「海に投げられた瓶」としてのブログ

いよいよ明日パリへ向けて出発する。ヴェステル先生には最後まで発表原稿と、想定される質問に備えての答を直してもらった。それなりに前から準備を始めたつもりだったが時間切れの感じがしてしまうのは、日本における「宗教」を「国家アイデンティティ」と結び付けて考えたことが殆どなかったからだ。
 
ところでしばらく前からこのブログを読んでくれている人のことが気になっている。ブログを書いている者だけが開ける頁で見ることができるのだが、その日にどれだけのアクセスがあり、それがどの日に書かれたブログに何人アクセスしたか、また何という検索ワードでこのブログにたどりついたまでもが分かることになっている(もちろん誰が検索したかは分かりません)。

平均して10数名から30数名という数は決して多くはなくても、読者がまったく分からない論文に比べれば確実に読まれていることが分かるのは嬉しい。ある日164名ものアクセスがあり原因を調べたら、前にぼくがロメオ・カステルッチという演出家の劇を観て書いたものが読まれており、それはNHKで放映し、それがツイッターで広まったせいらしいということが分かった。しかしこれはまれなことだ。どんなに少なくても読んでくれている人がいるのは嬉しい。

随分前に書いたものでもいまだに読まれている。ブログは、まるで中に手紙を入れて読まれるかどうかわからないまま海に投げ込む瓶を思わせる。これらの結果は、数は少なくても確実に瓶を拾って中の手紙を読んだ人がいたことを示しているような気になる。

ぼくが書いたブログで、劇作家や演出家や映画監督や小説化や芸術家など、固有名詞でここにたどり着くのは理解できる。いろいろと想像力が働いてしまうのは、それ以外の検索ワードである。前に「人はどうして嘘をつくのだろう?」と書いたがそこに「嘘 彼女」とか「嘘をつく 妻」とかいう検索に使われた言葉を見つけると、やはり嘘をつかれて苦しんでいる人はいるのだなあと改めて納得させられてしまう。

「日本語をうまく話せるには」というワードをみつけたときは何かほほえましくなった。検索したのは、ぼくがフランス語で苦労しているように「日本語」で苦労している外国人だろうか?

驚いたのは「国際文化学科に入った理由」というのがあったことだ。高校生が学科の特徴を調べようとしたのなら不思議ではないが、自分でなぜこの学科を選んだのか分からなくなっていたとしたら問題だ。自分の欲望を知るために「検索サイト」に頼ってしまうとしたら、それはもうJ.ラカンの世界だ。かれは「人間の欲望は<他者>の欲望である」という定式を唱えるときに、カゾットの『恋する悪魔』の悪魔の問いかけChe vuoi ?(あなたは本当は何か欲しいの?)という言葉を引き合いに出す。検索した人は、自分の欲望を、<他者>としてのインターネットに問いかけているのだろうか?

検索に使用された言葉の中に、同僚や自分の名前を見つけたときは嬉しくなる。それはまれなことで、たとえば、ぼくの名前で検索してこのブログにたどりつく人は2週間に一人いるかいないかぐらいだ。だから先日同じ日に7人もぼくの名前で検索していたことを発見したときは驚いた。翌日卒業生のM君が研究室をたずねてきて話したとき、彼がそのうちの一人だということが分かった。ひょっとして同じクラスの卒業生だったかもしれないと二人で推測して笑った。卒業してひと月ほどたち、休日の前にふと浮かんだのがぼくの名前だったとしたら、それは嬉しいことだろう。

無事帰ってきてまたこのブログを書けることを祈っています。(番場 寛)

広告

コメントを残す

コメントを投稿するには、以下のいずれかでログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中