「イキシマ」(作・松田正隆、演出・松本雄吉)を見て(精華小劇場にて)

期待以上のすばらしい舞台だった。見終わって思考が整理できてない段階でこれを書くのはまだ2月28日までやっており、他の地域ではやらないと確約しているこの作品の魅力の一部を伝えることで、一人でも多くの人が見たらいいと思うからだ。

驚いた。松本率いるジャンジャンオペラと呼ばれる「維新派」の演出ではお馴染みの、演出、つまり人物がケチャのようなリズムを強調した、ある意味単調な発声と、横と縦のロボットのような直線的な動きで言葉が掻き消されるような演出は完全に拭い消されていたからだ。

時どき椅子が置かれるだけの真っ白な部屋は、輪郭を美しくデフォルメされ二つの機能する窓を配置され、小さな階段をわきに設置するなど、極めて奥行きを感じさせる室内につくられていた。

アフタートークの時に、鴻英史氏も「読む演劇」と名付けて、スクリーンに台詞が映し出される演出の特徴を指摘したが、それだけではなく今回の松田のテキストでは特に「書き割り」に相当する部分を舞台で台詞として発話する人物を設定している。

一方各人物の発話は二人の少女の天使、二人の海女、吃音の男と対話する男といった双数的な対話が中心であり、葛藤というより響き合う言葉として現われ出ていた。
 
外の世界からは海で隔てられた空間でありながらよそから船で来る人だけではなく、漂流物としておびただしい異質なもの、外部が内部に入り込み、外部と内部がつながっているちょうど「クラインの壺」を思わせる空間としての「島」の特徴を松本の設定した「室内」はみごとにつくりあげていた。
 
人物の関係は設定されているが物語的時間は流れない。32のユニットに分かれるというそれぞれの場面で交わされる松田の創った台詞はそれぞれ対句的に構成される部分と、浜辺に流れ着いた漂流物の列挙に顕著なように、朗読される詩のように美しい。物語的な時間の流れを拒否した後に出てくるこの言葉の連なりはどこから来ているのかと問えば、言葉の持つ「意味」以外の要素、「音」「リズム」などシニフィアンを支える特徴に着目して書かれていることが分かる。

 「フェリーに乗る」という言葉から映画監督の「フェリーニ」という言葉が生まれ、「踊ろう」という言葉から「驚かす」という言葉が発せられるなどシニフィアンを支える特徴は人の無意識に働きかけることでちょうど「呼吸」のように観客に入り込んでいく。
「息を吸ったり吐いたりする」行為を島から出ていくことと帰るに結び付け、息を止めることで生きる海女という人物を設定するなど、生きることを「人が息を吸う」という、もっとも根源的な行為に還元し、そこから極限にまで想像力を駆使することで、松田の言葉は生み出されている。

はからずも、2008年に松本雄吉演出の「維新派」によってびわ湖水上舞台で演じられた作品のタイトルは「呼吸機械」であった。ラップのような発声とロボットのような動きで犠牲になったものを、松田のテキストにより「息島」「生き島」「行き島」という演出を生みだすことで取り戻していたように思う。久しぶりに演劇による至福の時間を味わうことができた。(番場 寛)

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