「宗教のディスクール」なのか?-「1Q84」Book3を読んで ―

ほんとうは このぶろぐのたいとる さいとはんぷく としたい
 でも どぅるーずのほんのこととまちがえるひといたら
 かわいそう だからそうかかない

特にBook1で魅力的だった小説内小説の『くうきさなぎ』の原作者の「ふかえり」こと深田絵里子の話し方をまねてみたがうまくいかない。Book2の最後で自ら銃口を口にあて自殺をした筈の主人公、青豆は生きており、天吾とお互いに相手を求めながら恋愛小説の常套手段のすれ違いを繰り返すのだろうかと思っていたが違っていた。

見つめることはそれだけで「愛」なのだろうか?
牛河はカルト集団「さきがけ」に依頼され、青豆を探し出すために身を隠したまま天吾のアパートを見張っているのだが、いびつな頭をした醜い外見をしたその男の、青豆を追跡する執拗さを内的独白や自由間接話法で表している部分がBook2までと大きく異なっている。彼は青豆が天吾と深いつながりを持っていることを突き止め、向かいのアパートに身を隠したまま天吾のアパートをさぐる。執拗で外見と同じく醜いと感じさせる人物であった筈なのにいつの間にかすっかりこの牛河という人物に感情移入させられてしまう。
 
それは執拗に自分以外の存在を見つめ、その人生を追う行為が名付けないようのない不思議な感動に近い感情を呼び起こすからだ。自分が孤独であることさえ感じないほどの孤独に生き、恋愛感情を一度も持ったことなく、結婚をして家族を設けても「愛」ということを味わうこともなく離婚した男に強烈な経験をもたらすのは、カメラのレンズ越しに覗いている牛河を射抜くような眼差しで見つめ返す、ふかえりである。見つめられていることを知っているという眼差しで、まっすぐに見つめ返されたとき牛河はいままでの人生で味わったことのない感情に襲われる。敢えて村上はそう呼ばないが、「相手は、自分が相手を見つめていることを知った上で、自分のすべてを知っているという眼差しでこちらを見つめ返している」という思考が「恋」でなくて何であろう。しかもそれを感じるのは醜い中年男なのだ。それは天吾が滑り台の上に座って見つめていた空に浮かんでいる二つの月ををこの目で見たときの牛河の衝撃へとつながる。「見つめていることを見つめられること」「見つめているものを同じように見つめること」それは「愛」としか言いようのないものだろう。

「父親」の人生に見る「反復」
Book3で個人的に、牛河の存在と並んでもっとも強い感動を受けたのは天吾と彼の父親との関係である。牛河がひたすら追いつめる側の意識を表しているとしたなら、身を潜めている青豆やふかえりにしつようにテレビの視聴料を支払うよう一方的にドア越しに「代価は支払わねばならない」と威嚇する声は恐怖の感情を呼び起こす。やがてそれは目覚めることなく眠り続ける天吾の父親の霊か、意識ではないかと読者に思わせる。それは父親から魂が離脱したというより、受信料を徴収するという業務、任務そのものとなった意識が声となって人々を付け回しているように思える。

一番衝撃的なのは、父親が意識が戻らないままその生を終えたとき、遺言通り、NHKの制服を着せられた姿で棺の中に横たわる姿である。村上はどのような意図でこのような姿を選ぶ父親を描いたのだろうか? 普通に考えれば、人間を職務に同化させてしまう企業の論理の残酷さを強調しているということになるのかもしれないが、読んでいると違った印象が生まれる。それは、これほどまでに一つの倫理にも似た職務意識(「代価は支払わねばならない」)に忠実でそれと一体化した生は残酷さと同時にある種の崇高ささえ感じさせるからだ。

「宗教のディスクール」?
天吾と青豆が互いに惹かれるきっかけとなったのは、NHKの受信料を徴収にまわっている父親に連れられている天吾と、宗教の勧誘のために各家を訪問する母に連れられる青豆が出会ったからだ。青豆は学校でも食事の前に母親に言われた通り「天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。…」といやいやながら繰り返していた。その価値を理解できない者にとっては、「ただ音の響きであり、記号の羅列に過ぎない」と感じられるその祈りの言葉は、青豆が天吾を連れ「深い孤独が昼を支配」する猫の町、1Q84の世界を抜け出そうと願い発せられた瞬間、同じ言葉の反復でありながらまったく違った響き、輝きを帯びる。

無意味に思われる同じ業務、同じ言葉それが反復されるとき突然、おなじものでありながらまったく違ったものになる瞬間がある。宗教はひょっとしてその瞬間に現われるものなのだろうか?

謎に満ちていた人物の関係も巻を追うごとに明らかにされてきたが、最大の謎、青豆の「性交なしの妊娠」をどう考えるべきだろうか? マリアの処女懐胎のパロディではあるまい。「ここは見世物の世界/何から何までつくりもの/でも私を信じてくれたなら/すべてが本物になる」という「さきがけ」のリーダーの言葉が教えているように、村上は日常の論理を突き抜けた倫理の世界、敢えて言えば「宗教」とでも呼ぶほかない世界を築こうとしているのだろうか? Book4が待ち遠しい。(番場 寛)

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