コンテンポラリーダンス、『生まれてはみたものの』KIKIKIKIKIKIと舞踏(『孔雀船』今貂子+倚羅座)を見て

前日の「静物画」の余韻を残しながら二つのダンスを見た。「生まれては・・・」は同名の映画がある小津安二郎の作品の影響をダンスで表したものという触れ込みであり、前にこのブログで紹介した、「ダンスフォーオール」の「オヤジグループ」に、若いのにアシスタントとして加わり指導とともに一緒に踊ってくれた日置あつしさんがどのように踊るのかという興味もあり伊丹のAI・HALLまで行った。

映画と同じテーマを原則として言葉を用いず、友愛や性愛や、葛藤・争いなど人と人との基本的な関係の在り方を身体の動き(相手に触れる、抱く、引っ張る、たたく…)で表すのだが、どのダンサーも顔の表情を含めてパントマイムではなく表現になりえていたように思う。

数多くのすぐれた演出・演技のうち、一つだけあげれば、小津の映画と同じ台詞を二人で何度も繰り返しながら声の調子と身体の動きを可能な限り変容させていく技巧は見事であった。またこの公演チラシは出演者の顔写真を大きく載せており、その裏に「いわゆるダンサーらしくない体型やキャラクターを好んで起用し、…」と説明されており驚いた。その主張と「生まれては・・・」というテーマを重ねるかのように、生まれたての赤ちゃんの裸の写真のあと同じ姿勢で横たわる出演者のヌードが一人ずつスクリーンに映し出されるとテーマがより明確になる。それを見ながら、鷲田清一さんが川久保玲さんの服を評して、いわゆる標準体型と呼ばれるものこそいびつだと書いていたことを思い出した。彼女らのヌードには自然の生々しさと美しさがあった。

ダンスは説明ではなく、表現でなければならないとしたなら音楽や映像の使い方はもっとストイックにできたかもしれない。しかし、肉体の若さを飾ることなく全面的に出し切り疾走するこの劇団の一層の活躍を祈りたい。

急いで京都にもどり今度は『孔雀船』を見る。前に見たチラシで興味を持っていたが、ここでも紹介した土方巽の研究会の会場で、この公演で踊るというメンバーから直接チラシを渡され、何とか時間を工面して観に来た。

「河原町五条の大通りを外れた路地の一角に、その不思議な館はある。かつて芸妓らが技を競った歌舞練場は、京都という都市の記憶を湛えた宝箱だ。…」と始め、「…その舞台上の想像力は、自己言及に汲々とする昨今の表現者たちを、破天荒であれと鼓舞してやまない。…」と書くチラシの竹田真理さんの説明文があまりに素晴らしく、実際に観てもそれ以上の感想は書けない。

「生まれては…」と対照的に、顔を白く塗り、色鮮やかな衣装に身を包んで踊るのだが、いわゆる舞踏ではなく(ひょっとして舞踏とはそういうものかも知れないが)、日本舞踊を始めとする極めて雑多な踊りの記憶の集積であった。

林まゆみさんの三味線と三好涼子さんの唄による素晴らしい長唄を聞いて舞台の艶やかな女性たちを眺めているとまるでタイムスリップしているかのように心地よくなってきた。

映像で見た土方たちの身体の動きとは比べられないが、キッチュな趣向によりかかることなく、より一層素晴らしい自分たちの舞踏を追求していってもらいたいと思う。(3月21日、番場 寛)

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