「日常」そのものを問う演劇(2)-チェルフィッチュ「ゾウガメのソニックライフ」

前にこのブログで宮部純子の「あさおきてからよるねるまで」という独り芝居について書いた時(「日常」は演劇にできるのか?(8月24日))、同じことを考えた。「日常」は本当は、生のあらゆる問題が隠されているのにそれを意識することなく流れて行く。それが壊れるのが事件であり、出来事であり、イベントなのだろう。

「劇的」という言葉にもあるように、悲劇も喜劇も「日常」から遠く、その裂け目においてのみ出現するもので、何もない「日常」は普通だったら演劇ともっとも遠いものに思える。昨年観た宮部の「あさおきてから…」は彼女と等身大の若い女性の一日を40分あまりの時間でリアリズム風に演じたものだった。そこでは「日常」を生きているひとりの女性の生活は描かれたが、「日常」そのものとは何かとことは問題とされていなかったし、彼女自身にもそれへの意思はなかったであろう。

しかし今回の岡田利規の「ゾウガメの…」はある登場人物の「日常」を描くのではなく、「日常」そのものを描こうとした作品であった。「描いた」と書かないのはそれが描ききれていたという確信は持てないからだ。

今この作品について論じようと思っても台詞の殆どを思い出せないことに気づく。5人の若い男女が登場していても殆ど対話としては、言葉は交わされず、観客の方を向いたモノローグが殆どで、しかもそのモノローグは、幾つかを除いて、岡田の他の作品(たとえば「ホット・ペッパー」)のようには「反復」されない。またそれらのモノローグは時間系列的にも繋がっていない。それぞれの語り手が自問自答という形式で語るため、対話はわずか一回か二回を除き行われない。

そのわずかな対話は「旅行」を巡るもので、「旅行」は「日常」の対立概念として使われていることが次第に明らかになるが、実際に旅行する行為が行われるのではなくただ「旅行」について議論が展開するだけである。

上のない大きな額縁のような枠の向こうには机と椅子があり、その向こうには大きなスクリーンがあり、そこから少し離れた横には小さなスクリーンがありその前には二つ椅子があり、その椅子に向けて2つのビデオカメラが据えてあるという非常にストイックな舞台装置である。

岡田自らが「幾つもの層(レイヤー)」をつくりたかった」と説明したように、語っている時間と語られている時間も、空間も、重層化される。それ以上に語り手自身の身元も性別も、その目の前に見えている男女ではなく、そこで発せられる言葉によって観客の想像力が作りだす人物を表していることになる。

上演後にある観客から「ゾウガメの…」という劇の題についての質問があり、「地下鉄に乗っていたら250年もたっていたという浦島太郎のようなことが語られたからそうなのかなと思った」(正確には覚えていません)ということについての確認があり、それに対し岡田は、最初はそんなことは考えてなかったが、それでいいのかもしれないと思うようになったと答えた。抽象絵画におけると同じように、劇においても題は非常に重要であり、題によって観客はすでにいろいろ想像力を働かせる。台詞においても演技においても断片化された作品も観客が古くから親しんでいる「物語」という「持続する時間」という神話を断片の接着剤のように使っているのかもしれないと思った。

実はこの非常にミニマルな演出を観ていて思ったのは、何度か観た現代では古典的な、ベケットの「ゴドーを待ちながら」である。木が一本たっているだけの舞台を二人の浮浪者が、ただ語りながらゴドーと呼ばれる人物を待っている。他の人物も現われるが殆どその浮浪者の行為として展開するようなものは起こらない。

それを見るたびに思う。これは前にこのブログで、昔清岡君がフランス語劇として演じたパロディの「赤ずきんちゃんを待ちながら」について書いたが、「時」の重みに耐えて生きる「生」の裸の姿を表した劇が「ゴドーを待ちながら」だと思ったのだ。

正確には思い出せないのだが、今世界で起きている出来事について考えると今の自分が別なものと繋がっていると思える、といった内容のことを語る台詞があった。「日常」は「日常」とできるだけ遠く離れた世界や出来事を思うことでその重み、傷みを束の間忘れることができ、そうすることで「日常」を送れるのではないか? わたしたちは、いま起きているエジプトの騒乱のニュースをテレビで見ることでしばし「日常」を忘れ、そうすることで今日も無事何とか送れるのかもしれない。

帰りの新幹線の時間を気にしながら途中まで聞くことができたアフタートークはとても面白かった。自分が質問したのは、5人の俳優の劇内での関係性についてである。というのは最初に、椅子に座ったひとりの女性の横に無言で椅子を置くという動作が何回か繰り返されたとき、椅子が置かれようとしたその場所に別の男性が立ち、邪魔をするような行為がなされ、「葛藤」が生まれこれからどう展開するのかと思ったのにそこでその行為は断ちきられたまま、二人の関係も生まれないままであったからだ。

岡田によれば、それぞれの俳優が舞台上では等しく価値を持ち、台詞を発していない時でも存在感を発揮しなくてはならないと考えており、どんな行為も舞台上では意味を帯びてしまうのだということに意識的であらねばならないと思っているが、今回の劇においてはぼくの期待するような人物同士の関係性は排除しているようだった(正確に覚えてなくてすみません)。

いわゆる「劇的なもの」と正反対の「日常」そのものを劇で表現しようとしている岡田利規とチェルフィッチュの作品にはこれからも注目していきたい。(2011年2月13日。番場 寛)

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