吉野家のクリスマス・ストーリー

 健一はメールで連絡してきた時刻より更に遅れて来た。時計は9時半を回ろうとしていた。レストランにはすでに遅れることを連絡したとはいうものの、ユリはもうお腹がペコペコだった。怒りよりも、彼が予約していたレストランでのメニューが浮かび、すでに心の中では舌舐めずりをしていた。
 
ところが席についた健一はなぜか落ち着かない。残業は終えた筈だ。顔は自分の方に向いているのに、視線はどこかをさ迷っている。彼が隠しごとをしているときの癖だ。さりげなくしているが、時どき手元の腕時計に目をやっている。
「じゅあ、まず僕らの交際2年目を祝って乾杯しよう」
そう言って給仕が注いでくれたシャンパンのグラスを上げた。健一はよく特別な日に注文してくれるが、クリスマスイヴの日のヴーヴ・クリコは特別だ。口の中を弾ける細かな泡の刺激がこれから繰り広げられる舌の悦びを告げているかのようだ。料理が出てきたらワインに変えてくれるだろうが、この店はおいしいブルゴーニュをそろえているだろうか?
そんなことをユリが思っていると、健一が「ごめんちょっとトイレに行ってくる。急いできたもので」と立ちあがってトイレの方へ歩いて行く。いぶかしく思ったユリはこっそり彼のあとをつける。するとトイレの入り口で電話しているのが聞こえる。
「さっきはごめんね。どうしても残りの仕事を明日までに終えなきゃならないんだ。今日はもう会えないけど、あさってならまたあそこで会えると思う…」

 もう決定的だった。顔も頭もよく、一流会社に勤めている彼は他に女ともだちのいない方が不思議だとも思う。しかしこの一年365日が集約されるこの日だけは、この私のためにつかってほしいと思っていたのに…

彼より先に席に戻り、問い詰めると、会社の後輩に誘われてつい断れなくて食事をしたのだが、本当に好きなのはお前だけだと悪びれずに答える。

そのときユリは目の前に注いであったグラスのヴーヴ・クリコを健一の顔にひっかけそのままレストランを飛び出した。今日は聖夜なのだ。今日だけは絶対譲れないと思っていたのに、汚された気になった。急いで通りに飛び出すとひたすら歩き続けた。何度も手をつないで歩くカップルにぶつかったが、あやまりもせず歩き続けた。

ふと気づくと、目の前をサンタが歩いている。よくみると赤い服だけを着ており、帽子はかぶっていない。どうするのだろうと思って後をついていくと、通りに面した小さな店に入る。牛丼屋だった。ユリは牛丼屋には一度も入ったことはなかった。どんなにお腹がすいているときでも入れなかった。店内はいつも男たちで埋め尽くされ、若い女が独りで入ることは禁じられているかのように見えていたからだ。その日も同じように黒っぽい服装の男たちがみな背をかがめて顔を洗うときの姿勢で丼ぶりに顔を埋めていた。
そんな中でサンタクロース姿の赤い服は目立ち、そこだけが赤々と暖炉が燃えているようだった。ユリは急に何も食べてなかったことを思い出し、空腹に耐えられなくなった。それでためらうことなくその店に入り、空いていたサンタクロース姿の男の隣りに座った。40代に見えるその男は疲れ切っていた。それなのにユリに気づくと話始めた。
「姉さんは今日は独りなの?」彼女が黙っていると、そのまま身の上を語り始めた。会社をリストラされたが次の仕事が見つからない。妻は子供を連れて実家に帰ってしまった。とりあえずの仕事ということで、その日はたまたま街頭に出て昼すぎからずっとケーキを売っているのだという。中年の男が売るためには白い髭をつけたサンタ姿にならなくてはならないのだという。すぐに遅い夕食を食べたらまた街頭に立ち、ケーキが売り切れるまで客に声をかけるのだと教えてくれた。

ユリは生まれて初めて牛丼を口に運んだ。甘みのしみ込んだ玉ねぎと牛肉の味が口の中いっぱいに広がる。こんなにおいしいものを自分は知らなかったなんてと思った。健一と食べる筈だったロースステーキより絶対にこちらの方がおいしいと思った。

店を出たとき、ふと先に出たサンタクロースが街頭でケーキを売る姿を見たくなり、歩いていき見つけた。ケーキは売れていた。仕事を終えた中年の男や若いカップルがまるでそこに「幸せ」というものが包まれているかのように大事そうに箱を受け取り、提げて行く。

ユリはそのサンタクロースを見ていてほんの少しなぜか楽しい気分になった。ふと見上げると、寒々とした空に月がくっきりと見える。こんなにきれいな月を見るのは久しぶりだと思った。

ポール・オースターに「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」という短編がある。今は殆ど内容は覚えていないのに、タイトルだけはいまだにクリスマスになるたびに思い出す。自分でも素敵なクリスマス・ストーリーが書けたらと思って書いてみたがうまくいかない。

去年は研究室で、学生の卒論指導をしていた。変わらないのは今年も独りでクリスマスを迎えていることだ。街頭に立ってケーキを売っている人より幸せかどうかは分からない。皆さんのクリスマスが幸せでありますように!(2010年12月24日。番場 寛) 

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