岩松 了演出「マレーヒルの幻影」を観る―差異と反復(4)―

 12日締め切りの卒論指導もいよいよ大詰めである。床の上をハイハイしていた赤ちゃんがようやく立ち、よちよち歩きを始めたのを見つめている母親のような気分だ。やがてその足取りも華麗になりダンスを始めたかのような文章になり、もう完成して提出した学生がいる一方で、思考がもつれてどう書いていいか分からなくなったと嘆く学生もいる。こちらもすぐに名案が出せなくても、そうした学生と向かい合って、ぽつりぽつりと頭に浮かぶ考えを述べていく。すると突然、学生の顔が輝き「そうなんだ」と叫ぶ。逆に学生が何気なく発した言葉からこちらに思いがけない発想が生まれることもある。ふたりの対話の痕跡として刻まれてゆく論文の文章(エクリチュール)。ふとこれは幸福な時間なのではないか?こんな時間が永遠に続けばいい、などと思ってしまいそうになる。
 
そんな気持ちを振り切って数か月も前にチケットを買った劇を観にいく。岩松了の演出で主演が麻生久美子とARATAだからだ。
 多少予想はしていたが、話の展開はステレオタイプでむしろ退屈だった。 昔恋人であった男(ARATA)が女(麻生)と兵役で別れ、帰国したときには女はすでに別の男と結婚している。女を見返すために金持ちになることだけを目指し、成功しニューヨークで生活している。そこでかつての恋人に再会する。
 いわゆる一人の女を挟んで夫と恋人(元恋人)が三角関係を形成するもので、たとえばアラン・レネという監督は「メロ」という映画を撮っている。それに「金」と「愛」という異質なものでありながら互いに影響し合う二つをこれみよがしなほど見せつけている。それは劇ではもうひとつのカップル、田中(荒川良良)と金のためにその夫にかくれて娼婦をしているスージー(市川実和子)がちょうど主人公のカップルの関係の陰画をなしている。
 構図もありきたりで、普通だったら退屈で3時間弱もの長さに耐えられない筈なのに最後まで緊張感を失わずに観ることができたのは、岩松の脚本の台詞・演出と役者の演技によるものであろう。
 麻生久美子は舞台でも期待を裏切らなかった。数回だが演劇のワークショップに参加した経験から分かることがいくつかある。たとえば動作を伴わないで台詞だけを言う場合、姿勢はどうすればいいのだろう。何よりも手が邪魔でどうしていいか分からなくなる。
 麻生も他の俳優たちも見事だった。広い舞台で相手と向かい合い、とうとうと長い台詞を言うときでも腕も手も台詞と合っていた。顔が小さくしか見えない席であったので発見したことだが、彼女の魅力の一つに少し鼻にかかったような声も大きいということが分かった。
 劇の翌日考えるのは同じ問題である。男(ARATA)を苦しめているのは今も愛している女が自分以外の男と結婚していることである。だが、その男は妻が本当に愛しているのは自分ではなく、妻が自分を捨ててその昔の恋人のところに走るのではないかと恐れている。
恋人は結婚という形で「所有」できなかったことで苦しむが夫は結婚しているのにその妻の心をどうすることもできなくて苦しんでいる。では妻はというと、ひょっとして福山雅治が「永遠の初恋」と歌う気持ちにいくらかは近いのかもしれない。
 夫婦や恋人として幸せに暮らしているカップルも、その相手の自分に対する想いの確信の根拠は何かと自問すれば、この劇のような地獄に陥ることであろう。
 どうして「あの人が好きだ」という気持ちだけを抱いて人は幸せになれないのだろう。どうしたら「所有」という欲望から自由になれるのだろう?
 メロドラマの「幻影」から、現実に目を向ければ、卒論の締め切りはいよいよあさってである。日曜だがこれから卒論指導に大学に行き、その後演劇のワークショップに参加し拙い劇の練習をする。学生のみなさん、あと数日で終わってしまうこんなに苦しくて幸せな時間は恋愛以外には卒論しかないよ、頑張ろう! (番場 寛)

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