ヤン・ファーブルと舟越桂展(金沢21世紀美術館)

他の展覧会を見たときと前後するのだが、5月25日に、ヤン・ファーブルと舟越桂の展覧会をようやく見ることができた。舟越桂は本の表紙にかれの彫刻の写真が使われているのをよく目にするし、前に彼の製作の過程を描いた記録映画を見たことがある。

ヤン・ファーブルは数年前に彩の国さいたま芸術劇場で「わたしは血Je suis sang」(2007年)を見たことがあるきりだ。その劇は出演者が裸になり血まみれになるというシーンだけを強烈に覚えており、衝撃を受けたが好きな種類の劇だとは言い難い(血が苦手なのだ)。演出家で美術作品も造る人はタデウス・カントールや日本の松本雄吉などいるのだが、ヤン・ファーブルの造形作品は想像できなかった。

今回の展示で戸惑ったのは、無数の昆虫を寄せ集めて人の形を創った「登りゆく天使たちの壁」や人間の骨を輪切りにしたもので人の形を創った「ブリュージュ3004(骨の天使)」のような素材の異様さではなかった。戸惑ったのは、そうしたいかにもかれらしい普通の人の神経をさかなでするようでいて惹きつける、人の奥底にある「不気味なもの」に触れる感じを喚起する作品が、15世紀から16世紀に描かれたベルギーの古典絵画と併置されて展示されている点である。学芸員の人に、これらの絵はファーブルが影響を受けたものなのか、彼の作品の発想の源泉になっているものなのかとたずねたところ、これはファーブル自身がこのように展示するよう指示したものでその意味について、わたしは言えないということであった。

こうした、古典的な作品と現代アートを併置して対話させるという方法は「コントルポワン(Contrepoint)」とよばれる方法でルーブル美術館でとられたものだと図録には説明されている。今回展示されているヤン・ファーブルの作品でまず惹きつけられてのは、16世紀に描かれた肖像画に鼻をぶつけて血を流し、その血が足もとにたまっている写実的な彫刻である。

その彫刻に惹きつけられたのは、その写実性だけではない。タイトルが「私自身が空になる(ドワーフ)」となっていたからだ。過去のすばらしい肖像画に感動して自分のやってきたことが無に思えて思わず自分を傷つけてしまったのだろうか?と題を見たとき思った。この印象は、ファーブル自身が答えているインタヴューによればそれほどずれてはいなかったようだ。かれによれば、この作品は「過去のアートの歴史、先人たちと対決する現代アーティストの立場を即座に伝える」ものであり、「アーティストは(…)自分自身を、己の中身を空っぽにし、新たな思想の余地をつくる」のであり、「出血は浄めとゼロからの再出発の可能性のメタファ」なのだそうである。(図録の54頁より)

他の部屋の展示室でもファーブルの作品は、同じように過去の本物の他人の作品と対峙するように置かれている場合がほとんどだった。そのなかで金色の小さな普通のオウムには「わたしは小さなオウム、決して同じことを繰り返さない」(2006年)と書かれていた。原題はI,the Dwarf Parrot,Never Repeat Myself であり、オウムという繰り返しの動物でありながら、常に新たなものを創造していこうとする意志の表れを過去の他人の作品と対峙させることで表しているのではないかと思った。

(先日亡きピナ・バウシュの「私と踊って」を観に行った時、会場で渡されたチラシでヤン・ファーブルのダンス「またもけだるい灰色のデルタで―」を9月に名古屋で、そして兵庫でも行うという知らせを見つけた。是非観に行きたいと思う。)

ではこの「金沢21世紀美術館」の企画したもうひとつの「コントルポワン」、つまり舟越桂の作品との併置はどのような効果を上げていたのであろうか? それについては次回に譲りたい。(番場 寛)

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