人はなぜ劇場に行くのだろう?(現代能「待月」その他)

 京都experimentの舞台芸術作品を観に通っているうちに、ふと京都駅ビルの7階の屋上でやっている「ポルトガル映画祭」でまったく偶然観た「神の結婚」が面白くて日曜日から通うはめになりさらに忙しくなった。おなじ場所で高山明演出の「個室都市 京都」という街中のインスタレーションをやっており(実際には18日の夜観る予定である)、映画館と対峙しているという配置そのものが現代の芸術の置かれた位置をそのまま具現しているようで驚いた。
 
14日に行われた3回目のフェスティバル・フォーラムでは、主催の演劇評論家の森山直人氏と新進の評論家であり、『神話が考える』の著者の福嶋亮太氏との対談が行われた。福嶋氏の著書を読んでから、フォーラムを聴いたのだが、とにかく福嶋氏の批評言語に驚いた。たとえば普通、情報がうまく伝達されることと考えられるコミュニケーションも彼によれば、「(情報の)送信者と受信者がいわば『共働』して、予測可能なパターンを増やしている世界」とみなせるのであり、「ランダム以上の確率で推量できるこの種のパターンは『冗長性』と呼ばれ、コミュニケーションは『冗長性の拡張』として捉えられる」のである。

また普通構造言語学では「価値valeur」や「意味作用signification」などと対比することで考えられる「意味sens」もルーマンの「意味的体験処理は複雑性の縮減と保存を行う」という定義にならう福嶋氏によれば、「『意味』は、複雑性を受け入れる一種のゲートのようなものである。ひとはそのゲートで一度身を落ち着けて、次にどの方向に向かうかを考える」ものとして定義されるのである。

こういった思考の福嶋氏によれば、劇場に通う人はそういうように「洗脳」されているからであり、もっと人が劇場に通うようにするにはそういった「洗脳」のシステムをつくればいいのだといった発言があっても驚くことではないのだろう。だからそうした彼から見れば、現代の小劇場の状況は「劇場」でリアリズム演劇を構築しようとする平田オリザとその限界を見て市街でのインスタレーション劇(?)を実践する高山明の在り方は同じコインの表と裏を表しているのだとなるのだろう。

そうした発言を聴きながらおぼろげながらも次第にはっきりしてきたのは、自問していた「ひとは、いや自分はなぜこんなに劇場に通うのだろう?」という疑問に対する答えである。ひと言で言えば、こうした福嶋氏の言語、これもあえて図式的に言ってしまえば、「デジタル的な発想」から漏れ落ちるもの、多分そうしたものを求めて人は、いや少なくとも自分は劇場に通っているのではないかということである。

会場で福嶋氏に対し、発言を聴いていると劇をあまり見ていないことがよく分かる、などと失礼なことを言ってしまったと今は反省しているが、実はその二日後の16日に大江能楽堂で演じられた原作 松田正隆、能への書き換えと演出 味方玄の現代能『待月(まちつき)』を観たとき、森山氏とともに福嶋氏も見かけたのだ。即座に14日で話し合われたテーマを思い出した。

すでにおおきな「神話」は築かれず、小さな無数の神話が偏在している現代においては、アニメやDVDなどてっとりばやい方法で人は「物語」を享受しようとする、という論理に従えば、この現代の創作能はどのような意義があるのだろうか? そう思いながら能楽堂に入ると、まず会場自体が独特な雰囲気がある。一部を除いて畳の上に敷かれた座布団に座って鑑賞するという肉体的な苦痛を伴うところからして非日常的である。

亡くなってなお苦しんでいる罪人の魂を鎮めるというモチーフが「老婆・男の霊」(味方玄)「修行僧」(河村晴道)「所の者(現代の豆腐屋)」(杉山茂)という4人(3人)の登場人物によって展開される。豆腐屋が状況説明する現代の言葉には現在の京都の地名がそのまま残り、謡の言い回しで語る修行僧と、現代の普通の言い回しで語る豆腐屋とが語る場面がすばらしいと思った。現実に起きた殺人事件とカフカの「流刑地にて」に着想を得た松田正隆の作品に基づいて創られたと伝えられるこの作品は、「罪人の魂を鎮める」仏教、救済の象徴としての「月の光」など、日本文化の中で千何百年と積み重ねられて形成された「神話」であり「物語」なのだろう。現代の京都にもその「神話」は生き続けているという設定をこの劇を見た福嶋氏はどう思っただろう。

実は確かここで修行僧を演じた河村晴道氏からだったと思うが、前に能の始まる前の解説で聞いた話である。氏が能の仕事で東京に行かれた時、東京ドームの前を通った時、大勢の若者が集まっているのに驚き何だろうと思ったら、コミックマーケットに集まっていた若者だったという。氏は現代における能という芸術の置かれた状況の厳しさをそのコミックマーケットの盛況ぶりと対比して語られたと記憶しているが、その後ばかげたことを思ったのだ。もし現在でもいまだ人気が衰えない「ガンダム」の話で現代能を創れるのではないかということである。現在伝統芸術として生き延びている能もそれらが書かれた時代にもどして考えてみれば、すでに知られた「神話」や「物語」の書き換えであった。考えられない話ではないであろう。

鼓の響き、かすれの後に空気を引き裂くように響く笛の音、最後のクライマックスで初めて空間が大きく動くゆっくりとした舞、何よりも心地よく体を共鳴させるかのような抑揚のきいた謡。こうしたものは確かに福嶋氏の用語なら「パターン化」された情報なのかもしれない。しかしそれはあの「時」と「場」に身を置かなければ経験できないものなのだ。観客が自らの身体を通して初めて体験できるもの、それを求めて人は劇場へいくのだろう。

19日に京都でのチェルフィッチュの公演を観たあと、ロドリゴ・ガルシアの劇「ヴァーサス」を観るためにわざわざ東京までいくのは2002年と2003年に彼の劇をパリで観て受けた衝撃をいま一度体験したいがためである。(2010年11月18日。番場 寛)

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