能を観に行ってサンタに出会った

ブログを書くのは難しい。自分のことをブログに書いた友人の文章に悪意を感じ、これからその友人との関係を断とうかどうしようか迷っているという相談があるサイトにのっていた。いくら匿名で書かれていても本人には自分のことだと分かったからだ。

自分でも似た経験がある。

自分なりに十分配慮し、本人以外には身元はまったく分からない書きかたをしたつもりだし、本人が読んでもけっして傷つける内容ではないと思ったし、念のため本人にメールで事前に問い合わせたのだが、返事がないことで了承したものと思い公開してしまい、それを読んだ本人の苦情を受け、すぐに削除したのだった。

いつも思う。書きたいという欲望は、読みたいという欲望によって担保されなければならない。一人でも書かれたことで傷つく人がいてはならない。そう思うと書くことは難しいとつくづく思う。いくら自分自身の考えたこと、経験したことを書いたとしても、個人は必ず人との交わりの中で生きている以上、他人のことにも触れざるを得ない。

小説家はどうしているのだろう。完全にデフォルメされ、絶対にその人と分からない書き方をしていてもある実在の人物を想定している場合が多いのではないだろうか?

実は今日書きたいのは19日に観た定期能の会場で見たことである。

能は演劇ほど頻繁ではなくとも昔から見ているし、3年ほど前に謡いを習い、その後仕舞を直に教えていただいているのだが、謡われている内容は理解できるのだが、舞の動きの本当の素晴らしさを、心から分かったという実感はいまだに得られていない。

それでも、今回改めて感嘆したのは衣装の美しさである。三宅一生の服が、人がまとうことで初めて服としての形をなす服であるとしたなら、能装束は立ち、動くことによって初めてその美しさの際みに至る装いである。

しかし舞台を見ながらぼくは密かに客席に、ある人を探していた。丁度一年ほど前、同じ会場で見た老婦人の装いが忘れられなかったからだ。昨年はその人の後ろに座っていたのだが、近くにいた白人の女性が驚いたように友だちにある人の方を示唆したのだ。すぐに分かった。着物を着ていた老婦人の帯にサンタクロースの服を着た小人が踊っているのだ。それは五線譜の上だった。和服とクリスマスという組み合わせがおしゃれで素敵だと思った。それを覚えていて今年も客席にその帯を着ている老婦人を探したのだが見つからない。今年は来ておられないのだろうかと思ったとき、見つけた。自分と同じ最前列にいたため見つからなかったのだ。

体の向きをさまざまにして五線譜の上で踊っているように見えるサンタ姿の小人たちは、瞬間的に見た者に頬笑みを生まれさせるようだ。ふとその婦人の前に置かれたハンドバッグが目についた。白いところに何か小さな黒く見える模様が見えたので、何だろうと目を凝らすと小さなペンギンが何匹もいるではないか。何て粋な装いだろうと思った。

来年もこの会場であのサンタクロースとペンギンに会えるだろうかと思って舞台を後にしたが、ふと思いついたのはあの音符の代わりに五線譜の上で踊っていたサンタたちをつなげると何かの曲になったのかもしれないということだった。「ジングルベル」なのか「きよしこの夜」なのか、それを確かめるにはまた一年待たなくてはならない。
(2010年12月20日。番場 寛)

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