「日常」は演劇にできるのか?(宮部純子「あさおきてからよるねむるまで」壱坪シアターにて)

三宅先生の学会報告のお知らせを第一面から送ってしまうのが残念なのだが、ぼくも今日からパリに出発し、「国際ラカン協会」の夏のセミナーに参加するため多分しばらくここに書けないと思うので、21日の特異な観劇の経験を書いておきたい。

この一人芝居を見ようと思ったのは、住んでいるところから数分にある「壱坪シアター」という劇場で演じられるという触れ込みに惹かれたからだ。壱坪の劇場なんて演じられるのだろうか? 観客は入れるのだろうか? いやがおうでも好奇心を掻き立てられた。実際は6から7畳ほどの演じる空間と、椅子が10個程度並ぶ客席からなる劇場で、壱坪ではなかった。

そこで演じられたのは宮部さんが、目覚めてから会社で働き、お昼を食べ、帰りにコンビニに寄ってから帰り、寝るまでの、彼女と等身大の若い女性の一日を写実的に一人芝居で演じたものだ。

なんの変哲もない、普通の一日の十数時間をわざわざ40分ほどの劇にすることに価値があるのだろうかと最初考えた。しかし子供のおもちゃの人形を相手に輪投げをすることで、会社での仕事を比喩的に表した場面は一人芝居なのにダイナミックだと思った。それは人形に顔があることで対話と同じものが、観客に直に伝わったからだと思う。巷では「ロボット演劇」が話題になっているが原理は同じだと思う。

終わってから下の部屋でこの劇場のオーナーの松浦さんを交えて観客(全部で9人だったと思う)としばらく話した。彼、彼女らからは劇を演じることの喜びが伝わって来た。今はともかく、一生演じることの困難さは自覚しているようなのだが、それなりの訓練に耐えた人が何とか演劇を一生続けられる方法はないのだろうか?

鑑賞に堪えられる劇を創るには、役者に長時間にわたる思考と肉体の訓練を可能にするだけの経済的保障がなければならない。たとえばあの壱坪シアターでそれを可能にするには役者が別の方法で経済的に自立するか、一人当たりのチケットの値段を高くしなくてはならないだろう(驚いたのだが、実際は、松浦さんの話では使用料はふた部屋で一時間2千円だそうである)。それができるとしたら普通の劇場では絶対に観ることのできない劇を演じなくてはならないのだろう。たとえばこのブログは幸いなことに少なくても必ず読んでくれる人がいる。数名、いやたった一人の人に書くブログだって考えられるだろう。同様に、数名、あるいは一人のために演じられる劇だって可能であろう。

都会のど真ん中の一室で、現実とはまったく違った空間が俳優と観客とで創られていることを他の人にも知らせたい。また、自分もいつかあそこで驚くような空間を創れたらと思う。

ぼくはしばらく書けないと思いますが、他の先生が書いて下さることを期待しています。皆さんお体に気をつけて、残り少ない暑い夏をお楽しみください。(番場 寛)

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