「無常」と「本性」

T.H. さんが事故で亡くなられてからもう一週間がたとうとしている。昨日彼女のご家族が全員で大学にご挨拶にお見えになり、門脇先生、木越先生、松浦さんと一緒にお話をうかがった。
 
お父様からお聞きする、彼女の京都での活動はぼくの予想以上だった。それはご家族も知っていた京都での音楽活動以外にも、事故の際にも壊れずに残って再生できた彼女のスマートフォンに残されていた記録を見て明らかになったことだ。彼女が授業を休みがちであったのはアルバイトのせいだけではなかった。教師から見れば欠席や遅刻が目立つ、あまり感心できない学生だったかもしれないが、DJをやったり、コンサートをやったり、年代も国籍も異なる多くの人とも話したり、絵を描いたり、日々を精一杯生きていた姿が浮かび上がってきた。短い人生だったかもしれないが、彼女は人の何倍もの生を燃焼しつくして亡くなったのだ。 ひょっとして彼女こそ、ぼくが自分への戒めとして、学生たちにことあるごとに言っている「半径一メートル以内の好奇心から自由になった」人だったのかもしれないなどとも考えた。
 
彼女が残した写真をぼくたちに見せながら彼女のことを語り続けられるお父様の話をこちらは聞くばかりである。門脇先生はご自身が暁天講座で紹介した西田幾多郎が子を亡くした親の気持ちについて書いた文章をお父様に渡されていた。ぼくが考えるのは、暁天講座の二日目に織田先生が果物のマンゴーの例を出して説明されていたことである。織田先生の言われたように、種から芽が生え、木となり実となる過程は、確かに「無常」であり、それでいて、どんなに姿、形が変化しようともいずれもマンゴーであるという「本性」は変わらないかもしれない。
 ではT.H.さんの場合はどうなるのだろう。生まれて成長しそしてあるとき急に亡くなった。これは確かに「無常」だろう。ではT.H.さんの「本性」といったものはどうなるのであろう。彼女の死とともに無くなるのだろうか? 死後ももし残るとしたら彼女の「本性」とは一体何なのだろうか?
 
それは彼女が時間の中で生き、行動していく過程で造り上げていった他の人との関係の網の目ではないだろうか? T.H.さんの「本性」とはご家族や学友を初めとする数多くの人との間に築いていった関係の総体のことだと思う。
 
サン・テグジュペリの『星の王子様』で、ようやく強いきずなで結ばれ王子と友だちになれた狐は、王子と別れる時には泣いてしまうだろうと言う。それじゃなにもいいことなんかないではないかという王子に狐は、「麦畑がある」と答える。つまり王子がいなくなっても麦畑を見れば金色の髪をした王子を思い出すことができ、王子との間に結んだ絆はたとえ王子がいなくなったとしても消えないということを言っているのだ。

T.H.さんが亡くなってもその彼女が23年の人生で築いた他の人との関係、つまり彼女の「本性」は残された人々の記憶として残り、ぼくをも含めた他の人の「本性」をも形成し続けることと思う。(番場 寛)

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