ただ「見つめる」という贅沢(あいちトリエンナーレ2010最終日(2))

 もっと早く出かけるべきだった。4か所の展示場所に分かれた現代美術の展覧会を最初はあまり観たいとは思わなかった。現代美術は大好きで、パリに行くたびにジョルジュ・ポンピドゥーセンターの3階にある近代美術館に行ってそこに展示されてある一見ガラクタのように見えなくもないオブジェを前にして驚き、その意味を考え途方に暮れるのを楽しみにしている(このブログの「彼女たちElles展を観て」を参照のこと)。しかし何回も観ているうちに確かに面白いと思ってもそれほど感動しない作品も多く、今回の名古屋での展示も何の根拠もないのだが、期待はせず、ダンスを観るまでの空いている時間に幾つか観られればいいとくらいに考えていた。

ユニホームを着たボランティアの女性に導かれて最初に行った納屋橋会場は予想通りつまらなかった。みなれた草間彌生のかぼちゃの模様の家具も、電車内や通りの人波の中で自分とは何かを問う人物のビデオも、ある時間がくると高いところからドアが開き轟音とともにゴミのような本が投げ落とされるしかけもコンセプトも分かるし、それを制作する苦労もしのばれるが、こんなものを観にわざわざ来ることはないと思ってしまった。

しかしある小さな部屋に入った時不思議な経験をした。それは段ボールの相撲の琴欧州の写真が壁に貼られた部屋の中央に小さなモニターがあり、その中ではブルガリアの芸術家がしゃべりながら料理を創っているのだ。ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモ、ひき肉といった極めてありふれた材料で味が予想できそうな平凡な料理に見えた。面白いと思ったのは、その小さな部屋で観ている観客、特に子とその親が本当に集中して引き込まれて観ていたことだ。あまりにも途方にくれる展示物のなかにこれほど日常的な風景があることに驚くとともにここにコンテンポラリー・アートのまさに「コンテンポラリー」の意味が現われているとも思った。普段見つめることなく過ぎ去っていく日常、現実を新たな眼差しのもとに見つめ直すよう強いるもの、それが現代美術なのだ。そのため芸術家は「空間」と「時間」を誇張したり、組み替えたりして一見ガラクタに見えるものを観客に「問い」として提示しているのだろう。

その後タクシーで名古屋市美術館に行き、観たが、個人的にはぼくが観た3か所の展示のうちでは一番水準が高かったように思えた。残念ながら名前を記憶してないのだが、無数の透明なチューブを高い所から降ろし、そこに血の色をした赤いインクを機械で循環させているオブジェと芝生のような緑の床に線香で無数の単語を記し、そこに会期中燃え続け、会期終了とともに燃え尽きるような工夫をしたオー・インファンの作品が強い印象を与えた。

地下の常設展示室に荒川修作の「大気のようでなにかに似ているもの:意図のある空間」(1982‐83)があった。驚いたのはその絵を前にして5歳くらいの男の子が「わあ、きれい」と声を上げたことだ。昔30年以上も前だろうか、この絵を含む「意味のメカニスム」と題される展覧会を観たときの衝撃が甦った。彼の絵に挿入されたおびただしい言葉と記号を見たとき、絵画もオブジェも展示されているものは思考でありそれは必ず言語を伴うのだとそのとき思った。
最近ぴあフィルムフェスティバル招待作品として上映された山岡伸貴監督のドキュメンタリー映画「死なない子供、荒川修作」の荒川自身の口調を思い出した。荒川だったらひょっとしてこのトリエンナーレで展示されている作品すべてを「こんなくだらないものよせ」と言ってしまうかもしれない。その作品のように観ている者にこれからも久しく問い続ける作品が幾つあるのかとも思った。

人が展覧会に行くのは、「見る」という日常を離れ、ひたすら「観る」存在になりたいからなのだろう。それは「意味を問う」というメカニスムと一緒になったとき強い悦びとなるのではないか?

展示会場を繋ぐ交通手段としてスタッフが自転車で引いていくピンクのタクシーが無料で観客を運んでいた。「都市の祝祭」という副題通りに美術館が街全体に広がっているような感覚を受けた。

すべてを観終わり、名物の「味噌煮込みうどん」を食べて夜道を歩いていた帰り道のことである。前を際どい恰好をした女の子が3人歩いている。黒いストッキングを挑発的に着こなしたりマントをひらひらとさせたり、いわゆるゴスロリ(ゴシック・ロリータ)と呼ばれるファッションだ。しばらく歩いて行くとその3人は暗い夜道に明かりがもれている店に入っていく。そこを見ると同じような恰好をした女の子で溢れている。思わず惹きつけられ自分もそこに入りたいなどと思ってしまう。遠ざかると店の入り口に大きくHalloweenと書かれているのが見えた。10月31日だったことを思い出した。そのとき京都駅のホームで朝見た光景の意味がようやく分かった。

ホームで待っている近くに白いキャップを被って白衣を着た看護師が見えた。ひょっとして病人が出たのかと思ったがそうではなかった。あぶないほどスカートは短い。良く見ると若い女性だし連れの女の子も奇妙な服装をしている。二人の顔の片方の目の周りには入れ墨のようなメイクが施されている。まさかこんなところでコスプレが見られるとは… 「都市の祝祭」は至る所にあったのだ。(2010年11月3日。番場 寛)

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