「擬人化」への疑問

 今大学は期末試験の真っただ中であり、しかも卒論の口述試験も始まっている。必死で書き上げた学生たちの熱意に報いるだけの読みで応えたいと思うだけにこちらも最大の努力を払う。成績をつけなくてはいけないと思っているうちに入試も迫っている。大学教員にとってはこんなブログなど書いている時間はない筈だ。
 
それなのにふとみつけたチラシから、ある団体の主催するコンテンポラリーダンスのワークショップに参加してしまった。「おやじ」という範疇に入る人たちだけで共同作業でダンスを作り上げて踊るだけでなく、31日には観客の前で披露するのだという。普通だったら絶対参加しないはずなのに、創作ダンスの振り付けというものをどのようにやるのか知りたいという好奇心だけで参加してしまい、体のあちこちに痛みの残る体で忙しい毎日を送っている。
 
実は、ひと月ほど前から、日経12月19日に載っていた「コトバの鏡」というコラム欄の「萌え擬人化」という記事がずっと気にかかっている。著者、福光恵氏は、犬や猫やアヒルが人間のように話すテレビのコマーシャルを始め、日常にあふれている「擬人化」を指摘し、その根底には「森羅万象に魂が宿る」と考える日本文化の特徴があると分析している。
 
このコラムで驚かされたのは、ここ数年、人でないものを「『もしも人だったら』と考えて、萌え系のイラスト」にする「萌え擬人化」と呼ばれるジャンルが盛り上がっているのだということである。日常のあらゆるところであふれている「擬人化」にあらためてどうしてなのだろうと考え込んでしまった。
 
それに関連して思い出すのは昨年12月6日に「京都芸術センター」で行われたフランス人の振付家・演出家、ジゼル・ヴィエンヌさんの講演である。彼女は過去に上演した人形を使った自分の演劇的パフォーマンスの一部を見せたとき「舞台で披露される観客が見る風景はその観客の心を投影したものになる」というようなことを述べた。そのときたまたまアラン・ロブグリエ夫人の話が出たので、ぼくは、ヌーヴォー・ロマンの小説家であるロブ・グリエは心象風景の反映のような風景描写(たとえば「空が泣いていた」というような)の嘘を告発していたのではないかと反論した。
 
ジゼルさんは「確かに初期のロブ・グリエはそう書いているが、幾何学的で心理を反映していないと普通言われている描写(たとえば『嫉妬』という作品の描写)がいかに主観的な描写であるかと反論した。
 
昔「擬人法」という表現法を初めて習った時、なんてすばらしいのだろうと素朴に思った。しかし考えてみれば、「葉っぱがいやいやをしながら落ちてくる」筈がないのだ。問題はなぜ「擬人法」は人間に、安易にある種の「共感」とそれにともなう「快感」を生むのだろうかという点にあるのだろう。
 
ふと思った。その思考パターンをもっと推し進めれば「人を別の人に見立てる擬人法」というものだって成立するのではないか? つまりお腹が突き出て、髪も薄くなり、動作ものろくなった「オヤジ」でさえ、「カッコイイ」「カワイイ」という「萌え」の対象になるかもしれない・・・無理か。 (番場 寛)

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