愛も政治も「言葉のインフレ」なのだろうか?(「ポリティクス!ポリティクス! アンド ポリティカル アニマルズ!」現代版「リア王」を観て)

 もう数年前のことである「火曜講座」という名の市民向けの演劇のワークショップに参加していたある日のことである。その日講師を担当したのは、「静かな演劇」と呼ばれるジャンルで活躍していた鈴江俊郎であった。その日のテーマは、確か「政治について語ろう」であったと思う。
 
すでに若者が政治に関心を失って久しい時代において、演劇のワークショップで政治を語るとはどういうことなのだろうと思った。実際は、鈴江が自分の劇団で政治をテーマにした演劇を創ろうとしても団員がついてきてくれないという嘆きの吐露と、自分が市役所勤めをしていたときの政治との関わりの経験の披露でワークショップは終わった。

今回Politics!Politics!and Pilitical animals!という劇(エイチエムピー・シアターカンパニー)を観にわざわざ伊丹(AIホール)まで行ったのは、現代において困難であると思われる「政治」をどのように演劇で描いているのかという興味があったからであり、さらには、ヤン・ファーブルの団員のワークショップを一緒に受けた女性の一人がこれに出演し、もう一人が製作スタッフとして参加しているから是非観て欲しいと言われたからだ。
 
これはシェークスピアの『リア王』を現代風に書き換えた岸田理生の『リア』という戯曲をさらに書き換えた作品だという。振り返ってみれば、劇の最初のシーンがこの劇のすべてを説明していたように思える。「台所」に見える部屋の前の床の上には、小さな立方体が無数に並べられている。街を俯瞰したときの一個一個の家のようにも見える。それを登場人物が拾い上げて積み重ねていく。やがてそれは大きな椅子になる。
 
うまい言葉で言いくるめて父王の愛を獲得した姉は、みじめな姿で帰って来た父を追い返し、やがて彼を殺害し、彼の「玉座」を奪い自らが王として君臨する。演出の笠井友仁の説明は明確であり、この舞台上に組み立てられた「椅子」とは「権力の象徴であると同時に、ヒトが文化的な生活を営むうえで、必要なシステムを積み上げたモノ」だという。

電子ピアノで演奏される音楽も美しく、美術も工夫された舞台だったと思うが、疑問も残る。アフター・トークのときに手を上げて発言したのだが、「政治」というものの権力構造を、民衆が組み立てた「椅子」であらわし、最後にその椅子に座ろうとしてぞろぞろ現われてくる現代のマスコミで目にする政治家やタレントのお面をつけた人物がその椅子に座ろうとする姿を最後に持ってきた点が残念に思えた。
 なぜなら、せっかく民衆自ら集め組み合わせたことで成り立っている「椅子」(=権力構造)がこの劇を観ていると、あたかも実体である「椅子」であるかのように見えてしまうからだ。
 
この劇を観ていて思い出したのは、何十年も前に観た寺山修司の『奴婢訓』である。主人のいない留守に奴婢たちが代わる代わる交代で「主人」を演じる。その象徴は「椅子」であるというより、片足に穿く大きな「靴」であった。お互いの了解のもとに造られ機能する「権力」のメカニスムを寺山のその劇は、この「ポリティクス…」より明確に表現していたように思える。笠井自らもこの「椅子」が壊れることを示したいのだが、なかなか壊せないのだと弁明した。現代においてはその「椅子」はこの劇のように可視ではない。マスコミの支持率調査が大きく政治に影響を与える現状を見ていると「椅子」を形成している一個一個のピースを形成しているのは我々であるのは明白なのにその組み合わされているメカニスムが見えない。
 
奇妙なことに岸田の戯曲では「父」であるリア王自身は登場せず、その代わりに登場する母親が自らの声を発するのとは別に、その「父」の声を代弁する台詞を言う。アフター・トークで興味深かったのは、話題が「父」が登場せず、「母」が中心となっている点について触れたとき、制作にあたって劇団員で討議していたとき、そのなかの殆どすべての女性から「母親」が嫌いだったという発言があったということである。

それを聞きながら思ったのは、政治劇であると同時に家庭劇でもあるこの劇には、「父性」が不在なのではないし、女性性の否定があらわれているのではもちろんなく、父を殺し自ら権力の座に君臨しようとする次女の姿に現われているように、むしろその本質をつきつめた結果行き着いた、「父性」に取って代わろうとする欲望の現れなのではないかということである。

安易な精神分析的解釈は自らに禁じているのだが、ふと女性に「無意識的」にあるとフロイトが指摘した「…羨望」がその発言や劇中の人物である「次女」にも現われているのだろうかと思った。そうすれば「ここは私の王國」という台詞に顕著な、ファルスの発露としての権力への欲望も理解できてしまう。
 
ところでシェークスピアの『リア王』で表現される「姉妹の過剰なまでの愛の言葉とレトリックを『言葉の激しいインフレ』とテリー・イーグルトンが指摘していると劇のチラシに書かれている。「政治」の世界では確かに「言葉のインフレ」が起きている。では「愛」の世界ではどうなのだろう。先日ぼくのゼミ(フランス文化)で驚いたことがある。ある女子学生が『星の王子さま』で出てくる王子と狐の関係をなりたたせている「飼いならす」ということについて述べていた時だったと思う。個人的な経験を持ちだして、好きな相手の愛情をこちらが十分に分かっているときでもちゃんと言葉で表現してほしいと言ったのだ。

これは驚きであった。何十年も一緒に生活しているカップルならいざしらず、携帯やメールで自由奔放に交流していると思われる今の若い世代にも「言葉のインフレ」どころか、まるで「言葉のデフレ」が起きているなんて… 「好きだ」とか「愛している」とか思っている人に対し実際にそう言葉に出すことは、恥ずかしいというより、言葉に出すと嘘っぽく思われる。それこそ「言葉のインフレ」に感じられるからだ。

夢中になっている恋人も自分を愛していることが分かっていながら、その熱烈な愛の言葉を求めざるを得ないロクサーヌ(『シラノ・ド・ベルジュラック』)は日本の中年女性やフランス女性だけでなく、日本の現代の二十歳そこそこの女性たちにも共通する願いだったなんて、ましてや…
 中年教師はその女子学生の発言を聞きながらひそかに心の中でメモを取り、ラインまで引いて忘れないようにと強く思ったのだった。(2010年10月25日、番場 寛)

広告

コメントを残す

コメントを投稿するには、以下のいずれかでログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中