演劇を創るリアリティ(大江健三郎『水死』を読んで)―「差異」と「反復」(5)―

 大学生時代、大江は仏文科の学生たちの憧れの的だった。ぼく自身はそのころは安部公房に夢中になっていたのだが、友人の「大江は大学一年生の夏休みにサルトルの原書をリュックサックに詰めて松山に帰って読んだのだ」という言葉に触発されFolioシリーズで出ていた『自由への道』を買った(もちろんすぐに挫折したが)。
 
何作か前からそういう傾向が見られたが、今回の作品で更にその傾向が強まっているのは、まるで「私小説」と見まがうほど主人公の長江古義人(cogitoから名付けたのは明らかだ)は読者の知っている大江の経歴と殆どすっかり重なる。他の登場人物も読者の知識に応じて現実の人物との同定が可能なほどそっくりである。そのためこの小説に書かれていることは現実にそのまま起こったことなのだと思ってしまいそうになる。
 
小説内の「語り手」が小説外の時間で生きている作者と同一人物であるという錯覚により小説のリアリティを維持しようとするのが「私小説」であるとしたなら、大江はこの小説においてもその技法を意識的に用いている。
 
しかし今回の作品『水死』で注目したいのは、小説の語り手(長江古義人)が『水死人』という小説を書こうとして結局は断念するという、小説の手法では知られた「入れ子構造」(mise en abyme)をとっているということではなく、大江(長江)の過去の作品を演劇にしようという劇団員の行動を巡って小説が進展する点である。
 
小説を演劇化する場面は彼の作品だけでなく夏目漱石の『こころ』の「先生」の自殺を演劇化する場面としても描かれている。なぜ大江はこのような手法を用いたのだろうか? またすでに小説として書かれたことを演劇化することにどのような意義があるのだろうか?

 『こころ』の先生の自殺は友人への裏切りへの責め苦によるものだけではなく、乃木大将の自殺に触発され、国家に殉ずるという意思があったのではないかという問いかけを問題にしていて、長江の「父親」の生き方を問うテーマと重なるのだが、新たに演劇化しようとすることのメリットは何なのだろう?
 
ここで気付かなくてはいけないのは、大江自身が演劇化しているのではなく、演劇化しようとして、演じる試行を繰り返す登場人物の行動を小説化していることである。
 
鴻巣 友季紀子氏が朝日新聞の書評欄で「読みたがえる」という言葉で的確に指摘しているとおり、大江の小説の手法の一つとしてこの小説でも顕著になっているのは外国文学の「翻訳」による「創造」であり、それは折口信夫の一文の解釈における、「誤読」による「創造」と同じものとみなすことができるであろう。
 
テレビに大江が出たとき、何度も書き直すという原稿が映し出された。彼の新たに書かれる作品がつねに他の作品の読みなおしによって書かれるのならそれが自分自身の作品であっても同じだ。「演劇化」という技法はその「再読」の行為の一つであるだけでなく、さらにそこで演じようとしている人物を描くことで、その「再読」をリアリティある行為として描くことができるのだと思う。
 
もうひとつこの小説の中心となっているのは父親が残し、長年母親によって保管されようやく長江のもとに渡ることになる「赤革のトランク」である。例えば小劇場で行われる演劇でベンチ以外には何もない空間に一つ「革のトランク」が置かれただけで、劇の進行が生み出されることがある。なぜならそれは「旅」という移動を予感させるだけでなく、見えないだけにそこに詰まっているものを観客に想像させる。この小説では「移動」は過去から現在に対しなされ、読者の中身を知りたいという欲望を掻き立てる。
 
この小説は「赤革のトランク」に象徴される「父親の本質探し」というモチーフで引っ張りながら、常に「言葉」を受け止め、それを考えることで新たな「言葉」が生み出されるという「読書」による「創造」というテーマを推し進めたものだと言える。すでに他の日のブログで述べたが、「反復」により「差異」が生まれ、それが「創造」なのだという思いを今回も確認できたような気がする。(番場 寛)

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