「死」へと向かうダンスと言葉(山田せつこ、ヤン・ファーブル、KIKIKIKIKIKI)

 10月2日以来重苦しい気持ちが続いていた。それはKIKIKIKIKIKIの二つのソロを観たときトークショーで自分が発言したことのせいだ。このブログで前に扱ったが小津安二郎の「生まれてはみたものの」という映画に触発されて創られたダンスを観て面白いと思ったので、ソロではどのように踊られるのだろうかと期待したからだ。最初はボーヴォワールの『ある女の回想』という作品をダンスにした野渕杏子の作品であり、本人の説明では、ある老婆が死に立ち向かい最後の生の輝きを放った後死ぬというものをダンスで表現したものだという。見ていて緊張の続くのが長すぎたかなとは感じたが、表現への意志は確実に感じられた。

問題はそのあとの『カニ女』と題された花元ゆかのダンスである。冒頭いきなりピンクの大胆な服装でAKB48の曲に合わせてアイドルと同じようなダンスを踊ったからである。「カニ女」とは自分の容貌にコンプレックスを抱いている女性をさすネット用語だということで、そうした自己そのものを笑い飛ばして前向きに進もうということを表そうとしたのだとちらしには説明されていた。

トークショーでこれは言わずには気が済まないかのように、「もっと頑張ってほしい。何を表現しようとしているのかわからない」などと言ってしまって後味の悪い思いをした。言ったことは今でも正しいと思っている。その場にはAKB48のダンスを見に来ている人はいない筈なのだから、あえてそのダンスを「引用」するからにはそれに憧れて踊る人物を対象化し、そこから距離をとらなければ、言いかえれば、コンプレックスそのものをダンスで表現してそこからの解放を表現しなければ、ダンスが「表現」になり得ていないと思ったからだ。

しかし後味の悪さは、精一杯踊っている若い女性の意識をおそらく挫いてしまったのではないかと思ったからだ。タイトルをつけたなら観客はそれがダンスでどのように表現されるのかという期待を抱いて観るのだと思うが、ずっと「言葉とダンス」について考えている。

そんな中で観た山田せつこの「薔薇色の服で  無数の影と会う」という作品はヴァージニア・ウルフの『波』という作品に触発されて創られたもので実際にそのテクストの言葉が自分の著書『速度の華』からの言葉と同じく、自身の口から、そして録音されて朗読として流れるもので、「言葉とダンス」の問題をよりつきつめたものとなっていた。

最初は舞台で山田が立ったまま体をゆっくりと揺らすところから始まった。それを観ていて退屈さとは反対の感情のまま強烈な睡魔に襲われた。自分だけではなく隣の男性は熟睡していた。次第に踊りへと変化していくのだが、動きはどれも微細で、腕から先の掌に集中し、片方の手首を握ったり、両方の掌を開き蝶のように動かしたりする。普通に踊ろうとすると左右対象に体を捩るように動かすのが自然なのだが、あえてそれに抗うような動きをする。

「踊っているとき、ふっと思うことがある。これは、たったひとりで死んでいくためのレッスンではないだろうかと」。自身のテクストの言葉がこのダンスすべてを説明しつくしているような気がした。野渕の作品では言葉は使われなかったがこの作品では前面的にテクストが使われ、しかも踊りながら山田自身の口から発せられた。

舞台後方の中央には木屑を敷き詰められた四角形の空間があり、闇の中で光を当てられ黄色く浮かび上がっている。彼女が踊るたびに木屑は蹴散らされて散らばり、暗闇に広がる。狙いは分かった。動きは微細でもそれを、時間を遅らせたり空間的に増幅したりして見せることができる。例えばピナ・バウシュの劇団の女性ダンサーの長い髪の動きや衣装、そして晩年の作品でよく用いられた水たまりも同じ効果を狙ったものだ。蹴散らされ飛び散る水はダンサーの動きを増幅して見せていた。

儚く一瞬一瞬に生まれては消えていくダンスの動きは生そのものだ。その生の痕跡を目に見えるものとして示すこと。暗闇に広がる散らばった木屑は山田のダンス、死へと向かう生の輝きの痕跡なのだろう。死を想定したときの享楽の名残としての悦び。まったく偶然だがラカンの「剰余享楽」という言葉が浮かんだ。

ヤン・ファーブルの「またもけだるい灰色のデルタデー」も全面的にテクストを挿入したダンスであった。その劇団のワークショップに参加して思ったのは、踊るために身体を動かすためには想像力を高めなくてはならない。想像力を高めるのは「言葉」だ。その言葉を、複雑で深い内容のテクストに求めるのは理論的にかなっているのだろう。

ではぼくの好きなラカンの言葉の幾つか、たとえば「愛するとは自分の持っていないものを与えることである」とか「わたしがあなたにあげるものを拒否するようあなたにお願いする。なぜならそれではないのだから」というような言葉だってダンスで踊ることができる筈だ。だれか踊ってほしい。(2010年10月10日、番場 寛)

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