生まれて初めて演じたキャットウオーク(ヤン・ファーブルの団員のワークショップに参加して)

 コンテンポラリーダンスには興味があって数年前から初心者向けのワークショップには機会があるごとに参加していた。今回観たダンス作品を制作したヤン・ファーブルJan Fabreは攻撃的、挑発的な前衛的な舞台で世界的に評価されているが、数か月前、このブログでも扱ったが「金沢21世紀美術館」で彼の美術作品も観ておりその才能の幅の広さに驚いたのだった。
 
AIホールで、2008年の作品「またもけだるい灰色のデルタデーAnother Sleepy Dusty Delta Day」を9月23日に観たのだが、その後28日、29日の両日18時から22時まで、ヤン・ファーブルの劇団の舞台でパフォーマンスをしているというマリーナ・カプテーンがダンスのワークショップをするというので参加した。
 
参加者15人のうち男性は自分を含めて3人、年代的には自分と同じ程度に見える婦人が一人ともう少し若く見える女性が一人いるきりで、あとはみな20代に見える。ウオーミングアップでヨガをやったのだが、これがきつく音を上げ、始まったばかりなのに終わりまで耐えられるのか心配になる。
 
最初は先日演じられた「またもやけだるい…」を観ての参加者の感想を聞き、観ての疑問に答えるところから始まった。ぼくは自分の見方を確認した。舞台に積まれた石炭は、23日に行われた藤井慎太郎先生の説明で知ったことだが、ベルギーの主要な産業であった石炭を表しており、舞台にいくつも吊るされた鳥かごに入ったカナリヤは、炭坑で酸素があることを確認するための動物であるがそのためなのか? と質問したところ、そうだが、同時にカナリヤはベルギーでは、それを飼っている人は孤独に生活している人と見られており、籠に入ったカナリヤは「孤独」の象徴でもあると説明した。
 
ワークショップのテーマのひとつは「ファーブルの作業における『反復』『狂気』『ディシプリン』というものだ。執拗に「反復」を強いられると生身の体は次第に疲労するため次第にずれてくるという。ぼくの言葉に翻訳すれば、どうやら「反復」によって生じてくる「差異」にリアリティを求める狙いなのではないかと思った。参加者からも質問が出たが、分からないのは「ディシプリン」である。ぼくはそれは「拘束」のことかと聞いたが、マリーナはrestriction(制約、決まり)のことだと説明した
 
この「ディシプリン」はワークショップでは次のように実行された。10メートルくらいの空間を4等分し、そこをまっすぐ歩くのだが、それぞれに25、50,75パーセントという目安をつけ、しかもそれをゼロのレベルから終わりの100パーセントまで漸進的に感情を内部で変化させそれを身体で(動作や声で)表現しながら歩くというレッスンであった。「怒り」「幸福感」「愛」など徐々に感情を高め、それを身体で表現するというのは難しい、しかも100パーセントの線を越えたとたんに正反対の感情に基づく表現をするようにと指示が出された。
 
疑問が生まれた。「ファーブルのパフォーマンスは心理学に基づいて演じるのではなく、身体性に基づくものだphysical」というのだが、心理的に高めそれを身体で表現するというのは結局それも、心理学的な表現とそれほど違わないのではないかという疑問である。マリーナの答えはこちらを納得させるものではなかった。彼女はそのファーブルのいう「身体」「physical」ということについて次のように説明した。
 
ファーブルは「身体」を「physicalな身体」「エロチックな身体」「スピリチュアルな身体」「機械的な身体」という側面から捉えていると説明し、レッスンはそれぞれを実践するという形で行われた。

そのうちの「エロチックな身体」というレッスンで生まれて初めて、そしておそらくひと前でやることはもう2度とないであろう「キャットウオーク」をやらせられた。背筋を伸ばし、「女性性を最大限に発揮して」という指示のもとに、胸を突き出し、お尻を誇張気味に左右に振りながら歩く、あのパリ・コレでスーパーモデルたちがやるあれだ。恥ずかしさは消えており、それどころかある種の快感が湧きあがってくる。

レッスンで指示されひとりずつ行った演技・ダンスで一番面白かったのは、言葉を使わないでパフォーマンスだけで自己紹介を行うというものである。年配の女性は離れたところに横向きにすわり茶道のしぐさをした。その美しさにはっとした。注意されても言葉を交えて自分の秘密(例えば、乳首が4つあるということなど)を語る少女を観ていると、みな自分を表現したい欲求が強いのだなあと感心する。ぼくが何をやったかはヒミツ。

二人組になってやったもので観ていて面白く、みなさんもどこかでやったらいいと思ったのは、「機械的な身体」のレッスンで、ひとりが機械になり、他方がそれを操縦する役を演じ、次第に機械の動きが激しくなり、しまいには制御不能になるという動きを演じるものである。

自分の身体の内側と外側に常に意識を向け、「見られている身体」をいう緊張を保つこと。表現するときにはある部分に集中することでその効果を高めることができる。制限のないところに自由はありません。… 
 マリーナの言葉は実際に自分でやってみると本当にその通りだと実感できた。また言葉により自分の想像力を高め、それを身体に反映させる方法は、いままで参加してきた他のコンテンポラリーダンスの方法と同じだとも思った。

他人の踊るのを観ていると、うまいと見える人とは、静止した姿が美しい人であり、その静止と静止をつなぐ動きがその美しい静止を形成しているのだということがよくわかる。

ワークショップの翌日の授業のことである。教壇に立っているとなぜか両腕が後ろに引っ張られるような感覚がし、なぜだろうと考えたら。前日のワークショップで「籠に入れられたカナリヤ」を演じさせられたときに、羽根のつもりで両腕を後ろにしていたからだと気付き自分で笑いそうになった。非常にきついワークショップであったが、身体感覚だけでなく、心もどこか変容したような気がする。みなさんもコンテンポラリーダンスを踊ってみませんか?   (2010年10月2日、番場 寛)

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