ロドリゴ・ガルシア「ヴァーサス」を観て(にしすがも創造館にて)

 11月21日、ようやく待望のロドリゴ・ガルシアの「ヴァーサス」を見ることができた。フェスティバル・トーキョーのホームページにもあらすじと解説が書いてあるし、You tubeでもほんの一部が見られる。「大量消費社会」を描いたのだそうだ。確かに開いたままきちんと並べられた大量の本が、小便をかけられ(すぐにそれは水だと分かる)、その上で女性の虐待が行われたり、痙攣のようなダンスが行われたり、さまざまな動きにともないけちらされ、散乱される。たぶん解説に書かれている通りなのだろう。しかし、ある種の嫌悪感を催させる場面が連続するにも関わらず、わき起こる開放感、見ているものの体感として伝わってくるこころと体の躍動感はどこから来るのだろう? たとえば「暴力」「挑発」…同じくそうした言葉でくくられてしまいがちな、ヤン・ファーブルの「わたしは血」その他の作品と比べてみても、重苦しさは受けない。ガルシアの劇の魅力はひょっとしてそうしたパンフレットに書かれた言葉の外にあるのかもしれない。その秘密を今回の作品と2002年から2003年にかけてみた他の2作品のみを観ての感想から考えてみたい。

「食べる」行為について 今回の作品の冒頭は世界の各地の子供がピザをどのように食べるかを実際にナイフでピザを切ることで示す場面から始まった。それは真ん中を正方形に切り抜いた部分だけを食べ、他は捨てるという食べ方だった。それからも二人でスパゲティを食べる場面が続くのだが、今度はそのスパゲティに言葉が書かれており、それぞれの言葉を探して繋いで意味を探そうとする。この場面は今まで見た3本のガルシアの劇で中では新しい「食べる行為」の扱いだと思った。また最後の方ではぬるぬるとねちゃねちゃとした触感が伝わってくるような真っ赤なタルタルステーキがこねられる様子がスクリーンに映し出されるが、何か食べ物というよりエロチックな感じを与える。

松井周氏を迎えてのポスト・トークのときにガルシアの劇における「食べ物」の扱いについて質問した。彼はそれぞれの劇において劇の構成の中で「食べ物」をどのように置くかは劇によって異なっている、初期のものでは詩的な意味を含んでいたが確かに「マクドナルドのピエロ」という作品ではひどい扱いをしていると答えた。

そう質問したのは2002年か2003年にパリで見た「マクドナルドのピエロ」では二人の登場人物が舞台で食べ物を投げ合い、しまいには舞台全体が散乱する食べ物でぐちゃぐちゃになるという強烈な劇であったからだ。また2002年に偶然宿泊していたパリの国際大学都市の劇場で観た「After sun」では、ようやくハンバーガショップで定職に就くことのできた主人公が舞台上でハンバーガーを網で焼くシーンがある。客席にも煙と臭いが漂う。その中で恋人が主人公に言う(記憶で書いています)。「いまあなたはようやくあなたに欠けていた定職につけた。でもいまのあなたには『欠如』が欠けている」。ひょっとしてこの台詞は主人公のモノローグだったかもしれないが、長い非常勤生活ののちにようやく専任教員として働くことができ、長く夢見ていた研究休暇をとれてパリに滞在していた自分の心に突き刺さった。

ガルシアの劇においては「食べ物」は単に食欲を満たすということだけでなく、資本主義消費社会を顕著に示す表象であると同時に、エロチックな行為にも比べられるほど「生」に直結したものとして描かれている。

「緊張」と「開放」「After sun」では、テーブルの上にともに一部のみを隠す以外は全裸で顔をヘルメットとウサギの頭だけの縫いぐるみを被った男女が足をテーブルに固定したまま強烈な音楽に合わせて激しく体を揺するシーンをいまだに覚えている。

今回の「ヴァーサス」でも女性が性的虐待を受ける場面の他にも男性が下半身を露出する場面があったが、流れとしてそれほど嫌悪感が湧かないのはなぜだろうと考えると劇全体のリズムのせいだと思った。それはたとえばウサギを電子レンジにいれてスイッチを入れると煙が出てくるシーンの直後にそれが無事であることが観客に分かるシーンに似ている。
挑発にともなう緊張のあとには必ずそこから解放される瞬間が続く。

緊張とそこからの解放は舞台に設置されたドラムとエレキギターの生演奏により増幅される。その音楽に合わせて、両手にもったふたを開けた牛乳のパックから散乱する本の上にミルクをまきちらしながら踊るさまは暴力的なのに思わず美しいと感じてしまう。

たしかにチラシに書かれている「すべてのモノが徹底的に酷使され、消費される。消費の過剰に陥ったとき、ヒトはいったいどのような行動をとるのか?」というテーマが描かれているとことに全面的に賛成するが、ガルシアの劇の魅力はそうしたテーマを、俳優の身体を通して、「抑圧」「緊張」とそこからの「開放」を観ている者にその悦びを身体感覚として伝えることに成功している点にあるのだと思う。(2010年11月26日。番場 寛)

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