都会で育った人の感想が聞きたい(纐纈あや監督「祝(ほうり)の島」を観て)

この映画を観たのは全くの偶然であった。エアコンで冷やされた部屋から、猛暑の街中を歩いて映画館にたどり着くのが遅れ、最初見ようと思っていた「キャタピラー」が満席でこちらを何の期待も抱かず観たのだが、最初はある懐かしさを感じ、そして次第に考えこんでしまった。
 
これは瀬戸内海の祝島という離島の近くに建設予定の原発に対しそこの住民によって28年間も続けられている反対運動、1000回以上にも及ぶ反対デモの現実とともに、その島に住む人たちの日常生活を映しだすことにより、かれらがなぜそれほど執念をかけてそうした反対運動を続けているかを誰の目にも分かるように映しているドキュメンタリー映画だ。
 
実はこの数日間、実家の田舎で過ごし、まるで無重力から急に重力のある空間に入ったかのように重い感情に囚われたのだった。墓参り、近所や親戚への挨拶まわり、訪ねて来てくれる親戚との会話。一年間止まっていたもう一つの時間が急に流れ始め、その激しさに戸惑った。 思えば、都会の、それもマンションでの生活は無重力の宇宙船を漂っているかのようなものかもしれない。
 
そんな田舎から帰っただけにこの映画の印象は強烈であった。まっさきに目に入ったのは、トントンとゆっくりとした音をたて、車も通れない道をリヤカーを引いて走る耕運機である。ゆっくりと走り、歩いている人を簡単に乗せることもできる。思わず懐かしさがこみ上げてくる。これは自分の育った田舎ではおそらく40年以上も前の風景だろう。自分の田舎では、それがやがてトラクターになり、移動するのは車に変わったのだった。隣近所と常に声を掛け合い、挨拶を交わし、頻繁に集まり歓談する。これらはぼくの育った田舎でも40年かそれより昔には見られた風景だった。
 
祝島の人たちにとって様々な海産物を提供してくれる海は、先祖が岩を切り積んで造った棚田でのイネとともに命の源である。映画を観ていると、原発を造ることにより漁業ができなくするということは、いくら金により経済的に償ったとしても、そこの土地の自然と海とともにではなくては生きられない人たちから生を奪うことだと分かる。
 
このすばらしいドキュメンタリー映画で一つ残念な点があるとしたなら10パーセントにすぎないと言われている原発推進派のひとたちの言い分を入れてない(あるいは映せなかった)点であろう。この猛暑の中エアコンのため多量に使う電力はつねに産み出されている。映画で祝島のひとたちが集まってテレビでNHKの紅白歌合戦を楽しそうに見ている場面も映している。文明の発達は人に多くの新たな喜びを与えていることも忘れてはならないだろう。しかしそのために一部の人びとの生活を奪ってはならないことも明らかだ。
 
これを観ていてこうした問題は、普天間基地の問題を初め、全国に広がっている問題だということに気づいた。遠く離れた海に原発ができたことでぼくの田舎も電力会社からわずかながら補償金をもらっている。そうしたことも含めて、ぼく自身がこの無重力のような生活を送ることで失ったものがあまりにも多くこの映画には描かれている。

しかし、これは決して政治的でもエコロジーの映画でもない。この映画は人が置かれた環境の中でどのように生き、他人と交流しているかを問いかける映画だと思う。この映画は都会で生まれ育った人にこそ観てもらいたい(「京都シネマ」で8月27日まで)。みなさんはどのように感じるだろうか? (番場 寛)

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