うのは、女性の持つ二つの特性(それもおそらく男性の視点から見た特性だろうが)を対照的に描いている点だろう。
 
思い出すのは、寺山修司が「少女」を「娼婦」の性質を帯びた存在と定義していたことだ。寺山によれば「少女」の反対語は「少年」ではなく「母親」なのだ。「母親」とは子を産むという点で「生産性」を表しているのに対し、「少女」はそれを持たないという点で「娼婦」という性質を帯びているというのだ。
 
この「ママと娼婦」においては二つの女性の特性を二人の対照的な登場人物で代表させているかに見せて、実は「娼婦」的に思われたヴェロニカにも実は「ママ」的な本質への憧れがあったことを見せることにより、どの女性にも二つの性質が普遍的に備わっていることを見せているのだろう。
 
この映画を見ていて分からないのは、斎藤環が最近、ことあるごとに断言する、「所有」を求める男に対し、女は「関係」を求めるという主張がこの映画でもまさに問題にされているのに、それがすっきりと自分の中で整理できないからだ。
 
三人は性的な関係を保つほど親密でありながら互いに相手をvous(あなた)で呼ぶ。目の前で相手が別の女と性行為していても嫉妬は感じていても耐える。確かにマリーもヴェロニカもアレクサンドルと「関係」を保っている今が大事で「所有」を目ざしてはいないように見える。しかしマリーも二人が関係しているとき自殺しようとして薬を多量に飲んでしまうし、ヴェロニカも最後には、上に述べたように告白する。
 
人がそのとき好きになった人と、一切他人へ気兼ねすることなく関係することができ、「所有」という概念から自由になれたとしたならそれは愛のユートピアであろう。それについてはこのブログでかつて鹿島田真希の『ゼロの王国』を論じたときに触れた。この映画でも何よりも「関係」を求めながらも、「所有」を求めてしまうことで、三人の関係が瓦解する様を描いたようにも思えるのだが、どうなのだろう。やはり分からない。誰かこの映画を見た人、教えてほしい。(番場 寛)

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