「土方巽~言葉と身体をめぐって」第3回研究会に参加して

たとえば、今は亡くなっている「神」と崇めたくなるようなすばらしい人がいたとする。その人の凄さ、素晴らしさを何とか理解し、その人の本質とはどういうものであったかを知りたいと思ったらどうするであろう。その人の実際に残したあらゆるものを調べたり、身近で接した経験のある話を聞いたりしたその人の実体に迫るであろう。

「土方さんに触りに行く」という主催者の山田せつこさんのキャッチコピーが明確に表しているように、この研究会は、暗黒舞踏の創始者として、日本のみならず、世界で注目されている土方巽(たつみという正確な字が出せなくてすみません)その人の舞踏とエクリチュールを復元し、あらたにその意味の本質に迫ろうとするものであった。   

今回3月12日から3日間にわたって京都造形芸術大学で行われたこの研究会に参加したのは、土方自身が踊るか、振り付けをした映像を見たいというのが一番の理由であったが、研究発表もそれに続く対談や鼎談も予想以上に面白く、土方を理解する上でとても有益であった。

前回の研究会で問題となっていた「舞踏譜」という言葉は、土方自身はそうした言葉を用いていず、弟子たちに教える上でノートに切り貼りしていた踊りを創る「型のようなもの」をのちの土方のアーカイブを創っているひとたちがそう名付けたという指摘はとても重要である。

今回の発表は稲田奈緒美さんが「踊る文体を読む~土方巽の技法と言葉」という題で60年代と70年代の土方の舞踏と彼の書いた言葉とを対応させてアカデミックな技法で分析してくれたものが、自分が親しんだ方法に近いせいか理解し易かった。

今回の研究会の大きなテーマのひとつは土方が言葉の文章として残したもので最大の謎となっている『病める舞姫』という作品をどう読み解くかというものであった。以下そのポイントだけを要約してみよう。
1文体的にも理解しがたいエクリチュールのこの作品をかれの「舞踏」とどのように関係づけて読むべきか。
2この作品のインターテキスト(あらゆる文学作品はそれに影響を与えたり、積極的に作者が引用したり、剽窃したものからなりたっているがそのもととなっているテキスト)は何か?

2については「土方巽全集」の編集にかかわった安藤礼二さんから、まず土方の教養の背景として柳田・折口に触発された民俗学への関心があったことと当時彼が読むことのできたアンドレ・ブルトンの『ナジャ』やアントナン・アルトーの『ヘリオガバルス』の影響の予測と、最初口述筆記され、雑誌連載されそれが単行本として出版される過程で複数の人の手が入っていることが報告された。また、晩年の土方と実際に深い交流のあった宇野邦一さんからは、いかに土方がアルト―に心酔していたかが報告された。

問題は1についてである。くに吉和子さんからは、「舞踏」とは原則的には切り離して読むべきではないかという指摘がなされた。

また今回の研究会で実際に土方の指導を受けた三上賀代さんと田中弘二さんの報告を聞いて思ったのは、やはり振りつけるのは「言葉」であり、その「言葉」によってイメージが生まれ、それを身体の神経に伝え肉体が動いた時、踊りになるのではないかということである。

またこの作品に多用されている「のように」という言葉についての非常に貴重な指摘が森山直人さんからなされた。それについてぼくは、それは、例えばロートレアモンの「彼は16歳と4カ月。手術台の上のミシンとこうもり傘との偶然の出会いのように美しい」における「ようにcomme」と同じで、喩えられるもののために喩えるものがあるのではなく、「ように」という言葉であえて「喩えるもの」を展開していく方法が土方のこの作品に見られる方法とだと述べた。

また、「ように」をとってしまうと「詩」になってしまうという安藤さんの指摘に対しては、R.ヤーコブソンが「詩はパラディグマチック(ある言葉のまわりに潜在している別の言葉群)の軸をサンタグマチック(そこに言葉の連なりとして顕在している)の軸に投影しているものである」といったことを書いていたと記憶しているが、この「ように」という言葉はそうした機能を帯びており、だから構文としてはしっかりしているこの作品は翻訳も可能ではないかと思うと述べた。

森山さんが指摘した土方の強調した「正確なイメージ」というのは、それを伝える「言葉」の正確さなのではないかとも思った。参加者が「言葉、イメージ、身体」と繰り返すのを聞いていて、これはJ.ラカンの「象徴界」「想像界」「現実界(これは身体というようりはむしろ肉体であろう」のそれぞれの側面から「身体」というものを考えたときにより明確になるのではないかと思った。

また今回演劇の演出家といての立場から三浦基さんが、俳優の石田大さんを傍らに座らせ土方のテキストを朗読したのはかれのこの次の演出作品を予感させるものであると同時に、「土方さんは生きているんです」と声高に叫ぶ三上さんに対し「土方は死んでいる」と強調する三浦さんの立場をも明確にするものであった。

「生きている」というのは実体を復元できるという信念を表しており、「死んでいる」というのは「復元」ではなく土方の残したものからどんなに新たに創造的なものを生み出すことさえできるはずだという確信を表しているものだと思った。

偶然だが、お二人の名前は三という文字が共通している。「上」と「浦」へという二つの漢字の違いは、土方研究の二つの方向性を表していると思った。(2010年3月15日、番場 寛)

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