禁じられた享楽としての「去勢」(松井周 作・サンプル「自慢の息子」を観て。精華小劇場にて)

 舞台で息子を演じたヒゲの俳優(古屋隆太)をみるまでこの劇団、「サンプル」が今年、「マレビトの会」が「ユビュ王」を演じたとき松田正隆との対談にまねかれた松井周の劇団だということは忘れていた。
 
この劇の面白さは展開が読めないことだ。年配の母親と30歳は越えたかに見える独身の息子が一人で暮らしている。父親はすでにない。ましてや題が「自慢の息子」である。これだけで寺山修司の劇を初め、今まで何千回、何万回と繰り返されたであろう「母と息子」の恐ろしくも強い絆の物語が展開されるのだろうと観客は思ってしまう。確かに最初の設定は母親が息子に嫁を見つけなくてはと思い、息子もそれを望んでいるところから始まる。
 
しかしそれがそう単純でないと分かるのは、その親子とは関係のない、お互いに愛し合っている兄と妹の設定があるからだ。コールセンターの仕事に疲弊しきったからだと本人は言うが兄と駆け落ちする口実に過ぎない。近親相姦を避けながらも互いに永遠の愛を誓うというまさに「享楽」の禁止を生きている。
 
そういった意味での「去勢」は例の「母と息子」の間には行われているのだろうか? 母親は「もう子離れしなくては」と言い、若い男と簡単に関係を持とうとする。息子も、はやく「妃(妻)」を見つけてくれと頼む。しかしこの「母親に頼む」というところに二人の絆が異常なくらいに強いことが示される。つまりこの二人も「禁じられた享楽」を危ういところで生きている。しかしそこには現実的にだけではなく、想像的にも、象徴的にも父親は不在であり、「去勢」は行われてないように見える。

悲劇なのか喜劇なのか分からない展開のなかで、愛し合いながらも決して互いに触れないと誓った兄と妹は、耐えきれず、想像上の人物になりきって性的な接触を持つ。影絵として映し出されるのは横たわった兄の性器にふれるシーンだが、驚くのはそれをもぎとってしまうことが何回か繰り返されることだ。単なる笑いをさそう狙いなのか、「去勢」ということを、象徴的ではなく想像的に描こうとしたのか分からない。
 
しかし二人はやはりそうした関係に耐えきれず、別れる。そこで関係してくるのが、「陽」と呼んでいるが一度も登場しないし他の人物もその姿を観たことのない息子と一人で暮らしている「隣の女」である。太陽の光が嫌いで人前に出ないという自分の息子を女は「名前は陽なのに陰だ」と言う。他の人物も一度も見たことはないという。その息子「陽」をファルスとみなす誘惑に駆られる。松井に精神分析の概念を説明しようという意図はないとは思うが、母の欲望のシニフィアンであり、子供が最初は自分がそれに当てはまると思い、やがて「父―の―名」の出現のもとに、自分は母親にとってファルスでもなければそれを持ってもいないと自覚させられる挫折の体験、それがラカンのいう「去勢」だとしたならこの劇においては「去勢」は行われてないように思える。
 
この劇で一番驚くのは、妹と別れた兄が、隣の女の息子の「陽」になりたいと申し出るところだ。つまり妹に「去勢」された筈のかれは、母親のファルスになろうとするのである。
 
すんなりと図式にあてはまらないから劇としては面白いのだが、身にまとうだけでなく、身全体をそれで覆って隠れたり、そこに映像を映したりと「布」のもつ特性を最大限に利用した工夫はまさにサンプルsimple(フランス語だったら「単純な」という意味)で見事だ。
 
観ているときにはまったく展開が読めないのに、二組の母と息子(一方は息子が不在)の関係が相似形として重なってきて、終わってみればまさに「自慢の息子(=ファルス)」という題がすんなりと説得力を持つ素晴らしい舞台であった。この劇団のこれからの活躍が楽しみだ。                (2010年9月28日。番場 寛)         

 

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