フセイン・チャラヤン展とミニスカートを穿いた青年(5月30日、東京にて)

東京都現代美術館の「フセイン・チャラヤン―ファッションにはじまり、そしてファッションへ戻る旅」をどうしても見たいと思ったのは、雑誌に載っていた一枚の写真にのせいであった。そこには数体の女性のマネキンが背中にゴジラの背びれのようなものをつけた服を着て反りぎみに立っている姿が写っていた。

会場でそれをみると、疾走する車のようなスピードで風を全身で受け止めている姿であり、それぞれのマネキンの服はちぎれ、肉体の一部が露わになっており、最後の衝突する瞬間を表している姿へと漸進的に描かれているのだという。それはファッションにおいても要求される現代の文明の病とも呼べるような「スピード」の偏重をあらわしているのだという。しかしぼくは、顔をそらして気持ちよさそうに見えるそのマネキンたちの表情に惹きつけられた。

名年か前にこの同じ美術館で三宅一生の「一枚の布」というコンセプトの個展を見た時のような楽しさは感じない。どんなに形を変え、色を変え、素材を変えても結局、服は服、「隠す」と「見せる」の弁証法を繰り返すだけだと、チャラヤンの展示を見ながら少し失望しかけたときである。あるビデオ作品に目がとまった。

それは2005年の「不在の存在」という創作ビデオ作品であった。非英国人の多くの女性たちに服を提出させ、それを洗濯することで持ち主のDNAを抽出し、それにもとづき持ち主の外観を推察したのち、実際の服の提供者と面接し、彼女たちのアイデンティティを確認し、そのDNA配列をマッピングした服を造る。それはロンドンのサウンドスケープを構成するそれぞれの音に反応して変形していくといったSF仕立てのストーリーである。

その映像の巧みさ以上に驚かせるのは、その面接で、たとえば中国人であると確定されたはずの女性が、実は韓国人であったり、日本人であったりするように、身元が確定されたはずの彼女らのアイデンティティの揺らぎを示すことで終わっている点である。

ファッションは空間的にも時間的にも考えられるが、それが着られる現在にその基準を置けば、たとえば「着心地がいい」とか「官能的である」とか「かわいい」とかに評価は留まる。チャラヤンの服の独創性は、彼が対談でも言っている通り、そこに「物語性」という想像力による時間の持続性を服にもち込んだ点であろう。現在目に写っている服と肉体を通してそこにはない過去や未来を想像させるのが彼の服なのだろう。また空間的な移動の実現により着ることが可能になる、つまり、郵便で送られた人がそれを開いて折って着るという名前そのままの「エアメール・ドレス」というのがあるが、これも「物語性」のひとつであろう。

実は、その朝池袋のホテルの近くで見たミニスカートを穿いた青年を見た。ふんわりとした素材のあわい色のスカートにストッキングと靴を合わせた部分だけをみるとよくいる女の子の服装なのだ。ところが上半身は青いジャージのようなものを着ているだけで、髪も普通の男性のそれで女装しているわけではない。まるで「ミニスカートが好き!」と全身で言っているように見えた。いったい彼はあの服装をすることで誰に何を訴えていたのだろう。

ラカンが「人間の欲望は<他者>の欲望である」というときの「<他者>の」という部分には、<他者>の承認を欲望するという意味も含まれていると考えられている。彼は「可愛いミニスカートを穿いた彼」を承認してもらいたいのだろうか? 彼の求める「物語」とはいったい何だったのだろうと今も考えている。(番場 寛)

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