インパラプレパラート「ピアノピア」(シアタートラムにて)

 6日に「精神病理コロック」に参加した後、「ピアノピア」というう劇を観たのは、まったく知らない劇団であり評判も知らなかったが、何度か通ったことのある劇場の「シアタートラム ネックスト・ジェネレーションvol.3」という催しで演じられるものだからという期待で観たに過ぎなかった。

スタニウェイの遺作として残されたピアノが実は呪いのピアノであるという設定で、そのピアノを弾く黒い服をまとった女性はピアノの精とでも呼べる存在で、ピアノそのものとして自らの力で人々に引き起こす不幸を500年にわたって見続けるのである(一部がYou tubeで見られます)。

階段状になった舞台の高いところに置かれたそのピアノの下で13人の若い男女(数に不吉さがこめられているのだろうか?)で繰り広げられる、顔の表情においても身体の動きにおいても大袈裟に誇張された演技は、極めて類型化されているようで、見ていてじきに退屈するのではないかと危惧していた。

しかし集団としての動きが見ていて心地いい。最初に人物が発した「呪いのピアノ」という言葉通りに、ピアノの所有者には次から次へと不幸が起こる。財力や権力によりそれを所有するものは等しく滅びる。

13人が、それぞれ同じ衣装で幾世代にもわたる悲劇を違った人物として演じていく。観ていて感情移入が起こったのはある場面からだ。ある王国で革命が起こり、城を脱出しなければならなくなったのに、おろおろするばかりで、侍女と離れることを恐れるマリーアントワネットを連想させる王女が、必ず後から行くと言う侍女と交わす言葉が「約束だよ」である。

また世代を超えて何度が繰り返される言葉が「今度生まれ変わったら」なのである。 王女は捉えられ断頭台で命を終え、「約束」は果たされない。他の時代で交わされる「約束」も同じである。しかし時代を経てそれを見つめているその呪いのピアノの精と観客には、それぞれ同じ俳優が演じる人物があたかも生まれ変わった人物のように見える。

音楽室に置かれたそのピアノとして、死んだ王女が活発な女子高生と同じ姿で現われたとき、少女に再開したピアノの精は再開を喜ぶが、少女にはまったく生まれ変わったという意識はない。ひ弱で自分のことさえままならなかった少女は、おそらく作者の理想の少女だと思われるが、クラブ活動もアルバイトもこなし、しかも女子の暴走族のリーダーでありながら品行方正で情に熱い人物として現代に転生する。それを見てピアノは喜ぶがやはり意に反してピアノにかけられた呪いのせいで少女は事故を起こし死んでしまう。
何度か繰り返される「約束だよ」と「今度生まれ変わったら」という言葉がまったく違った人物という設定で同じ俳優から発せられるとき、これらはメロドラマのエッセンスだと気づいた。現実の生活において一度でいい、「約束だよ」「今度生まれ変わったら」と言ってみたい衝動にかられることはないだろうか?
 観客からみると全く同じ人物によって繰り返される幾世代もの物語、これはずっと昔にみたソートン・ワイルダーの『わが町』と同じ構造だと思う。

「反復」はそれだけでなぜ感動的なのかといつも思う。それらの言葉は、「差異」としての違った登場人物の言葉として、同じ俳優(「反復」)によって発せられるからだ。ここでも「差異」によって「反復」は支えられ、「反復」によってこそ「差異」が際立たせられる光景が露わになっている。

それぞれの場面は必ず悲劇で終わることを観客も確信を持って見つめるようになるのだが、しかし、「今度生まれ変わったら」という言葉を実現したかのように転生し、いっそうパワフルになって登場する人物を見ていると、必ず逃れられない運命のもとにもくじけず力強く生きる人物という、いわゆる「悲劇」の主人公の公式にもそった劇だと気づく。

たとえ少し類型化し過ぎているとはいえ、若い男女の過剰な身体の動きは全体の動きとして調和したとき、すばらしいコンテンポラリーダンスの瞬間にも似た快感を生み出す。またそれぞれの人物が着ている衣装は白を基本にして部分的に黒を入れたものでそれぞれデザインが違うのだが特に非対称形のデザインが素晴らしいと思っていたが、劇を観ながらなぜ白と黒だけなのか分からなかった。それが分かったのは最後に死んだ高校生が残していった巻かれたシートを舞台の前で広げていった時である。それは大きなピアノの鍵盤であり、その上を踏み鳴らすように、男女がピアノの曲に合わせて踊るのだ。それはあたかも黒と白の鍵盤の上を跳ねることで鳴っている音のように感じられ、衣装もそれを暗示しており、まさしくこれはユートピアならぬピアノピアだと納得させられた。

実は、その劇の前日2月5日の夜に行われた「精神病理コロック」の懇親会の会場でおそらく十年以上前に初めて同じ会場で、精神科医なのに小劇場で俳優もやっているといっていた人のことを思い出し、人に尋ねたところ当日もその人はおり、互いに再会を喜び合ったのだった。演劇は練習にかなり時間をとられると思うのだが、公演期間に少し診察を休むものの、その精神科の医師は俳優も続けており、現在は他の劇団に客演することもあるという。
 最初にお会いしたときの記憶が残るだけにお互いの肉体的変貌は忘れ、演劇への情熱を語りつくした楽しい夕べでもあった。

これも「差異と反復」なのだった。(2011年2月10日。番場 寛)

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