「クリスチネ」(トリコ・Aプロデュース)試演会を観て

3月21日のJ.ラカンのセミネールを読む読書会を抜け出してこれを観に行ったのは、ワークショップで指導してもらったこの劇団のメンバーが出演しており、試演に招待してもらったからだ。

最初にイプセンの「人形の家」の登場人物、クリスチネが出てきてこの劇の状況を説明する。子を残したまま何年も失踪していた女が一緒に暮らしていた男の家へ帰ってみると、その家は男の借金のため競売にかけられ、すでに他人の所有になっていた。それでいてまだ引っ越しの作業を終えていない男はそこに住んでいる。

劇はそのもとカップルの二人と、男の妹とその恋人らしき若い男との四人を中心に展開するが、それと並行してそこにはいない匿名の人物の独白としてニュースのように聞こえてくるのは、「宇宙人」とわざと聞き間違えるように命名された「ムチュウジン(夢中人?)」とひょんなことで暮らし始めた男の話である。

能舞台のように柱と屋根とドアの骨組みだけで設定された家で主に四人だけで繰り広げられるその人物の関係は、よりを戻す戻さない、一緒に暮らす暮らさないという理由だけで男女4人が、順列組み合わせのようにくっついたり離れたりする。

作者の山口茜の目指すものは何なのだろう。異性か同性かということを問題にしないかのように、くっついたり離れたりするさまをみていると、ちょうど台の上を転がってはぶつかり合う、4個のビリヤードの玉を見ているような気がしてくる。なぜ女を捨て男同士が一緒になろうとするのか、なぜ自分が捨てた男のもとに女はもどろうとするのか、見ていて分からない。

当日途中で抜け出した読書会で読んでいたラカンのテキスト(『ある大文字の他者から小文字の他者へ』)では、のちに「性関係はない」「女というものはない」という定式で全面的に展開することになる「女という性」の概念を根拠づけることの困難さを説明していたことを思い出した。ひょっとして人と人との結びつきの根拠のなさという哲学的なテーマを山口は追求しようとしているのか?

4個のビリヤードの玉を動かし、次々とぶつかることで動きを伝えていくキュー(棒)に当たるものは何なのだろう。4人を動かしている動因の一つが「お金」であり「借金」であることは示されていたが、もう一つの動因が分からない。それは「愛」なのか「欲望」なのか明らかにされていないし、それと「金」との関係も明確にされていない。一緒に住む、住まないという関係を巡って展開しているのに、確か一度も「愛している」とか「好きだ」という台詞は発せられてないか、気付かないように発せられただけであるのは意識的な演出なのだろうが、その意味が分からない。

「ムチュウジン」という聞き違えを喚起する人物(?)の設定は、他人と暮らすことは「宇宙人」にも似た、「ムチュウジン」と暮らすことと同じくらい理解できない存在と一緒に暮らすことだという象徴的な意味へと導きたいためなのかどうか? またもう一つの部屋から発散する強烈な悪臭のもとは何なのか曖昧にしておくことで何かを表そうとしているのか? 最後の、日常を支えている、「奇跡」への期待の感覚の例としての「黒いサングラスの男」の話は落ちとしては決まっているが、単に笑いを誘うことだけと受け止められかねないようにも思える。試演の段階では、こうした演出は未完のように思えた。

演じた6人のうち岩田由紀、鈴木正悟、筒井加寿子の3人にはワークショップで指導していただいたことがあるが、そのとき「実際の演技のときに覚えていた筈の台詞が出てこないで困ることがある」とか、10段階のうちの下から2番目の食事を考えるというゲームで「ワカメだけが入った味噌汁と白いご飯」とか参加者を驚かせる言葉を放った、いわばわが師(?)たちの演技を観たわけだ。いずれもさすがだと思わせるに十分な演技であったと思う。

本公演の成功を祈るとともに、劇団のより一層の活躍に期待したい(番場 寛)

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