第12回国際チベット学会

8/16〜8/20までの5日間、カナダのバンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビア大学で開催された第12回国際チベット学会に参加しました。昨日(20日)学会が終わり、今バンクーバー市内でこの記事を書いています。

チベット/チベット文化圏という地域を対象にする仏教学や宗教学、歴史学・言語学・民族学など様々な分野の研究者が一同に会するこの学会は、会を重ねるごとに参加者が増加し、今回は300人を越えたようです。その巨大な大会を円滑に円満に運営したブリティッシュ・コロンビア大学Institute of Asian ResearchのTshering Shakya氏をはじめとするスタッフの苦労は計り知れないものだったと思います。この場を借りて感謝します。

大会は、毎日8時30分から10時30分まで参加者全員の集まるPlenary Sessionで始まりました。そこで4人ほどの人が発表し、休憩をはさんで11時から各パネルの開始。パネルは昼食(13時〜14時)や休息をはさんでだいたい17時〜18時まで続きました。こうした大きな学会の常で、聞きたい発表がバッティングすることもしばしば。また、久しぶりに会った人とつい話こんでしまい、聞きたい発表の開始時間に遅れることもしばしばでした。

日本からは若手を中心に10名ほどが参加していました。

私は、大会初日の16日の午後に「པཎ་ཆེན་སྐུ་ཕྲེང་ལྔ་པ་ངོས་འཛིན་བྱས་ཚུལ་གཙོ་བྱས་དུས་རབས་བཅུ་དགུ་པའི་སྟོད་ཀྱི་བོན་པོའི་གནས་ཚུལ་རགས་ཙམ་བརྗོད་པ་(パンチェン5世の承認を中心とした19世紀前半におけるポン教の状況)」というチベット語による発表をしました。パンチェン・ラマ5世(1855–82)−−数え方によっては8世−−は、「ドゥ」というツァン地方のトプギェルという場所にいた重要なポン教の家系にうまれました。ドゥ家に生まれた彼がパンチェン・ラマに承認され、その父母ともどもタシルンポに移ったことにより、ドゥ家の家系は途絶えたとされています。家系を重視するポン教にあって、重要なその家系が途絶えるのは一大事であったはず。幸いにも、当時活躍したカルル・ドゥプワン(1801–?)やニマ・テンジン(1813–?、ポン教の総本山メンリ寺の23代僧院長)、ダワ・ギェルツェン(1796–1862、ポン教学問寺ユンドゥンリの創建者)、さらにはシェーラプ・ユンドゥン(1838–81、メンリ寺の25代僧院長)などのポン教僧の伝記や、パンチェン・ラマ5世の伝記など数多くの史料が残っているので、それらによりながら、とりあえず、ドゥ家に生まれた子供がパンチェン・ラマとして承認されるまでの経緯とそれにかかわるいくつかの事柄についておおまかにまとめて発表しました。

全体のプログラムやアブストラクトはこちらからダウンロードできます。↓

http://www.iar.ubc.ca/programs/ctsp/iats.aspx

会場となったブリティッシュ・コロンビア大学は広大で、構内にある宿舎から朝食の会場まで10〜15分、その朝食の会場から総会の会場まで5分〜10分かかるほどでした。

宿舎からは大平洋が見えました。

先ほど、大会は「円満に」と書きましたが、2日目だったかの夜にちょっとした事件が起きました。夜、大学内の宿舎に向かっているとサイレンの音が聞こえます。サイレンの主は宿舎の前に。タバコの煙に反応したのか、はたまた誰かが誤ってスイッチを押してしまったのか、火災報知機が鳴り、建物の中にいた皆が外に逃げ出し、消防車が来ていたわけです。

ともかく、大きな「お祭り」が終わりました。

(三宅伸一郎)

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