「恋重荷」を観る

先週、金曜日にファスビンダー原作、田中章義演出の「塵、都会、死」という劇を観て、日曜日に三浦基演出の「追伸」と題された、A.アルト-のテキストに基づく朗読劇を見たが、それに挟まるように土曜日に、河村能楽堂で能を観た。
 
そこで観た能のひとつの「恋重荷(こいのおもに)」という作品にまず惹かれたのは、その題目である。シテは老人で、かれが恋するのは高貴な身分の若い女性だという設定だけでもうイメージが広がってしまった。
 
手持ちのテキストの中では岩波古典文学大系版にしか載っていなかったが、そこで演じられたものとはかなり謡が異なっているようだった。能はときどきではあるが、何年も前から見ており、2年ほど前から直に先生につき習っているのだが、良く見る現代劇のようには、なかなか分からない。
 
それでもこの「恋重荷」については十分楽しめた。その天皇の女御に恋した庭師である老人は苦しさのあまり、その恋を忘れようとする。しかしその恋を忘れることは、それがかなわないことよりもっと耐えがたいのだという。そこで出される試練が「恋重荷」という物体の箱である。それを持ち上げて何度が庭をめぐることができれば、もういちど老人の前にその女御は姿をあらわすと言う。老人は必死にそれを持ち上げようとするができず、絶望のあまり狂い死んでしまう。 
 
老人は鬼のような面に変わった怨霊となって、その女御を責めさいなむが、最後には、自分を弔ってくれるなら、あなたの守り神となろうと言って消える。最後まで忘れられないのである。
 
とても悲しく身につまされる話なのに、恋の苦しみを、「重荷を持ち上げる」という視覚的な行為に転換しているので、喜劇的なものへと変化している。こうした観念の視覚化という技法はひょっとして寺山修司が能から学んだ技法でもあるのだろうか?

もう何年か前に現実に起きたことだが、ある老人が女子高生に恋をして、想いを打ち明けて訴えられたということがニュースになった。 身分の差ということは殆どなくなったとしても、越え難い年齢差という「重荷」はどうにもし難い。この作品のように死ねない老人は、現代だったらストーカーになってしまうのだろうか? 恋した若い女の心をつかむため、メフィストに魂を譲り渡してまで若返ろうとしたファウスト同様、「恋重荷」の老人を笑うことはできない。
 
しかし、この能にはまだ救いがあるのでは、とふと思った。もしこの主人公が若くて、身分も高くて十分美しくて、それでもその恋した女の心をつかむことができなかったとしたら。それこそ、現代においてあり得る「恋重荷」ではないか。この能のリアリティは、その「恋重荷」を持ち上げることが不可能なのに、それよりも恋を捨てる方がより苦しいという告白である。
 
ところで、あなたはあなたの「恋重荷」を持ち上げられますか? (番場 寛)

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