「日本ラカン協会」2010年年次大会に参加して

 「フェスティバルトーキョー」で劇を観た2週間後、「日本ラカン協会」の研究発表会とシンポジウムを聞くために日曜日の朝東京に出かけた。(当日の準備にあたった理事や専修大学の皆さまお世話になりありがとうございました。)
 
当日の研究発表とシンポジウム内容は協会のホームページに予告された通りだが、じかに聞くと予想とは随分違った印象を受けた。特に期待していたのはシンポジウムでの各発表であった。原 和之氏の「トポスとロゴスーラカンにおける言語論の転回」という発表は、自分もずっと取り組んでいるラカンの欲望論についての発表なので特に興味を持って聴いた。コジェーブのヘーゲル講義に影響を受けたと言われている「人の欲望は<他者>の欲望である」というラカンのテーゼは、「<他者>の欲望を欲望すること」を導き、その理論的展開においてヘーゲルから次第に離れ、ひいては「他者が欲望するということの欲望」という概念が導かれると説明された。そこまでは理解できた。 
しかしそれを「要求Demandde」であり、「他者の欲望の対象の欲望」を「欲求Besoin」であるという原氏の説明は、本発表のこの部分の説明の図に併置されている「欲望のグラフ」が出てくる『エクリ』に収められている「主体の転覆と欲望の弁証法」という論文では、「要求」と「欲求」という概念は、「他者の欲望」を含む「欲望」の概念とは明確に区別されているので、そこがどうしても理解できなかった。後で懇親会のときに直接お聞きするとラカンは「欲望」という言葉を年代によってそうした厳密に定義される「欲望」という意味とは違った意味で使っている箇所もあるというお答えであったが、現在のところ自分は納得していないがこれからも考えていきたい。

中野昌宏氏の「言語の経済/経済の言語-無意識の論理と『対称性』」は「行動経済学」の見地から「無意識」と「意識」による思考・行動パターンを考えた場合の仮説を述べられた。また布施 哲氏は現代政治理論におけるラカン~E・ラクラウの政治理論を中心に~」で、ラカンの精神分析理論が「人間社会のイデオロギー分析に対しても有効な補助線」になるうることを説明された。両氏の発表とも非常に明快であり、確かにラカン理論は確実に社会科学にも影響を与えていることを確認できた。中でも特に印象に残ったのは布施氏の発表で社会的運動の共同体Associationが形成されていくときその形成原理として個別的差異にも関わらずそれをまとめるものとして抽象化が行われるが、そのAssociationをまとめるシニフィアン(恐らくラカンの「主のシニフィアンsignifiant maître」にあたるものだろうと推測される)はできるだけ内容のないかはっきりしない言葉(例えば「民主主義」という言葉)がふさわしいのだという説明には納得させられてしまった。

立木康介氏の「00年代のラカン派」という発表はすでに『思想』に発表されたこととほぼ等しい内容だったが、冒頭に日本でのラカン受容は勿論のこと、「日本精神分析学会」の会員に殆ど精神分析家が不在であるという現状に見るように、日本で精神分析自体があまりにも実践されていない現状に触れられたがこれは他の発表者に対してだけでなく、会場にいる参加者全員への強烈なパンチとして受け止められたかもしれない。

立木氏自身はそこまで明言はしなかったが、精神分析の実践を経験していない者にはラカン理論は無意味だろうと言いたげであった。ぼくはそうとまでは考えない。むしろまったく精神分析の実践から程遠いと思われる会員たちがこれほど多くラカン理論に惹かれて、苦労しながらラカンを読んでいるこの現実こそ不思議で感動的だと考える。そこにはラカン理論の魅力に引き付けられた者のあたかも「症状symptôme」とも呼べるような現実があるからだとしか今は答えられない。

午前中に聴いた向井雅明氏の「精神分析とニューロサイエンス ダマシオを巡って」は、「思考を脳の問題に還元する傾向に反対する主張をもつ」神経科学者であると指摘し、そのかれの理論と精神分析理論との関係を説明したものだったが、レジュメがないため聴いていて理解できないところがあって残念だと思った。

今回の大会で一番印象に残っているのは、そのあと数人で一緒にお昼を食べたときに聴いた向井氏自身の精神分析家としてのお話であった。話が「精神分析家の欲望とは何だと考えますか? それは知への欲望ですか?」というぼくの質問に、かれは「それは違う。それはその分析の場で起きている分析主体(被分析者)のその人だけという個別性を知りたいという欲望のことだ」と答えた。ぼくは分析家が分析理論に従い分析主体の言葉に耳を傾けているとしたなら、個人としては個別でも理論としては普遍性に当てはめるという視点で被分析者をみているのではないかと問いかけたつもりだが、議論はそこで終わってしまった。

この世に世界でたった一人のその人にしか成立しない理論はあるのだろうか? 前にここで映画「空気人形」を観たときの感動について書いたが、いつでも他人と置き換えのきくものとして社会的には存在してしまっているわたしたちは、この「わたしだけ」という体験がある筈だ、そのかけがえのなさを話さずにはおれない。だれかに聴いてもらいたい。それが精神分析だということなのだろうか?

東京での思考を京都に帰ってもずっと引きずっている。(2010年12月8日。番場 寛)

広告

コメントを残す

コメントを投稿するには、以下のいずれかでログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中