「老女?」の「性」(映画「百合祭」を見て)

「腕が二本あったら一本は人のために」。誰が言ったのかは忘れたが、とてもいい言葉だと思う。実は左の手首をねん挫してこの一週間不自由を強いられ、人を助けるどころか自分一人の身もままならない生活が続いている。幸い骨の方は大丈夫だったのだが、病院で巻いてもらったギブスのようなものは、この暑さには辛く、3日目で取ってしまった。起きてから寝るまで普段意識してなかったひとつひとつの動作を工夫し、時には左足を使ったりして行っているが、使えない左手に普段いかにお世話になっていたかを思い知らされるとともに右手を使えることのありがたさを感じたのだった。何かを失うことによってしかその本当の価値が分からないとは悲しいことだろう。
 
そんななかで、浜野佐知監督の、尾崎翠の原作をもとにした「こおろぎ嬢」と、同名の小説をもとにした「百合祭」を観た(京都シネマにて)。実物を見てしまうと想像力を働かせる自由がなくなってしまうため、それについて書けなくなってしまう「詩人」は、わずかの期間滞在しただけの旅人に片想いをしている少女の姿に恋を感じてしまう。すべての登場人物の交わすことばは会話でありながらモノローグのように自己の世界(「妄想」とも言える)を増殖させる。観念をそのままぶつけることで生まれる、何かちぐはぐで滑稽なユーモアは、現代では鹿島田真希の小説の会話を思い出させる。
 
映画が終わった後にトークでも説明されたが、少女と男が木になっている柿をもぎ、つぎからつぎへとむしゃぶりついて食べるシーンはすべてがストイックに描かれた映画なのにどうしてこれほどと思うほどエロチックであった。
 
トークのときに初めてこの映画の監督、浜野佐知さんがいままで300本ものピンク映画を撮った監督だということを知った。生活のために撮りたくないものを撮っていた監督がようやく自分の撮りたいものをとることができるようになったのかと思ったが、彼女自身が書いた『女が映画を作るとき』(平凡社新書)によると違った。彼女は「ピンク映画は、唯一『性』とまともに向き合えるジャンルではないか。ここでキチンと『女の性』を描こう」(40頁)と思って撮っていたのだ。

「ようするにババアのセックスの映画です」と浜野監督自身がちゃかした口調で紹介した、「百合祭」という作品も「性を女性自身の手に取り戻す」ために撮ってきた延長線上にある作品だということが観てよくわかった。
 
独身の老女だけが住んでいるアパートに一人身の魅力的な男性の老人が引っ越してきたところから話は展開する。映画を観る前は期待とともに不安も強かった。見つめるべき真実でありながら、自分に老人の性を正視できるだろうかという不安であった。しかし主人公を演じた吉行和子の美しさと演出の見事さで、たとえばこのブログでも前に扱った(「セイの美しい醜さから目をそむけないで」)映画「空気人形」のペ・ドゥナの映画史に残る美しい性交の場面にも引けをとらない、性の悦びに満ちた映像となっていた。
 
映画をまだ観ていない人のために筋は省略するが、主人公(吉行)の見た夢として何回か繰り返される場面がある。それはそこにすんでハーレムのような性の交流を行う男性が白雪姫のかっこうで立ち、その周りを老女たちが老人の小人のかっこうで踊るという場面である。
 
タイトルに「百合祭」とあるが、主人公が初めて男性の老人と交わったときに飾ってある百合の花の開く音を聞く。普通「百合」はレズビアンの象徴とされているのだが、と思っていると最後に驚くことに主人公は同じアパートに住む別の老女と一緒に旅をし、ホテルに泊まり、彼女との性の交わりを暗示して映画は終わる。そこに至るまでの主人公におとずれる意識の変化は、「わたし思うの。この年になると男だとか女だとかはどうでもよくなるの」(記憶で書いています)という台詞で表されている。

あるとき急に片手が使えなくなるように、だれでも「老い」ということでいままで普通にできたことができなくなっていく。そのとき「性」はどのような意味を持つのであろうか?
そしてこの映画で描かれた「性」はどのように語ることができるのだろうか? 主人公が初めて老人を受け入れて抱かれるときの顔の表情はまさに「享楽」という言葉しか思い浮かばない。ただ「享楽」とは何だろう? 「享楽」と訳されるラカンのjouissanceジュイサンスという語は、「快楽plaisir」とは異なり「快」と「不快」が同時に押し寄せるような強烈な体験であると同時に、jouit sensジュイサンス(「意味」を「享楽する」)とも解されように言語と身体との関係によって生み出される体験でもある。

「享楽」には図式的に言えば、象徴化された性器の働きをするものによって生み出される「ファルス享楽jouissance phallique」があるが、映画の中での男性の老人とその相手をする老女たちの直接経験する享楽がそれであろう。何度か映しだされる百合の蕾はそのままファルスを示している。

しかし映画はその先にまで進んでいると思う。「男性」「女性」という区別がなくなっても「他者」と交わりたいという「欲望」が残ったときそこに生まれる最も強い「享楽」が「<他者>の享楽jouissance de l’Autre」ではないだろうか? そしてそれでも汲みつくされないものとして、残るものが「剰余享楽le plus-de-jouir」であり、映画の最後はこの享楽を暗示して終わっているように思える。この映画を創った浜野佐知監督のこれからも推し進められる性の探求に期待したい。 (番場 寛)

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