言葉の力― 舟越桂展を見て(続き)

東京で学会のついでに4つの展覧会を見て京都に帰った翌日のことだ。烏丸通りで信号を待っていた時、向い側で待っている数人の女性を見て一瞬だが、自分はどうしてしまったのだろう?と思った。そこで待っている彼女たちは何を表しているのだろう?何を意味しているのだろう?と思ってしまったからだ。

すぐにその理由は分かった。現実の人間を見ているのにまるで美術館の絵か彫刻を見ているように見ていたのだ。現実の人間はそれぞれの意志なり欲望で動いていて、「作者」と呼ばれる他人によって動かされている訳ではないからだ。自分の眼がすっかり美術館にいるときの眼になっていることに気づいた。

金沢21世紀美術館で舟越桂の作品を見てまず感心したのはその作品自体の存在感とともにそこにつけられたタイトルの見事さである。美術作品はまずそのもの事態と対峙し、それ自体が見るものに迫ってくるものを受け止め、その次に作者の意図や作品の意味に思いを馳せるべきなのであろう。しかしタイトルの重要さは、20世紀の芸術の概念を根本的に変えた「レディメイド」と呼ばれる作品のひとつであるマルセル・デュシャンの「泉」という作品(?)を考えてみるだけでも明らかである。R・MTTと署名しただけの男性用便器が「泉」とタイトルをつけられ、美術館に飾られたことで観客はそのように見るよう強いられるのだ。

強い光を放っているのに無表情であるがゆえにさまざまにその思いを想像させる顔、思わず掌をそこに滑らせたくなるような潤いを感じさせるふくよかな胸、見ているだけなのに伝わってくる全体のボリューム感。彫刻作品はそれだけで満ちている。しかし、それが「なぜ」と思わせるのは、そこにつけられたタイトルのせいだ。今回の展示ではタイトルは彫刻から離れた壁に貼られている。したがって観客はどちらが先か知らないが、それぞれ彫刻とタイトルを見て、二つの関係を考えさせられる。たとえば左肩に小さな木片がついた男性の彫刻を見るとき、その木片は何を意味しているのだろうと思わずにおれない。タイトルの「肩に残る声」という言葉を見たとき不思議だが、これ以外のタイトルではありえないと思ってしまう。同じように肩に小さな建物のようなものをのせた彫刻に「言葉の家」とつけられているのを見ると、その彫刻として作られた人物が「言葉」で満ちた場所を身近に保持しているということを表しているだろうかと想像を巡らす。

この美術館に行ったら試してみたらいいと思うのは、タイトルを見る前に彫刻だけを見てどのようなタイトルが考えられか自分でつけてみることだ。それを試みればいかに舟越桂が優れた詩人でもあるかが分かるであろう。椅子に座った男の左腕だけが回転するように体につけられているものは「急がない振り子」と題されている。椅子に座っているから急がないのか、などと考えてしまう。不思議だがタイトルと彫刻を見比べるとその必然性に納得させられる。

実は今、三宅先生がこのブログで紹介しておられた大谷大学博物館で開催中の「インド・仏教美術の流伝」を見てきたのだが、その仏像群を見ながら思ったのは、これらに別のタイトルをつけるとしたらどのようなものが考えられるか?ということだ。破壊されて手だけ展示されたものや、イスラム教が入ってきたときに顔が破壊されたものなどを見ていると、舟越桂が普通とは違った位置に手をつけたり腕を省略したりしたものを思い出してしまう。これらの仏像に、もし「乾ききった悲しみ」とか「泡立つ言葉」などのように作者がタイトルをつけたらそのように見てしまうのではないかと思うのだがどうだろうか? 

「ヤン・ファーブル×舟越桂展」は素晴らしいが、大谷大学博物館の仏像たちも考えされられるので皆さんお勧めです。(番場 寛)

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