人はどうして嘘をつくのだろう?

ある人がぼくに嘘をついていたことが、数日間に共通の友人と話したことで分かった。以前にも、嘘かもしれないと疑わせることが幾つかあったが、今回は明白で、それが分かったときの怒りの感情の強さに自分で驚き、それをどうすることもできない自分がいた。辛いのは、その人とのいい思い出までもが台無しにされたように思えてきたことで、残ったのは、その人は平気で嘘をつける人なのだという事実だけだった。
 
人が嘘をつく場合は二つしかないと思う。ひとつは自分の身を守るためであり、もうひとつは他人を守るためであり、嘘をつくことでその人を幸せにするためだと思う。自分のことを思うと本当に嘘をつくのが下手だと思う。それは決して正直者で善良だからではなくて、たとえ自分を守ろうとする場合でも、「嘘をつく」ということに対する後ろめたさに耐えられなくて、すぐ表情に出てしまうからだ。

 「人を幸せにする嘘」ということで思い出すのは、高校生のころ入院していたときのことである。その部屋に末期癌の患者さんがおられた。看護師さんが点滴をするのだが、一回で入らず何度か繰り返さなくてはならない。そのたびにその看護師さんは「治るためですものねえ、我慢しましょうねえ」と言いながらにこにこと頬笑みかけていた。 そのときなんてすごい仕事なのだろう、自分にはとてもこんな嘘はつけないと感心したものだ。
 
実は例の嘘によってどうしようもなくなっていた気持ちが、忘れていたある話を思い出してようやく回復できたのだ。その話は数年前のことだし、しかもそれは「嘘」にまつわる話ではないのに、なんでその話を思い出すことで不快な気持を拭い去ることができたのだろう?
 
それはある友人から聞いた話だ。彼女はその頃あるブランドの婦人服の会社の京都の支店で販売を担当していた。あるとき東京から出張でこちらに来た男性が店により、妻への服を買いたいという。買いたいデザインの服はようやく決まったのだが、困ったのはサイズである。その男性が覚えている妻のサイズでは小さすぎるようにも見えるという。
 
それを聞いた彼女は、その店のブランドの服は小さめに作られているのでひとつ大きい号の服を買ってはどうかと勧めたのだという。するとその男性は、そんなことをしたら妻が、自分は夫には太ってしまったように見えるのかと悲しんでしまうかもしれない。そんなことはできないと言う。 そこでそれを聞いた店員の彼女は、もし東京に戻られて奥さんが着てみて小さければいつでも交換しますと答えたと言う。
 
それを聞いたとき心のなかが温かくなったが、別の機会にその彼女に会ったとき、例のお客は換えてくれと連絡があったかとたずねたところ、なかったという。それは何歳くらいの男性だったのかと聞くとぼくと同じくらいの中年の男性だという。

それを聞いたとき別の想像もしてみた。実は夫がわざわざ京都から買ってきてくれた服はその妻にはひょっとして窮屈だったのではないか? それでも自分をそのサイズだと思っている夫に対し、ぴったりよと微笑んでいたとしたなら…。そして夫も少し小さすぎると思っても喜んでいる妻の気持ちを傷つけたくなくて、微笑んでいるとしたなら…
 
そう思ったときのことを思い出すたびに何か幸せな気持ちになる。その素敵な話を聞かせてくれた彼女も、今はそのお店をやめ結婚し、最近あらたな命がお腹の中で育っているという。
 
ところであなたは人を幸せにするために嘘をつけますか? (番場 寛) 

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